クロスワード・サークル <8>



 ビニールハウスを障壁にして、隠れて様子を探っていた由子が立ち上がり、背後から声をかけ
た。
 ゆっくりと振り向く彼。
 スーツにアタッシュケースという姿は、まるでここにはそぐわなくて、内心彼女は滑稽さを感じて
いた。
 セリザワはなんとか無表情を維持した由子を瀬踏みするようにじっくりと観察する。
「誰だ、君は。ターニャ・リピンスキーとは似ても似つかないが」
 自制された怒りがこもっている。無理もないことだと思い、率直に「彼女の友達だよ」と応じる。
「彼女の顔を知ってるの?」
「いや。ロシア人だと聞いていたんでね。この茶番を仕掛けたのは君か?」

 このやり取りを確認して、薫は陽子へ連絡。陽子は梢と葉野香へ予定の指示を出す。

「失礼はお詫びするわ」
 さらにセリザワを挟む形で、やはり隠れていた薫が姿を見せる。不意に後方を塞がれた彼は
さすがに狼狽したのか、どちらにも背中を向けまいと半身になった。
「なんなんだ? 君達は? 人をあちこち連れ回した挙げ句、こんなところに誘い出して。僕は
ターニャ・リピンスキーに話を聞きたいだけなんだぞ」

 わざと彼から視線を外して10秒ほども無言を保った薫。
「国務省の役人が、どうして?」
「仕事は関係ない。リョウのことで知りたいことがあるだけだ」
「何を?」
「君らに話す必要はない。ターニャ・リピンスキーはどこなんだ? 彼女じゃなければわからない
ことなんだ」

 焦りか、不安か。
 セリザワの額には汗が滲み、いくらか前髪が張り付いている。
 偽装か、演技か。
 2メートルほどの間合いを置いて、剣道の試合すら思わせる相手の出方を窺う探り合いがされて
いた。

「あなたが電話で話していたのは間違いなく彼女よ。もう切ってあるけどね。彼女には身の危険が
迫っているの。あなたと会わせても安全だと確証がなければ、案内はできないわ」
 セリザワの細めの眉がぐいと跳ね上がった。
「危険? 彼女にもか?」
「も、とはどういう意味?」
 聞き逃せない表現だった。
「リョウの行方がわからない。誰もまったく連絡がつかないし、彼を調べて追っている危険な連中が
いる。だから僕はここまで我慢して来たんだ」

 ターニャと面会させるかの最終決断は、薫がすることになっている。ここで少しでも疑わしい振る
舞いがあれば、「彼女を連れてくるから待っていて」と、ここにセリザワを置き去りにして全員が撤収
する。

 この男は、嘘をついているだろうか。
 落ち着きはないが、この状態ではむしろ自然だ。
 臆病な人間がよくするような、どこかに逃げ口を探すような目つきもしない。
 手足の震えもない。

 実際のところ薫たちはターニャと彼を会わせたい。彼の情報が欲しい。
 態度から推量する限り、彼はターニャ以外に話をするつもりはないようだ。
 もしこれが罠なら、罠を逆用するしかない。

「身体検査をさせてもらうわ」
 まるで患者に血液検査でもさせるような、拒否を認めない口ぶりで薫は言った。
「は?」
「あなたが武器を持っていなければ、これから彼女に会わせてあげる。いいわね」
「そんなもの持ってはいない。好きにするがいい」
 憤然と両手を広げてみせる彼に、近づいた由子が服の上からボディチェックを始める。若い女性
だけにある一部には抵抗もあったが、手を抜かず金属的な感触の有無を調べる。皮靴を脱がせ、
ベルトのバックルを外させ、胸ポケットのボールペンまで分解する。武器だけではなく、電波の発信
機のようなものも見落とすわけにはいかない。

「鞄の中身も確認させてもらうわ」
 セリザワは初めてためらいを示した。
「中には文書が入っている。仕事の書類だ。公式なものではないが、国の機密に関わる内容が
含まれている。決して読まないと約束できるか」
「あなたの仕事に興味はないわ。どうせ英語はわからないし」
 さらりと嘘をつく薫。セリザワの顔の筋肉はぴくりともしなかった。彼が5桁のナンバーロックを
合わせ、さらに鍵を差し込んでアタッシュケースを開いて由子に突き出す。

 英語ができないと思わせていた方が油断させられる。独り言などで本音を漏らすかもしれない。
もし彼が、梢のパソコンに侵入したようにこちらの動静を探っている連中と繋がりがあるならば、
二人が英語を使えることぐらいはとっくに調べ上げているだろう。知っていれば反応するはず。

 この無反応は嘘だと気づかなかったのか、
 看破して気づかないふりをしているのか。

 鞄には確かに英文の書類と筆記用具ぐらいしか入っていない。2重底になっている部分なども
なかった。
「もういいよ」
 閉じて彼に返す。
 セリザワにはほっとした様子もなかった。疑り深いことだと、半ば呆れているようだ。

「じゃ、案内するわ。私の後をついてきて」
 背を向けて歩き出す薫。
 あまりに相手のペースで話が進むことに抵抗を感じるのか、「ちょっと待て。君らは誰なんだ?」
と、セリザワは立ち止まったままだ。
「言ったでしょ。彼女の友達だって」
 振り返りもしない。その返事は冷ややかだ。
「それを証明できるのか?」
「彼女に会って、あなたが聞くしかないわね」

 さっさと農場の外へと歩き出す薫。
 撫然としながらも、やむなくその背中を追うセリザワ。
 さらに後方を、由子が油断なく歩く。

 薫が携帯を出した。
「こちら紺。接触に成功。予定通りでいい?」
「黒と紫が様子を見ているけど問題はないわ。そのままで」
「了解」
 農場の裏口に、薫が借りておいたレンタカーを停めておいた。近づくものがいないか、病院前から
移動していた梢と葉野香が見張っていたのだ。
 平凡な国産のセダンを前に、由子がセリザワへ手を突き出す。
「携帯電話を渡して」
「なぜ」
「袋に入れるだけだよ」
 由子がポケットから出した巾着袋は、内側にアルミホイルを厚く貼ったものだった。もし携帯が
なんらかの発信機になっていてもこれで信号は届かなくなるはずだ。

 後部座席のドアを開け彼を乗り込ませ、反対側のドアから由子が隣に座った。リヤウィンドウには
車内の様子がわからないようにカーテンをかけてある。
 二人の位置が定まってから薫は運転席に座った。
「それじゃ、これを着けて」
 由子がまたポケットから、今度は黒いアイマスクを出した。当然の反応だろうが明らかに彼は
怯み、狭い車内で腕を振り上げて由子を睨む。
「ちょっと待て、君らは僕をどうするつもりだ。僕はアメリカ合衆国の政府職員だ。誘拐なんかしたら
外交問題になって、日本のポリスだって全力で捜査する。悪事を企むなら相手が悪いぞ」
 ステアリングに両手を乗せ、薫はバックミラーを使ってセリザワの瞳を見た。
「そんなつもりはないわ。私たちはあなたがターニャに会いたいというから案内するだけ。でも、
あの子がどこにいるかを知られたくないの。あなたに害意がなければ、こちらもあなたをどうも
しない。それで不満なら、いつでも降りていいわ」
 由子の仮面をつけたような顔と薫の後頭部、渡された布製のアイマスクを躊躇しながら見比べて
いた彼だったが、渋々という態度を顕示するようにゆっくりと装着した。
 アクセルを踏み出した薫は、でたらめな道順で札幌市内を走行して、尾行もないと判断してから
目的地へ向かった。

 30分ほどで車が滑り込んだのは、札幌市営円山球場の駐車場。人影のない場所に僅かな時間
だけ車を停め、すぐに由子とセリザワを降ろして再び発進。アイマスクを外させた時、もう車も薫の
姿もない。彼女はこれから暫くでたらめに車を走らせることになっている。まだいるかもしれない
尾行者に、目的地がここだとわからせないためだ。

 もうプロ野球の公式戦も行われなくなった球場は、どこかの大学だか専門学校だかのサークル
らしいチームが試合に使っていた。
 時折響く金属バットの球音とまばらな歓声。

「野球は好き?」
 由子は気まぐれにそう聞いてみる。
「僕はアメリカ人だぞ」
そう即答された。

 観客席の出入りは料金を取るようなイベントでもない限り解放されている。だからといって関係者
以外の観客などいるはずもない。

 通常なら。

 内野スタンドの端、ライトのポール近くに陽子とターニャはいた。

 実は薫以外のメンバーもここにいる。階段の蔭に隠れていたり、バックネット裏で観戦を装ったり
しながら。セリザワを先に歩かせながら、由子はそんな姿を確認した。
 ここまでは、うまくいった。
 あとはターニャ次第だ。

「あれが、ターニャ・リピンスキーか?」
 帽子を被っている彼女を遠目に見て、セリザワが尋ねた。
「彼女には丁寧に接すること。指一本触れても、話は終わり。いいわね」
「そんなことするもんか」
 プライドを傷つけられたように強く息を吐く。
「じゃ、行きなさい。私はここで見ているからね」





トップへ
戻る



クロスワード・サークル <9>