クロスワード・サークル <7>



「了解」
 陽子からの電話を切り、黒=葉野香は紫=梢に、目標がこちらに向かっていること、だいたいの
外見風貌、そして単独行動のように思われることを伝えた。

「じゃ、ここまでは順調なのかな」
「う〜ん。どうもセリザワの方が不機嫌になってきてるみたい。それがトラブルになるかもしれない
な」

 二人は大学病院の敷地内にあるベンチに座っていた。薫が貸してくれた白衣を纏って。医学部の
学生が休憩時間に寛いでいるように見せるためにだ。この時期は夏休みで他の学部の学生は
少ないし、どう見ても健康そうな二人が病院近くをうろうろしては人目を引く。松を隠すなら松林の
中という古言に従って装ったのだ。梢はいささかコスプレ気分を楽しんでいるようだが。

 目標がすぐにタクシーに乗っていれば、そろそろ着くはずだと思い始めた頃、それらしい客を
乗せたタクシーが病院前の降車場に入ってきた。

 二人は手元に広げたノートを見ながら打ち合わせをしているふりをしながら、横目で観察する。
「なんか、普通の人じゃん」
 そう呟く梢。

 顔がわかるほど接近したのは梢と葉野香が初めてだ。葉野香の印象も似たようなものだった。
 ブラウンのサマースーツにネクタイ姿。
 手にはありきたりの黒いアタッシュケース。
 170cmをいくらか越えたぐらいの背丈。
 中肉中背。
 俳優のような二枚目ではない顔立ち。
 丸めの輪郭に少し下がり気味の目。
 友達に紹介されたら、「悪くなさそうな人だね」といった感想を抱くだろう。写真の葛城梁のような、
危ういまでの鋭さは容貌にない。眉にかかる栗色の前髪をかきあげる仕草はどう見ても、朝の満員
列車に詰め込まれているような、どこにでもいる日本の若いサラリーマンだ。
 二人の座る方向へも視線が向いたが留まることはなく、手中の携帯電話をしきりに気にして
いる。

 梢が葉野香の目配せを受け、携帯を取り出す。通話している姿から感づかれないように、ここ
ではメールで陽子への連絡をする。
「紫の空に虹が見えてます。とても綺麗です」
 『綺麗』というのは、同行者や護衛のような人がいないことを示している符丁。発信したものを
含め、誰かがいた場合のメッセージも予め用意してあったので、送信には10秒ほどしかかかって
いない。

 ここでの二人の目的は、セリザワが単独行動であることの再確認。決して接触はせず、見張る
だけだ。それは万一の場合に薫たちも含めた四人の脱出ルートの確保でもある。本当は大通公園
から尾行をつけたかったのだが、人員不足でそれは断念せざるを得なかったのだ。

 病院玄関前で、病院内は携帯電話が使用禁止になっていることで中に入ったものか迷っていた
セリザワの携帯が、握ったままの手の中で鳴り始めた。

 梢も葉野香もどういうコールがわかっている。彼は周囲の目を気にしてか、足早に正面玄関を
離れてから携帯を耳に当てた。
「もしもし」
「病院前に着きましたか?」
「ああ。このゲームはいつになったら終わる?」
「病院の正面から左手に出てください。そうすると敷地の案内板が見えてくるはずです。このまま
切らないで向かってください」
「そうかい」

 不満からか、そう応じるだけで何も話してこない相手。
 一言でも詫びようかと思ったが、陽子はそれを制した。謝罪はあとでいくらでもできる。これから
最も用心すべき部分に入るのだから。

 セリザワは知らないはずが、指示されたコースは病院から離れて大学の敷地へと続いている。
歩きながら、何度も回線の向こうのターニャに質問を投げかける彼。
「今、君はどこにいるんだ」
「ここに君は何か関係があるのか」
「僕に何をさせようとしているんだ」
「どうしてなにも教えてくれないんだ」

 そのどれにも、ただ「話せません」としか答えることのできないターニャの表情は鈍く曇った。

『虹がかかりました』
 彼の背中を見送り、そうメールを送る梢。まだ二人の行動は終わりではない。

 5分ほどで、「案内板の前に着いたぞ」との声。
「では、右に折れて、最初の角を左です」

 由子からの連絡。
「赤、虹を確認。問題無し」

「それで」
「右手のフェンスに出入口があるはずです」
「・・・・・ここか」
「そこに入ってください」

 彼は緑のビニールで被覆された針金で編まれた格子状の扉を押した。そこには『北海大学第一
農場』という掲示がされている。農学部の実験農場だ。野球場がいくつか入るほどの面積がある
のだが、ところどころにビニールハウスもあり、見通しはそれほどよくない。植物に挟まれた通路は
どこも狭く、迅速に動いたりすることは容易ではない。初めての人間ならなおさらだろう。ランデブー
地点として薫にここを選ばせた理由だ。

 キィと油が切れてしまったと不平を鳴らしながら、扉が自重で閉まる。
 土と緑がペアを組む、農地独特の匂いが風に乗って漂っているのを感じるセリザワ。
 しかし彼に、そこから郷愁や少年時代を想起する余裕はなかった。

「入ったぞ。それで今度はどこに行くんだ? 穴でも掘って君を探すのか? それとも振り出しに
戻って一回休みか?」
 皮肉が電話口に響いた。

「その必要はないわ」





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