クロスワード・サークル <5>



 これからの作戦の骨子はこうなっている。
 セリザワをこちらの指定する場所へ指定の時間に呼び出し、予定時間が過ぎてから場所を携帯
で指示して移動させる。メンバーが遠距離でその様子を観察し、セリザワの仲間と見られる存在を
探す。もしいれば、一緒に動くだろうから見分けられる。

 第二の待ち合わせ場所で、待ち受ける誰かが彼のみを釣り上げ、別の場所へ連れ出す。

 そしてターニャと会わせる。

 こういう流れだ。

 最初の待ち合わせ場所はこちらの油断を想定させるために、敢えて混雑する大通り公園。次の
待ち合わせ場所は北海大学のキャンパス内の、人気のない所とした。慌てて監視者が集まれば
すぐにわかるように。

 各人の役割はこう。
 第一のポイントで監視するのは琴梨と鮎。
 第二のポイントで先回りしておくのが梢と葉野香。
 セリザワを連れ出すのが由子と薫。
 携帯電話によって全体の連携を束ねるのが陽子。彼女はターニャとともにセリザワの到着を待つ。

 携帯電話での会話も盗聴が可能だという梢の指摘から、短く、曖昧な表現と合言葉を使うことも
決めた。固有名詞もそれぞれが名前を呼び合うことも禁止。コードネームを使うことになった。

 ターニャは「青」
 琴梨は「緑」
 鮎は「白」
 葉野香は「黒」
 薫は「紺」
 由子は「赤」
 梢は「紫」
 陽子は「朱」
 そして対象人物は「虹」である。

 さらに細部を打ち合わせ、計画に穴がないように多方面から検討を重ねて練り上げてゆく。所用
時間や移動ルート。そして予想外のことが起こった場合の対処法なども全員が間違いのないように
把握する。文書にしてしまうと、どこかで落としたり誰かに見られたりするかもしれない。頭脳が頼り
だ。

 現場の下見をしたいところだが、尾行されてこちらの意図が暴露されたら元の木阿見。普段から
の札幌市民としての地理感覚に期待するしかない。梢と由子が北海大学のキャンパス内を見た
ことがない点が不安視されたが、薫が地図を書いて可能な限り詳細に建物や歩道、樹木の位置を
説明してあった。

 広げた地図の上に指を滑らせ、繰り返しそれぞれの行動を確認し終わったころには、もう太陽は
オレンジの筆で豊平川を塗り替えていた。休日を楽しむ市民の姿もまばらになり、川面を走る風は
肌寒さを連れてくる。
 暗くなる前にと、今日はここまでとして何人かずつのグループに別れて家路へと向かう。

 作戦決行は、明後日。
 仕事のある全員が職場に都合を付けて、時間を確保してあった。


 この日も、やはりターニャは薫のマンションへ。
 フィアット・バルケッタの車内では一人で考えたいこともあるだろうと、薫は話しかけないでいた。
いくらか疲れを自覚していたこともあり、この日の夕食はファースト・フード店のドライブスルーで
調達して帰った。この手のジャンクフードが健康に与える悪影響はわかっているが、自分の料理の
腕がどれほどの栄養価をもたらしうるかも悲観的に想像がつく。

 部屋に戻ってからは、まず不在中に何者かが侵入していないかのチェック。わざとずらせておい
た玄関マットの角度は変わっていない。ドアノブの上に乗せておいた自分の髪がそのままになって
いる。
 どうやら安全のようだ。

 こうしてようやく食事にとりかかった二人。時計の針が6時を指す頃、ターニャが「テレビを付けていいですか。ニュースを見たいんです」と言った。
 頷いてリモコンのボタンを押す薫。
 日曜のこの時間、ニュースはNHKでしかやっていない。政治、経済、外交、司法、事件、事故、
そして休日のほっとするイベントが紹介される。そのすべての内容を、ターニャは見逃したくない
かのように視聴していた。

 それはどこかに葛城梁の姿を探しているようでもあり、葛城梁のことを考えたくないが故の逃避
にも見えた。ただ、薫は彼女を自宅に泊めてから気づいたことがあった。
 ターニャの旺盛な知識欲である。
 今のように、テレビを見たいという時はいつもニュース。
 朝は配達される新聞を一面から最終面まで読む。

 彼女の話だと、ターニャはロシアの小学校に相当する学歴しかない。移民してからどういう事情が
あったのかはわからないが、日本の中学に編入することはなかったらしい。それでも日本語の新聞
をきちんと読むことができている。学歴がないことのコンプレックスの表出というより、どんな形で
あれ勉強がしたいのだろう。視線の移動を観察していれば、ただ文字を追っているのか内容を
理解しているのかはすぐわかる。もちろん彼女は後者で、日本語能力と社会知識はかなりのハイ
レベルにあるはずだ。それは、全く違う文化圏で暮らす弊害を減らすにも役立ったに違いない。

 ふと、ターニャと薫の視線が合う。
 瞬間、空の青と森の緑が混色する瞳が陰る。
 怯んだような表情になるのは、ずっと横顔を見られていたことに気がついたからだろう。
「どうか、しましたか?」
「具合はどうなのかなって思っていたの。体のね。どう?」
「大丈夫です」
「明日はゆっくり休んで、明後日のために疲れを抜いておいてね。どう転ぶかわからないから。
作戦を考えた私が言うのもおかしいけれど」
「はい。そうします。でも、きっとうまくいきますよ。あんなにみんなで考えたんですから」
「だといいわね。ねえ、ターニャ。セリザワって人に会うのが怖い?」
「・・・・・」
 どちらとも言えなかった。
 セリザワが自分を狙っている相手の一人だったとしても、それは怖くない。
 この身に危険が降りかかっても、自分だけが傷つくなら。
 しかし、彼と会い、話を聞くことで、知らなかった梁の過去や現在のことがわかりそうで怖かった。

 優しくて誠実だった彼。
 冗談は言っても、嘘はつかなかった彼。
 その肖像が、どこまでも虚ろになってしまうようで。
 心に残る言葉のどれもが、ただの記号の羅列になってしまいそうで。
 『愛している』
 彼の逞しい腕に抱かれ、すべてを預けた時に囁かれた。
 どんなしがらみも義務も忘れさせてくれた。
 いつか塵に帰ってしまうとわかっていても、彼とだけの永遠の一秒を求めずにはいられなくて。

 流れてしまう涙の理由を、彼は決して尋ねなかった。

 ターニャが、海を見つめる時だけに見せる彼の悲痛な無表情の理由を尋ねなかったように。


 沈欝に考え込むターニャに、もう薫は何も語りかけなかった。食事の後始末をして、書棚から読み
かけの文庫本を取り栞を抜き出した。
 その無言が彼女流の優しさだとわかっていた。途中になっていた夕食を、麻痺したように味覚を
感じない口と舌で咀嚼するターニャ。
 それでも、彼女にはしなければならないことがあった。

 やがて薫はバスルームに消える。
 シャワーの雨音をしばらく確認して、彼女は携帯を鞄から取り出した。



「セリザワさんですか」
「そうだけど、ターニャ・リピンスキーだろ? 昨日電話くれた。君に話を聞きたいんだ。だから切ら
ないでくれないか」
「すいません。そうはいかないんです。あの、明日、札幌でお会いできますか?」
「札幌で? いいよ。今はまだ小樽のホテルにいるから」
「そうですか。では、明日になってから場所と時間を連絡しますから、札幌市内にいてください」
「今決めてくれたら・・・・・」
「明日、連絡しますから」
「ふぅ、わかった・・・・・しかし、リョウはどうなったんだ? 君なら・・・・・」
「すいません。失礼します」

 翌日の午前中。
 この通話は、ターニャが薫の部屋から携帯電話で葉野香の携帯にかけ、葉野香が公衆電話の
受話器と自分の携帯電話を密接させてセリザワにかけたものだ。
 薫は既に出勤している。
 他のメンバーも仕事先や学校にいるはずだ。
 この日は何も目立った活動はしないことになっている。

 セリザワとの出会いがいかなる結果をもたらすのか。

 それよりも、自分はどういう結果を欲しているのか。

 レースカーテンの隙間から、ターニャはただ空を見つめていた。





トップへ
戻る



クロスワード・サークル <6>