クロスワード・サークル <2>



 翌朝8時。
 日曜日で通勤ラッシュの騒音もない街をターニャは歩いていた。
 薫の部屋を出た時から一人で。

 中学校の前を通ると、グラウンドで朝練をしている生徒たちのかけ声が晴れ上がった青空に
似合っていた。まだ予定の時間には余裕がある。余分な時間を調整するんだと自分に言い訳を
して、フェンス越しにラケットを振る少女や、ゴールマウスへと次々にボールを蹴り込む少年たち
へと視線を送っていた。

 どうしても、考えてしまう。
 最後に学校の門をくぐったのはいつだろう。
 もしどこかでなにかが違っていたら、私もあの子たちと同じように学校へ通えたのだろうか。
 それとも、この世界に生を享けてから望むべくもない夢物語だったのだろうか。
 父も、母も、私を幸せにしようとしてくれた。
 そして私はここにいて、独りぼっち。
 どうすればよかったんだろう。


 どうしようもなかった。


 たったひとつだけの真実は、哀しすぎる。



 時間ぴったりに、地図で何度も場所を確認した喫茶店に入る。置いてある新聞に目を落とし
ながら待っていたのは葉野香だった。もちろん紙面に、葛城梁と関係のありそうな記事はなかっ
た。

 二人でパンと卵料理のモーニングセットを頼み、葉野香はコーヒー、ターニャは紅茶でゆっくりと
味わう。ここのパンは店内で焼いていて、とびきりに美味しいことを常連の葉野香は知っていた。
遅くまで営業しているラーメン屋の宿命で、兄夫婦の朝は遅い。どうしても朝食は自分で作らなく
てはならないが、一人分だけ作る手間を考えたら面倒すぎる。大学入学直後から朝からやって
いる店を探していて、校舎と自宅の中間にあったここを友達に教えてもらったのだ。

 常連であることのメリットがもう一つ。
 それはお客の顔に見覚えがあること。

 ただ尾行するだけならともかく、昨日の梢とのことを考えると監視者は会話の内容まで聞いて
いるのではないかという疑惑がある。
 ただ偶然会っただけで、梢のパソコンに侵入するだろうか。話を盗み聞きしたからこそ、ああまで
素早く自分たちと梢の関係を知ろうとしたとしか思えない。
 だから、最初の合流店をここにしたのだ。見慣れない顔があったらすぐにわかる。

 しかし食べ終わったお皿が下げられても、全く見たこともないお客というのは入店してこなかっ
た。いささか拍子抜けしながらも計画通りに店を出る二人。

 それからバスに揺られ、札幌の中心街にあるデパートへと向かう。その姿は、買い物に出かける
ありふれた友達同士にしか見えないものだった。
 開店直後のデパートは、不況という言葉が肌で感じられるほど賑わっていないわけではなかっ
た。家族連れやカップルが続々と硬質ガラスを押してブランドショップなどへと吸い込まれてゆく。
ターニャたちも鞄の店を眺めたり洋服を当ててお互いに見立てたりと、何か特別なことがあると
すれば、恋人を連れた男性客まで視線を奪われるほどの美人だいうことぐらいだった。「どういった
ものをお探しですか」と寄ってくる店員を適当にあしらいながら、予定の時間を待つ。

 昼前に何を買うでもなくデパートを出ると、今度は地下鉄に終点までの切符を買って乗車。空席も
あったが、二人はドアに寄り掛かる方を選んだ。

 停車するたびに開閉するドア。
 誰もがそうするように、無関心に会話を続ける二人。
 やがて、秘かな目的の駅が近づいてきた。
 そこは区役所などのある官庁街。当然休日に訪れる人など少ない。

 開き、乗り降りする人がいないのを残念がるように空気圧によって閉まるドア。
 閉まりきる直前。
 ドアの縁についているゴムの緩衝材に、葉野香が無理やり体をねじこんだ。

 ガシャンと機械のきしむ異音が車両の端まで轟く。

 まばらな乗客が何事かと、雑誌などから顔を上げて見ているのを無視して、安全装置によって
再び開いたドアから二人は降りた。
 そして左右へと視線を走らせ、自分たちと同じように慌てて降りた客がいないかを探す。
 いない。

 予想通り、場所柄もあって駅構内は昇降客もまばら。その少ない降車客もすぐに登り階段へと
向かっていった。ターニャたちはその流れから外れ、壁にもたれた。
 すぐに誰もいなくなったホーム。
 もし尾行していた人がいるのなら、ここでわかるはずだった。

 どうやら尾行はなかったか、あっても撒くことができたらしい。しかし、後者の場合はまだのんびり
できない。地下鉄の中では携帯電話は使えない。次の駅で降りて仲間に連絡するか、急いで引き
返して再び尾行しようとするだろう。
 それまでの時間は、最短で10分と見積もられていた。
「行こう」
 改札へと小走りに向かうターニャと葉野香。
「からだ、痛くないですか?怪我しませんでしたか?」
 気遣ってくれるターニャから、つい顔を背けてしまう葉野香。
「もう平気だよ」
「でも、顔が赤いです」
 正確に描写するなら、耳まで紅潮している。
「それは、恥ずかしかったから・・・・・」
 妙齢の女性にとって乗り過ごしそうになってドアに挟まれるというのは、わざとしたことはいえ、
非常に人目が痛いものだったのだ。

 コンクリートの階段を登りきり、薫に教えられたまま15mも歩くと、今日の目的地があった。

 それは街中に散在する透明の箱。すなわち電話ボックスである。昔からある緑色のものでは
なく、最近になってから設置されている国際電話もできるタイプのグレーの公衆電話だ。

 もう北海道は秋風が路上を走る時期だ。しかし、晴天で昼過ぎとなればボックス内の空気は
気温よりもかなり高くなる。設置の本来の目的からすると、あまりいいことではないと思いながら、
二人で使えるように身障者用の大きなボックスのドアを押すと、こもっていた熱気が溢れてきた。
とはいえ、涼しくなるまで待ってはいられない。我慢して入り、葉野香が用意しておいたテレカを
差し込む。
 かける相手は衛星携帯電話。いくらかかるかわかったものではないと、多めに貨幣も用意して
ある。

 ポケットから陽子から借りた小型の録音機、テレコを取り出して、電話機の上に置く葉野香。
後で内容などを検討するためだ。録音ボタンを押すと手帳を開き、名刺から書き写した数字を
打ち込んでゆく葉野香。
 ターニャは受話器に手をかけ、話すべき内容を脳裏で繰り返していた。

 最後の番号を押し、『通話』と書いてあるボタンへ指をかける。それを押せば、スティーブ・J・
セリザワの持っている携帯電話が鳴るはずだ。

 二人の視線が交わる。
 お互いに瞳の中から緊張の塊をはみ出させている。
「大丈夫。なんとかなるよ」
 そう無理に微笑んでみせた葉野香の喉も、乾いてひび割れてしまった。
 それでもターニャは頷いた。

 始まる呼出音。
 このタイプの電話は、相手が出てから受話器を取ればいい。
 しかし、持たずにのんびりと待つことなんてできずにターニャは耳たぶを潰れるほど受話器に
押し付けていた。
 手の震えが伝わってくる。
 無限に続くかと思える呼出音。
 そしてついに途切れた。

「Hello?」

 男性の声。
 目を見合わせる二人。英語だ。
 しかしセリザワ本人なら、日本語が話せるはずだ。
「もしもし」
「・・・・・もしもし」
 今度は日本語が返ってきた。

 葉野香は意識を電話から外へと向け、自分たちを見張ろうとしてくる存在が現れないかどうか
警戒する。そうしながら腕時計で通話時間を計る。電話の内容は気になるが、二人で受話器に
噛りついていても仕方ないし、ターニャの背中を守るのが今日の彼女の役目。
 最新技術で逆探知のできる相手だとすれば、2分以上の通話は危険らしい。まさかNTTまで
私的に利用できるほど強大な組織が相手ではないだろうと思いたいが、その可能性を否定できる
根拠もどこにもなかった。


 秒針よりも早く、鼓動が打ち鳴らされていた。
 ターニャの心臓も。

 話をするのが恐い。
 『間違えました』と言って、受話器をフックに戻してしまいたい。
 そうすることで、全てが封印されてくれるなら。
 本当の葛城梁を知ろうとしなければ、みんなが元の穏やかな毎日を取り戻せるなら。

 でも、そうはいかないことがわかっている。

 そしてこの瞬間のために、川原鮎さんは桜町由子さんと小樽へ行っている。
 椎名薫さんは里中梢さんを連れて事故のあった高速道路にいる。
 春野陽子さんと琴梨さんは、あの誘拐という恐怖を背負いながらも、犯人が持っていた銃を特定
できないかとモデルガンを取り扱っている店へと足を運んでいる。
 それぞれに目的はあるが、この電話を成功させるために、限られているはずの相手の監視要員
を引き付けようと敢えてこちらの意図が明瞭にわかるように動いている。

 ここで怖じ気ついていたら、みんなが逃げないで脅威と立ち向かっていることが無意味になって
しまう。

 ごくりと息を呑み、尋ねる。
「スティーブ・J・セリザワさんですか?」
「そうですが、あなたは?」
「ターニャ・リピンスキーと言います」
 はっきりと名乗ると、相手の衝撃が電話線を通じて伝わってきた。
「おおっ! 君か! よかった、やっと連絡がついた。困っていたところだったんだ」
「いま、どちらにいらっしゃいますか?」
「小樽のホテル。△△△△△ホテルという名前だよ」
 駅からすぐのところに、そういうビジネスホテルがあったのをターニャは思い出した。
「私は、あなたを知りません。どうして運河工芸館にいらしたんですか?」
「あれ? 僕の名前を聞いてないかい? リョウから」
「梁?」
「そう。リョウ・カツラギ。君の恋人だろう?」

 疑いもなくそう断言されて、どう答えてよいかうろたえるターニャ。今は自分と彼のことより、この
電話の相手のことを聞かなくてはならないんだと戒める。

「あなたは、彼とどういうご関係ですか?」
「友達さ。大学でずっと一緒だったんだ」
「大学?」
「サン・ノゼの。それからの付き合いさ。聞いてないわけじゃないんだろう」

 セリザワの返事は、まるで警戒心を感じさせない。新聞記事でも読み上げるようで、秘密でもなん
でもないらしい。
「そう、ですか・・・・・それで、どうして私を訪ねてきたんですか?」
 聞かねばならない話に戻す。それはセリザワにとっても伝えなくてはならないことだったらしい。
これまでで最も真剣な口ぶりになった。
「どうしてもリョウに会う必要があるんだ。しかし居るところがわからない。君なら知っていると思っ
た。どうだろう? 知っているなら教えてくれないか?」

 時間だよ、と葉野香が腕時計の文字盤を突ついて教える。
「今、都合が悪いのでまたあとでかけます。失礼します」

 返事を待たずに、葉野香がターニャの手から受話器をもぎ取りフックに掛ける。そして「出るよ」と
ドアを押し開けた。考えたいことや話したいことはいろいろあったが、まずはこの場所を離れるのが
先決だ。

 離れるといっても、一目散に逃げるわけではない。少し離れた物陰から使った電話ボックスを
窺うのだ。もし逆探知されていたとしたら、何者かがそこに急行してくるはずだ。その有無を確認
しなくてはならない。

 20分ほども待ったが、通りすがる人影にも車にも怪しげなものはなく、電話ボックスを利用する
人もいなかった。

 いくらか安心した二人は、携帯で琴梨、由子、梢へと無事の連絡を入れた。どの組も調査を終え
て、今日の集合場所に着いているか向かっているかというところだった。
 ほっとしたせいか、空腹を感じた葉野香たちは昼食を取ってから向かうと伝えて通話を切った。





トップへ
戻る



クロスワード・サークル <3>