第4部 クロスワード・サークル



 新しい協力者の加入に合わせて、一通りの自己紹介と挨拶を済ませた一同は、再び捜査会議
とも呼べるものに戻った。

 最大の焦点は、一枚の名刺だ。
 薫がしなやかな指先をカジノの名ディーラーのように反らせて、テーブルの中央にそっと置いた。

  Department of State Foreign Affairs Network
  DEPUTY DIRECTOR JAPAN
  International Trade & Industry STAFF to Steve J' Serizawa

  『国務省外交局 日本課課長補佐 通商産業担当スタッフ スティーブ・J・セリザワ』
 昨夜、大学時代に使っていた辞書のページを繰り、確認した日本語訳を琴梨のノートに記して
見せる。
 それでもいまいち意味が飲み込めない何人かには解説が必要だった。入手へと至った過程、
小樽工芸館に現れた所持人の外見、そして当のターニャには全く自分との関係がわからないこと
が伝えられる。

「どうやらこの名刺の人は、アメリカの外交関係の公務員らしいわね。想像になるけれど、日本と
アメリカの貿易を調整したりする仕事なんじゃないかしら。どれぐらい偉いのかはわからないわ。
課長補佐だから下っ端じゃないかなとは思うけど、役所ってやたらとなんとか補って人がいるから
ね。あくまで、この名刺が本物だとした場合だけれど」
 権威主義というのか、きちんと印刷されたものは疑わない日本人の癖に注意を促す薫。

 果たしてスティーブ・J・セリザワなる人物の目的は何か。
 この時期にターニャに会いに来たというタイミングを考えれば葛城梁との件と無関係なはずは
ない。しかし、葛城梁とターニャの関係を知る人間は少ない。どうやって彼女を突き止めたのか。

 彼もまた、この謎を調べているのだろうか。
 警察?
 ジャーナリスト?
 それとも、陽子誘拐犯の一味なのか。
 葛城梁を撃った相手の関係者だろうか。

 名刺が本物だとした場合、アメリカの役人が訪問してくる理由がわからない。仕事とは無関係
だとしても、彼女と繋がりがないことは変わりないのだ。
 偽物だとすると、どうしてアメリカの役人を名乗るのかがわからない。こちらを安心させようとして
の偽装なのか。だとしたら、既に手負いの母熊ほどに警戒しているターニャたちにはまるで効果は
ない。

 意見は尽きなかった。しかしもそれがたとえ重大な事実を内包しているにせよ、一枚の名刺から
結論に至ることができるはずもない。
 結局のところ、連絡を取るか取らないかのところに終着する。
 罠か。
 囮か。
 好機か。
 危機か。

「ちょっといい?」
 由子が手を伸ばして名刺を取る。そしてすらすらと英文を読み上げた。
「書いてあることは間違ってないねぇ」
 表裏をしげしげと見つめる彼女を、さらにしげしげと見つめる琴梨や葉野香。
「ん、なに?」
 視線に気づく由子に、「英語、喋れるんですか、すごいですね」と琴梨。
「自衛隊でやるんだよ。日常会話とか読むだけならできるんだ。難しい文はわかんないけど」
 尊敬の眼差しに少しはにかむ。
「この住所はきっと国務省なんだろうね。ワシントンDCだし。電話番号、上のはオフィスだろうけど
下のは・・・」
「自宅じゃない?」と鮎。
「ううん。この番号からすると携帯。でも普通のと少し違うんだよね。アメリカでかけたことあるけど、
これより桁が少なかったような気がする」
 ぱん、と手を打ったのは梢だった。
「あ、衛星携帯電話じゃない? 世界中どこにいても繋がるってやつ」
「衛星携帯電話?」
「そうそう。普通の携帯って中継局がその辺にあるじゃない。これは、近くにアンテナがなくても信号
を人工衛星に打ち上げて通話できるんだよ。日本にも入ってきてる。結構高いんだ」
 彼女が言うのだから、よっぽどの値段なのだろう。しかしセリザワなる人物が外交の仕事をして
いるなら、持っていても不思議はない代物だ。

「梢さん、今、世界中どこにいても、って言ったよね。じゃ、ここからでもかけられるってこと?」
「だと思うよ。衛星放送の衛星みたいに一つだけで運用しているわけじゃないから、月の位置が
どうとかって問題もないしね。試しにかけてみよっか」
「駄目駄目っ! そんな不用意な!」
「あははっ、わかってるよ。慎重の上に慎重に、でしょ」
 慌てる葉野香に悪戯っぽく笑ってみせる梢。そんな彼女に顔をしかめてみせたが、軽々とした
梢の行動はどうにも憎めないものだった。もうすべての事情を話してしまったので、改めてこちらの
安全を確保しながらミスター・セリザワから事情を聞く方法を尋ねようと思った時に、薫が呟く声が
聞こえた。
「・・・・・なのよね」
「え?」
 見ると、彼女は左手の指を幻のピアノでも奏でるかのように非定型にさまよわせながら、なにやら
誰に聞かせるでもなく独語をもらしている。その目線は中空に置かれ、どこにも留まる様子がない。
集中して考える時の癖なのだろうか。
「・・・・・そうね。そうしましょう」
 葉野香につられてみんなも思い思いの発言を止めて彼女を注目していた。
「跡をたどられやすいE-Mailより、電話の方がいいわ」
 とん、と思考にピリオドを打つように、中指で年輪の流れも鮮やかなテーブルを弾いて、顔を
上げた薫。同時に、自分がじっと見つめられていることにようやく気づく。
「ん? どうかして?」
「い、いえ。なにか思い付いたんですか?」
 いささか収めにくい状況を質問でごまかす。
「ちょっとね。みんなの手を借りてやってみたいことがあるのよ」

 梢の言葉から浮かんだ着想をまとめながら披露すると、感嘆のざわめきが場に広がった。
「なんか、スパイ大作戦みたいですね」
「そうね。それぐらい真剣にやらないと」

 明日の実行のためにそれぞれの役割を決めたところで、今夜のところは解散とすることに
なった。
 最後にと、陽子が「みんな、尾行にはくれぐれも注意してね」
そう呼びかけた。今更言うまでもないことだが、まだ危機意識の不十分な梢には特に気を配って
もらわなくてはならない。
「はーい」と、ポケットから車のキーを探しながら気楽に応じる梢が不安になった陽子は、「梢さん、
あなたここに来るまで尾行されていたのわかってる?」と告げた。

 手の動きが止まる。
「えっ? 嘘でしょ?」
「由子さんが、琴梨ちゃんと鮎ちゃんと合流してからはずっとあなたたちを見ていたの。あなたに
尾行がないかどうかを調べるためにね」
 言われて、そういえば桜町さんは自分の後からこの喫茶店に入ってきたなと思い出す。
「幸い誰もつけている人はいなかったけど、あなたは由子さんが尾行しているなんてわからなかっ
たでしょう。監視を見破るのは難しいの。ルートを変えたり、いろいろと工夫と手間をかけて。
自分の安全のためによ」

「あ、尾行のことなんだけど、少し考えたんだ。聞いてくれない?」
 散会する前に由子が言った。
 陽子誘拐事件以来、誰もが尾行と監視に可能な限りの用心をしているが、まだ誰も尾行者を
発見できていない。確かに人混みの中から一人か二人の不審者だけをピックアップするのは
容易なことではないのだが、人通りの少ない場所を歩いても見つからないのも妙だ。

 梢のパソコンの一件を考えれば、今日の昼間、食事をしている時の四人を誰かが見ていたのは
間違いのないところだ。ネットカフェでは他に客はいなかったし、外からでは会話をしていたことも
わからないだろう。

 しかし、葉野香も琴梨も鮎も監視の事実に気づかなかった。
 どういう手段を使っているにせよ、所詮素人の自分たちに尾行を見破ることなどできないのでは
ないか。
 それならば、尾行を逆用することを考えた方がいい。こちらが尾行を撒こうとすれば、敵方はより
一層巧妙にやってくるだろう。
 普段は尾行を敢えて気にせず、相手を油断させていざという時に監視を外した方が有意義だ。
 陽子誘拐のような事件を避けるために四囲の安全には注意し続けなくてはならないが、こちらが
明日のようなことをする時以外は、監視を恐れない方がいい。
 今日のこの会合だって、苦労して尾行されないように集まっては来たものの、それほど大きな
収穫があったわけではない。実際、調査を続けていても葛城梁の正体も居場所も五里霧中。
スティーブ・J・セリザワが無関係だった場合、もうどこを調べてよいかわからないのだ。こちらが
周到に行動すればするほど、敵は疑心暗鬼になって最悪のケースを想定して激発されかねない。
たかが女子供の集まりだと思われていた方が好都合でもある。
 だから、あまり意味ありげな行動は避けて、日常にちょっと用心する程度の態度を維持すべき
だと思う。
 それが由子の意見だった。

 少し考えて、薫も同意を示した。
「確かに言えているわね。『いざという時』の見極めは難しいけれど、いつもいつも神経をぎりぎり
まで使っていたらこっちが参ってしまうし。再襲撃の可能性があるから春野さんたちは今のままで
いいと思うけれど、私たちは程々にしましょう。もし尾行している人を見つけても、こちらから接触
しないで泳がせておく方がいいわ。こちらが何もわかっていないと思われた方がいいんだから」

 何もわかっていないというのが事実と大差ないだけに、最初からこの件に関わっている葉野香
としては悔しい。
「尾行なんてなければもっと身軽に動けてやりやすいんだけどな。しょうがないか。どっか秘密の
隠れ家みたいのがあればなぁ」
「アジトってやつ?」
 生まれて始めてこんな単語を口にしたなと思いながら、鮎が言ってみた。
「なんかそれだと過激派みたい」
「あ、それじゃうちの山荘を使う?」
 鍵よりもキーホルダーの方が重いような鍵を手の中で弄ぶ梢。
「山荘?」
「うん。○○山にある。お父さんが狩猟やるから昔買ったんだ。ちょっとしたペンションぐらいの
大きさ。でもこの時期は全然使ってないから好きにできるよ。どうせ年に2回ぐらいしか行かない
しね」
 詳しい場所の説明を聞くと、札幌から車で3時間ほどかかる辺りのようだ。
「悪くないわね。じゃ、何かあった時の安全地帯として急に使うことがあるかもしれないから、いつも
鍵を持っていてくれる? もし構わないのなら、鍵をコピーして、そう、ターニャにも予備として渡して
おいてほしいわ」
 薫に頷く梢。
「わかった。明日持ってくるね」
「じゃ、今夜はここまでにしておきましょう。明日は、予定通りにね」





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