堕天使のいた季節 <7>



 カップが目の前に置かれた。
 そして陽子が席につくのを待ちかねたように梢は葉野香めがけて難詰を始めた。

「電話で言ったことは、もう聞いているんでしょ。そう。なら単刀直入に言うけど、タイミングからいっ
ても、絶対に今日のことが原因。今、私はネット上でトラブってたりしない。この私のPCを、こんな
短時間で完璧にハッキングするなんて、ただのマニアじゃない。プロだよ。どういうことなのか説明
してくんないと、私、帰らないからね」

 葉野香の代わりに、隣に座っていた由子が尋ねた。
「それで、被害は?」と。
「だから、レイド(侵入)されたんだって」
「何かファイルを消去されたとか」
「そういうのは・・・・・なかったんだよね」
 ハッキングされたという事実を盾にとって強気に出ていた梢だったが、目に見える損害がゼロ
だったことを渋々認める。
「ウィルスもスキャンしたけど植えられてなかったし。メールの一通一通まで読まれたはずだけど、
ファイルの内容の書き替えとかはされてないんだ。でもあちこち無意味にいじってあるんだよね。
ファイルネームを一文字だけ替えたり。そういうのされてなかったら、こんなにすぐには気づかなかっ
たはず。だからそれも妙なんだって。苦労して侵入して、見るだけ見てはいさよならって、そんな
暇人いないよ。お金に関することとかはハードディスクにも入れてないから、これで得をすることは
ないはずだし。こんな生殺しの状態じゃ、おちおちゲームもできない。さっ。筋道の通った話を聞かせ
なさいよ」

 左京葉野香は2杯目となるコーヒーのカップを爪で突ついて、茶褐色の水面に波紋を描いていた。
パソコンのことはわからない。でも、これだけ自信を持って言うのなら、ただのネット中毒者の悪戯
ではないのだろう。しかし昼間のことを考えると、こういう作り話でこちらを乗せて言いたくないことを
言わせようとしているのかもしれない。少し揺さぶってみよう。
「里中さん。こういう可能性だってあるんじゃない? 家族があなたのパソコンを借りたとか」
 梢は大きく首を左右させる。
「パスワード入力しないとキー操作を受け付けないの。だからその可能性はないよ。それに家で
パソコン使えるのは私だけ。お父さんもお母さんも機械音痴でさ。うちは警備員もいるから、誰かが
勝手に入ってきてってこともまずないよ。侵入経路はわからないけれど、回線からやられたんだ」
「それを突き止めることはできない?」と由子。
「やってみたんだけど、それだけはわからなくしてあった。今の私の技術じゃ無理。すごく手が混ん
でるんだから」
 語尾に、力の及ばない悔しさと侵入者の能力への感嘆の念という相反する気持ちが含まれて
いた。
 陽子が首を傾げる。
「私は素人だからわからないんだけどさ、そういうことができるのってのはどういう人なんだい?」
「遊び半分の学生とかじゃ無理です。高価な機材も必要になるし。技術は超一流。自分でハイ
レベルな暗号解読プログラムを組めるぐらいに。そんな人、私の周囲にはいません。だから、今日の
ことが関係してるって思う。どう? みんな納得した?」

 澱みなく話す梢の態度から、もう誰もが納得していた。しかし、それでも葛城梁に関する一連の
謎を教えるのには躊躇してしまう。

「葉野香さん。この子に話してあげて」
 そう言ったのは薫だった。
「でもその前に、警告しておくわね。聞いてから後悔するわよ。聞いてしまったら『忘れた』も『知ら
ない』も通用しない。それでも、どうしても聞きたい? パソコンがいじられたのを我慢しておけば
よかったってきっと思う。それでも聞く?」
 あまりにも逃げる余地のない条件に、鼻白む梢。
「きょ、脅迫するつもり?」
 遺跡の壁にでも話しかけたように、沈黙だけが返ってくる。誰も『そんなことない』とは言わない。
8人も集まっているこの空間の密度が、急に希薄なものに感じられた。

 冷ややかとも取れる表情のまま、薫が続けた。
「それで済むなら楽なものよ。でも、こうなったらあなたを知らないまま一人にしておくのはもっと
危険かもしれないの。だから、秘密を口外しないって条件をずっと守れるなら、私たちのしている
ことを教えるわ」
「なによぉ。大げさね。いいから説明してよ」
「この件で、既に一人が死んでいて、一人が重傷を負って行方不明。そしてここにいるうちの一人が
誘拐されそうになってる。遊びじゃないの。残念ながらね。心して聞いて」

 葉野香が、これまで琴梨や由子にしたようにこれまでの経緯と体験の数々を包み隠さず教える。
どこかで、恐怖から「もう聞きたくない」と言い出すのではないかと思う者もいたが、身を乗り出して
聞き入る梢の瞳は好奇心できらきらと輝くほどだった。
「で、みんなでこの謎を解こうっていうのね」
 長い説明を終えて、冷めてしまったコーヒーに口をつける葉野香に言う。
「そうだよ。そうしないと、こっちがどうなるかわからないんだ。相手は手段を選ばないで謎を私たち
もろとも封じようとしているに決まってる。なら、こっちは全てを明らかにしてやるのが一番の防御
策だと思ってる。逃げてたら、いつまでも逃げてなくちゃならないからね」

 身近なリアリズムに乏しい、それでいて屍臭すら漂う事実をどう理解するのかと注視されるなか、
うんうん、と至極共感したように頷いていた梢。
 そして言い出したのは、
「じゃ、私も手伝うよ。いいよね。こうなったら私もみんなと同じように狙われたりするんでしょ。
そんなのやってらんないもん。これでも私、結構できる女なんだよ」
という売り込みだった。

 ターニャをはじめ、ほぼ全員が困惑の表情しかできない。
 陽子の誘拐未遂事件を直に体験しているだけに、この一件がシャーロック・ホームズのような謎
解きとは決定的に違うことがわかっているからだ。彼女のためにも、ここは諦めてもらうしかない。
排他的な雰囲気が場を支配する。

 薫は改めて自分の判断が正しかったことを感じた。こう言い出すであろうことは、葉野香に説明を
促す前から予測していた。

 やっぱりお嬢様ね。こんな事象に関わることになって、自分がどれほどの危険を犯しているかを
考えていない。想像力が足りないのではない。左京葉野香が誤魔化そうとしながらした問いから、
核心を迷わず射抜いているのだから。ただ、想定される最悪の可能性と自分をリンケージさせると
いう思考的習慣がないのだ。嫌なことは私を避けてゆくとでも無意識で思っているのだろう。心理
的な充足に不自由した体験が少ないことを示している。

 さて、彼女をチームに加えるかどうかだが。

 断れば、この子ならきっと自力で調べようとするだろう。当然敵方は止めさせようとするだろうが、
彼女が素直に応じるとも思えない。
 薫たちは警察へも敢えて連絡せず、マスコミに情報を漏らすこともせずに隠密性を重んじて動いて
いる。それはまだ、相手を過度に刺激せず、陽子誘拐のような直接的手段を選ばざるをえないほど
追い詰めたくないからだ。しかし里中梢はそんな配慮などなしに、ネット上で『葛城梁って人知りま
せんか?』と大声で聞くだろう。そうさせてはいけない。

「私は賛成よ。機械に強い人がいてくれると心強いわ。それに、もう事情を話してしまったわけだし、
パソコンに侵入したのが私たちを狙う相手と違うってはっきりするまでは、一緒に行動するべきだと
思うの」
 陽子に次ぐ年長者で、しかも医師である薫が冷静に述べると、反対しようという者もいなかった。

 ターニャを除いては。
 声の細い彼女には珍しいほどの語気を伴わせる。
「私と梁のことで、あなたを危ない目に合わせたくありません。お願いです。この話は忘れて、関わら
ないことにしてください」
 六月の森の色をした瞳が、また誰かを傷つけてしまうのではないかという罪悪感で、鈍く曇って
いた。
「忘れるったって・・・・・」
 そんなのできるわけないじゃない、という続きを、現状に苦しみ悶えているターニャに言えなくなり
口ごもるしかない梢。
「里中さんが忘れても、忘れない人たちがいるのよ。ターニャ。このまま帰すことの方が彼女の
ためにならない。あなたの気持ちはよくわかるわよ。だからこそ、彼女の力も借りて、葛城さんの
ことを一刻も早く解決しましょう。ね」
 向かいに座っていた陽子の慈しみに満ちた言葉を受けて、しばしの沈黙と葛藤ののち、「はい」と
ターニャは呟いた。





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