堕天使のいた季節 <6>



 レストランで食事を終えると里中梢が去り、午後もコンピュータに向かっていた4人だったが、検索
する用語もやがて尽きてしまい、ネットカフェを出た。
 夜になってからは、陽子の友人がやっている喫茶店が定休日なのを利用して貸してもらい、チーム
全員による会合をすることになっていた。それまでの時間をどうするか。
 気晴らしにもなるしとカラオケボックスへと入ることになったのは、鮎がいる以上当然の帰結だった
かもしれない。

 うまく進まない苛立ちや、いつも背後を気にしなければいけない不安をどうにかして振りほどき
たいという気分があった。だから、普段あまりカラオケをしない葉野香も思いきり歌ったし、
ターニャも何度かマイクを握って日本の歌を聞かせた。その歌声は音符が摩擦のない世界を舞う
ように美しく、琴梨も葉野香も曲のリストを膝の上に広げたまま聞き入っていた。

 ふと鮎は思った。どうしてこんなに日本語が上手なんだろうと。
 時折、日本のミュージシャンが英語詞の曲を発表する。日本語の歌でも、どこかに英文の入らない
歌詞は滅多にない。だが、英語圏の人には何を言っているのかわからないらしい。アメリカ人が
「これは英語だったのか?」と聴いた後に驚くことも珍しくなく、それほどに外国語を歌として使う
のは難しい。

 しかし、ターニャの歌う日本語は完璧だった。アクセントもイントネーションも、日本語を学ぶ上での
難関だという漢字も間違わずに読む。来日して7年というが、よほど懸命に日本にとけこもうと必死
だったからこそ、修得できたのだろうか。中学高校と6年も英語を勉強しながら、外人に道を尋ね
られても答えられそうもない自分が少し情けなかった。

 やがて予定の時間が近づき、一旦葉野香・ターニャ組と琴梨・鮎組に別れ、使う交通機関も違う
ものにして会合場所へ向かう。


 その店は、札幌の繁華街なら1ブロックに数軒はありそうなビルの一階のフラットに入っている、
目立たない店だった。店そのものが通りには面していないので、定休日に人が集まっていても気に
する人はいそうもない。
 鍵を預かっていた陽子は少し早めに入り、テーブルを話のしやすいような位置に並び替えようと
していたところに、ドアのノックが聞こえた。ガラス窓の向こうで手を振っていたのは桜町由子。
 彼女と二人で座席のセッティングを終えた頃には、次々とメンバーが集まってきた。
 仕事上がりから直行してきた薫なども遅刻することなく、思い思いの席に落ち着く。
 道具も冷蔵庫の中身も好きに使ってかまわないと言われていたので、早速にエプロン姿になった
琴梨がプロの腕を振るい、軽目の夕食を提供した。

 それぞれ、聞きたいことや話したいことがありそうな面々に、
「まずは、食べてしまおう。話はそれから。ちゃんと栄養をとらないとろくなことはないよ」
そう陽子がやんわりと釘を差した。
 しかし、誰もがもっともだと思ったその心配は料理を口にした途端に無用となった。もちろん、それ
ほどに味がよかったからである。

 手分けして後かたづけを終え、イタリアかどこか南欧のアンティークらしいテーブルの美しい
木目に白いコーヒーカップだけが影を落とす。無意識のうちに、どの表情も緊張に彩られてしまう。
 不審な人影がないかどうか様子を見に行った鮎と由子が戻ってくるのを待って、会議は始まった。
特に役割分担などしなかったのだが、字のきれいな琴梨が書記役としてノートを広げ、全体をリード
するのは最初からこの件に関わっている葉野香になった。

 まずは鮎が、この2日間に図書館とネットカフェでの調査結果をみんなに伝えた。収穫と呼べそう
なのは葛城梁の持っていた拳銃がアメリカのものであろうことだけだと。後を引き取った葉野香が、
偶然知り合った里中梢に自分の小細工をした質問のせいで活動内容を感づかれそうになったことを
詫びながら話す。事態の推移から、尾を引くことはないだろうと意見がまとまった。

 薫からは葛城梁と思われていた遺体からは毒劇物などが一切検出されなかったことや、遺体を
引き取りにきた自称伯父、『葛城 啓二』のだいたいの外見が伝えられた。しかし髪が真っ白で
小柄な50代の男性だと限定しても、すぐに役に立つ情報ではない。体格はともかく、髪の色など
染められたらおしまいだからだ。
 それでも、この情報も巨大な立体ジグソー・パズルの一片であるに違いないと、琴梨はペンを走ら
せた。

 続いて今夜のメイン・テーマになるであろう”スティーブ・J・セリザワ”について話そうと、薫が
ポケットから名刺を取り出そうとした時、着信メロディの明るい音色が響いた。

 琴梨のものだった。時間の限られている会合を邪魔してしまったと、慌ててペンを電話に持ち替え
る。見ると、液晶画面には登録してあれば出るはずの相手の名前がない。暫し躊躇するが、コール
は止まらない。誰だろうかと訝しみながら出る。
「もしもし?」
「もしもし? 琴梨ちゃんね?」
「あ、先輩、こんばんは。どうしたんです?」
 送話口を指で押さえて、鮎に『里中先輩』と小さい声で教える。ついさっきまで話していた相手
だけに、すぐに声でわかった。なにか言い忘れたことでもあったのかなと思う彼女の鼓膜を、
激高した高い声が襲った。
「どうもこうもないの! ちょっと、あの左京って人と連絡取れる!?」
 明らかに穏やかではない先輩の口調にびっくりして返事のできない彼女。
「ねえ、どうなのよ!?」
 そう急かされ、やっと頷きながら答える。
「え、ええ。取れますけど・・・・・ここにいますから」
「ここってどこ? 今からそっちに行くから!」
「あ、あの、先輩?何がどうしたんですか?」
「誰かが、私のマシンに侵入したの!」



 暇のあった友達がつかまり、映画を一本見て自宅へ帰った里中梢はさっそくにパソコンの電源を
入れた。
 メールチェック。よく行く掲示板やホームページの巡回。
 そして自分のホームページの編集でもしようかとウィンドウを開いた時、マウスを握っていた右手に
内側から痺れが走った。
 自動的にファイルを最後に編集した日時が記されるようになっているのだが、まさに梢が映画を
見ていたはずの時間がそこには記録されていた。最初は内臓時計が狂ったのかと思ったが、異状
はない。まさかと思ってハードディスクの中身を調べると、あちこちに誰かが侵入したとしか考えられ
ない痕跡がべたべたと残っていたのだ。

 梢はネット歴が長く、周囲にネットで被害を被った人も少なくなかったことから、自分のマシンへの
セキュリティには人一倍、いや数倍は注意を払って防護をしていた。クレジットカードの暗証番号など
だけではなく、個人情報のキャッシュやブックマークを盗もうとする不心得な連中はどこにでもいる。
そして女だとより狙われやすいという現実もある。
 怪しげなメールは一切開かないし、どんなに便利そうなプログラムやソフトであっても、信頼性に
いくらかでも疑問があればダウンロードなどしなかった。

 積極的に侵入しようとしてくる相手への対応策として4重の防護壁を張り、更に1枚でも傷がつい
たら警告を発してそれ以上のアクセスを強制的に遮断する仕組みも備えた。なのに、この侵入者は
それらを濡れたトイレットペーパーかなにかのように易々と破り、アラームを沈黙させて、抵抗手段を
奪われて無力化した梢のマシンを好き放題に舐め回したのだ。
彼女にとってこの被害は、直に手の甲を舐められるよりもおぞけを振るう嫌悪感をもたらした。

 誰が、どうしてこんなことをしたのか。
 そう思うと、すぐに今日のお昼のことが回想された。
 まずあの左京って人を問い詰めよう。
 なんだかわからないが、このタイミングからするときっと無関係じゃない。

 そして梢は高校時代のテニス部の連絡簿をめくり、すぐに琴梨の自宅に電話をかけた。しかし誰も
出ないので(陽子も仕事をしていたのだ)、続いて鮎の家にかけたのだが話し中。それでリストに
ある琴梨とクラスが同じだった後輩に電話をかけて、携帯の番号を教えてもらったのだ。

「ねぇ、場所はどこなのよ。遠いの?」
 中指でトントンと机を叩きながらじりじりして繰り返す梢。
「え、えっと、ちょっと待ってくださいね」
 どうしたらよいかわからず、琴梨はとにかく大意をメンバーに話す。
「あの、先輩のパソコンが誰かに勝手に覗かれたらしいんです。それで、それが今日私たちと会った
せいなんじゃないかって思っているみたいで、ここに来て左京さんに直談判したいみたいなんです
けど、どうしましょう」

 里中梢のことは尾を引かないだろうと結論が出てから、30分も経たないうちに変転した状況。
もう相手が見当をつけている以上、取れる対応はひとつしかなかった。
 ため息をつきたいところを、そうすれば葉野香たちが責任を感じるだろうと自制して薫が言った。
「しょうがないわ。じゃ、この場所は教えないで。近くの地下鉄の駅まで来てもらって、こちらから
迎えに行くしかないわね」


 迎えに出た鮎と琴梨が駅前で待っていると、琴梨の携帯が再び鳴った。あと数分で待ち合わせ
場所に着くという。改札へとつながる階段を見ていると、背中からクラクションの音が2つ。
 振り返った所には、ハザード・ランプを点灯して路肩に止めたモスグリーンのオープンカーのハン
ドルを握る梢の姿があった。二人とも知らないが、それはオースティン・ヒーレー社のスプライトという
旧車の復元モデルで、英国フロッグアイ社でしか生産されていない珍しい、当然に高価な車だった。

 とにかく、目立つ。

 隠れるように会合をしている琴梨たちは、そのきらびやかなまでの存在感に圧倒されたが、この
まま案内するわけにもいかない。走り寄って、とにかく駐車場に停めてきてと、ちょうど近くにあった
有料パーキングに『空車』の文字があるのを見つけて指差す。

 発券機から駐車券を受け取っている梢の後頭部と洒落たデザインの車体後部を見ながら、鮎と
琴梨は目を見合わせて困惑の表情を浮かべた。さすがに本人を目の前にしてはできないからだ。

 車を置いてきた梢と合流し、少し回り道をしながら喫茶店へと向かう3人。

 その様子を、道路の反対側を同じスピードで歩きながら由子が見ていた。里中梢が尾行されて
いないかをチェックしなければならなかったのだ。携帯で逐一状況を待っているみんなに伝えなが
ら、ちらちらと視線を彼女たちの後方へ向ける。気になる人も車もないのが何よりだ。

 喫茶店へ至る道すがら、最初は「どういうことなのよ」を連発していた梢だったが、穏やかな態度
ながら頑として事情を説明してはくれない琴梨と鮎に根負けして黙ってついてゆくことにした。
 どうしたって、あの左京って人と外人から筋道の通った話をしてもらうんだからと。

 やがて「ここです」と鮎がドアを開けた。どう見ても閉店後の喫茶店。ますます梢には彼女たちが
そこにいる理由がわからない。中に深刻な顔をした女性ばかり5人もいるとなればなおさらのこと
だ。

 しかしひるんではいられない。席に座るなど悠長なことは思いもよらず、いきなり左京葉野香を
問い正そうと効果的な言葉を探す梢。

 しかし、陽子が
「こんばんは。里中梢さんね。今日は琴梨がお世話になったみたいね。どうもありがとう。いまコー
ヒーを入れるから少し座って待っててね」
そう彼女の舌鉾をつまんで棚上げしてしまった。
 「あ、はい」と、素直に勧められた椅子にかける。

 やがて由子も戻ってきた。目で『問題なかった』と合図。
 誰もが口を閉じたまま、カウンター奥でかちゃかちゃという音だけがしている。

 いったいどういう集まりなのよ。これ。
 あの人は琴梨ちゃんのお母さんでしょ。
 他にもかなり年上の人いるし・・・・・。
 なんか、マジに犯罪の香りがするんだけど。
 ここに来るって誰にも言わないで来ちゃったけど、まずかったかな。
 あ、なんで弱気になってるのよ。
 こっちは被害者なんだから、下手に出ることはないわよ。うん。





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