堕天使のいた季節 <4>



 そしてまた新しい太陽が大通公園の夏を照らす朝。
 日を追う毎にかすれて消えてゆく蝉時雨と入道雲の輪郭。
 出勤する薫に同乗して、少し早めに待ち合わせ場所のテレビ塔前へと着いたターニャ。
 一人にすることが気がかりな薫だったが、「ここは人通りも多いですから」と安心させるように言う
彼女に押されて、監察医務院へと向かっていった。

 通勤する背広姿のサラリーマンばかりが目につく朝の大通公園。誰もが黒や茶の鞄を片手に、
独りベンチにたたずむ彼女に意識を向けることもなく職場へと歩き去ってゆく。

 ベンチの背後の花壇からは、姿のない虫の呟きが聞こえた。
 見上げると、一本の飛行機雲。

 それが当たり前の風景。
 彼女がこの世界に欠けていても終わることのない社会。

 でもそこで、たった一人だけは私を必要としてくれている。
 「ターニャ・リピンスキー」という名のガラス職人を。
 そう信じることで、異郷で生きていられた。
 いつか必ず訪れる別離の足音から耳を塞いで。

 小樽に住むようになってから、買い物などの用事があれば
 札幌まで出向くことも少なくなかった。
 梁と入った映画館。
 梁と食事をしたレストラン。
 梁と過ごしたいくつもの季節。

「外はまだ寒いから」
 初春には美術館で彫刻が差し出す手と握手した。
「次の休みには海に行こう」
 盛夏にはデパートで水着を買った。
「こんな雨を愁雨って言うんだろうな」
 晩秋には喫茶店の窓を流れ落ちる水滴に呟いた。

 そして白い冬に言った。
「お前を愛している」


 梁と歩いた大通公園。
 バレンタイン・デーにプレゼントをポケットに隠して来たこともある。
 ホワイト・イルミネーションのカウントダウンを聞いたこともある。
 彼の力強い腕に背中を預けるだけで、代用のない安らぎがいつでも感じられた。
 ここが純白にデコレーションされた季節。
 手をつなぐのが手袋越しでも、指の1本1本が融け合って離れなくなっていた。
 ライラックの花弁をそよぐ5月の薫風。
 鼻を寄せあって同じ香りを感じて、近づきすぎた顔を見合わせてくすっと笑った彼。
 そして頬に口づけをひとつ。


「俺を信じていてくれ」

 彼から聞いた、最後の言葉。

 あなたを信じたい。
 信じていれば耐えられるから。


 でも、あなたは誰なの。


 あなたがわからない。


 陽差しを浴びる金髪が、鈍くくすんでいた。




 待ち合わせの時間に、三々五々集まってくる今日のメンバー。この日、葉野香と鮎に加えて琴梨も
行動に加わることになった。陽子は今朝は元気に出勤していったという。
「親戚の子のとこ、どうだった?」
「別に何事もないって。お母さん、周りに注意するようにって言ったけど、遠回しだったから深刻には
受け止めてないと思うんだけど」
「その子、えっと」
「めぐみちゃん。愛田めぐみ」
「そうそう。めぐみちゃんは事故はほとんど目撃していないんだろう? なら、私もターニャも接触して
いないわけだし、巻き込まれることはないよ。きっと」
「そう、ですよね」

 そうであってほしいと、誰もが願っていた。

 目指すインターネットカフェは、地下鉄で数駅のところにある。鮎も今日は車ではないので、通勤
ラッシュも終わった駅へと向かう。
 ホームに降り、先頭を歩いていた鮎が白線の近く、入ってきた車両の扉位置を示している色
違いのプレートに立とうとした。普通はそうするものだ。
 しかし、葉野香がその腕をぐいと引っ張った。痛いほどの力に、びっくりして声も出せずにそのまま
壁際へと連れていかれる。ターニャと琴梨も、葉野香の行動の意味がわからないまま、『マナーを
守ろう』というポスターが掲示される壁際へとついてゆく。
「あの、葉野香さん? 腕痛いよぉ」
 葉野香に抗議する鮎。
「私、ナーバスになってるのかもしれない・・・・・だけど、あんなところに立ったら危ないよ。
突き落とされるかもしれないから」
 この言葉に、全員がホームを見る。
 ちょうど反対側に、ゴムタイヤの音を反響させながら滑り込んでくる車両。
 ただの交通機関が、巨大な凶器に映っていた。
 そして、電車の待ち人が悪意の塊に。
「なにも、びくびくしながら歩けってんじゃないんだよ。ホームでは壁際に立つなんて、些細なこと
だろ。この件がはっきりするまではこういう用心は心がけようって思ってるんだ」



 インターネット・カフェは午前中でも数人の客がいた。葉野香の通う大学の学生や、近くには専門
学校などもあるので若い男女が主な客層のようだ。
 1台使えればいいのだが、料金システム上、4人で4台のパソコンを使うことになった。受け付けを
済ませて、いざデスクへ。
 そこである問題が浮上してきた。
 誰もがインターネット初体験だったのだ。
 備え付けの説明書を見るが、日本語訳できそうもない長いカタカナばかりが目に付き、さっぱり
わからない。

「ねえ、これでいいんじゃないの?」
「でも、このびっくりマークって何かの警告じゃない?」
「あ、また元に戻った」
「なんで平仮名が打てないの?」
「そもそもどうすれば調べられるのさ」
「うわ、英語ばっかり。意味わかんないよ〜」
 隣の席との間には敷居があるのでお互いを見ることはできないのだが、悪戦苦闘しているのが
自分だけではないのがよくわかる。少し離れた席に一人お客がいるようなので、あまり騒いでは
迷惑だと思うが、自力ではどうにもならないので黙ってもいられない。

「画面がごちゃごちゃしてきたよ。最初からやり直すのはどうやるんだろ」
 琴梨が隣の鮎に尋ねる。キーボードとパソコン本体とディスプレイを一覧し、最後に一点に鮎の
目が止まる。
「下の大きなボタンじゃない?」
「これね」

「ちょっと、それは電源! いきなり落としちゃだめでしょ!」
 いきなり大きな声で叱責され、ぎょっとした全員が声のした方を注視する。
 その唯一の先客が席を外して歩いてきた。

 ターニャたちと同年代と思われる女性。
 まんまるい眼鏡に、薄いワインレッドに染めた髪を特徴的に結い上げている。
 随分とおしゃれな服装している人だなと思う葉野香の前にやってきた彼女は、
「もう、見てらんないわね。何がしたいのか言ってみなさいよ」
と言い出した。
「あ、えーと・・・」とどう応じたものかと葉野香が迷っていると、
「里中先輩、こんにちは」
そう琴梨が声をかけた。

 そこで初めて記憶に顔がヒットした梢。
「えっ? あ、あー! 高校の時の! そう、春野コトミちゃんだっけ?」
「琴梨です。お久しぶりです」
 名前を間違えられても曇りのない笑顔で応じる琴梨。鮎も挨拶をする。
「先輩、どうも。私も1年の時テニス部にいたんです。でも秋には辞めちゃったから憶えてないです
よね。川原鮎です」
「ううん。顔は憶えてるよ。文化祭で歌ってたし。でも、私、幽霊部員だったのに、二人ともよく私の
ことわかったね」
「先輩、クラブよりもまず学校で目立ってましたから」

 琴梨と鮎のペアと『里中先輩』と呼ばれた女性を交互に見ていた葉野香がためらいがちに割り
込む。
「えーとさ、知り合いなの?」
 琴梨が答える。
「そうです。こちら里中梢さん。私達の高校の一年先輩で、クラブが一緒だったんです」
 軽く会釈する葉野香とターニャ。

「ところでさ、ここで何してるの。みんな、まるっきりPC初心者みたいだけど」
 至極もっともな疑問を口にする梢。頬の近くの髪を摘んで恥ずかしそうに琴梨が話す。
「ちょっと、調べものがあって。でも使い方がよくわからないんですよ。もっと簡単かと思ってたん
ですけどね」
「ふーん。じゃ、手伝ってあげようか? 私パソコンの専門学校通ってるから、なんでもわかるよ」
「え? いいんですか?」
「今、ヒマだしね」

 この申し出に、3人がちらりと葉野香を見る。年齢的なものもあり、自然と彼女がリーダー的に
なっているのだ。少し考えて、頷く。使い方を教えてもらうぐらいなら、彼女に迷惑がかかることも
ないだろうと。
「じゃ、基本的な使い方を教えてくれませんか? まず、琴梨さんとターニャ、教えてもらって」

 梢が2人にマウスの使い方から指導し始めると、葉野香は鮎の袖を引き、セルフサービスの
ジュースを取りに行った。気をきかせたように見せかけての行動だが、真意は別にあった。
 声が聞こえない距離になったのを確認して、囁くように鮎に尋ねる葉野香。
「なぁ、あの人、どういう人なんだ?」
 猜疑心が過ぎるとは自分でも感じるが、油断はできない。鮎もそれはよくわかった。
「高校では有名なお嬢様だったよ。家がすっごいお金持ちなんだって。でも私なんかはちょっと
付き合いずらい人だったな。なんていうか、特撮とかアニメとか好きで」
「ふ〜ん。信用できる?」
 葉野香もアニメとかの趣味はないが、別に毛嫌いする理由もない。敵対するような背景がなけ
ればいいのだ。
「悪い人じゃないよ。趣味が変わってるだけで」
「なら、手伝ってもらうぐらいいいか。でも、何を調べているかとは知られないようにしよう」
「巻き込んだら先輩に悪いしね」

 グラスをトレーに乗せて戻ってみると、ターニャも琴梨も一通りの検索方法を教わっているところ
だった。後ろで二人もてきぱきとした梢の解説に聞き入る。
 梢にしてみれば、この程度のことは初歩の初歩。
「で、何を検索したいの?」
「えっと、それは・・・・・」
 あからさまに、誤魔化さなければならないのに誤魔化し方が思い付かないという反応の琴梨。
素早く鮎がフォロー。
「あの、あとは自分たちでやってみるから・・・・・」
「いいじゃない。教えてよ。あ、ひょっとしてアレ? ヤバいサイトとか探してるとか?」
 きらきらとレンズの向こうの瞳が好奇心に輝いている。
「そ、そういうのじゃないです」
 真剣に否定する琴梨に悪戯っぽい笑みを返して、「あはは。冗談冗談。私はそこの席にいるから
さ、またわからなくなったら呼んでいいよ」と言い残して梢は自分の席に戻った。

 今日、里中梢はプールに女友達と行くことになっていたのだが、夏風邪を引いてしまって行けない
と携帯に連絡があったのは家を出てしまってから。身軽でいいやとノートPCもリブレットも持って
こなかった梢は、時間潰しにとここに入ったのだ。
 午後から映画でも見ようかと、彼女はリンクを辿って市内の映画館情報を探しはじめた。





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