堕天使のいた季節 <3>



 手を振る同僚たちに見送られて、バルケッタが発進する。窓から顔を出し体をよじって、小さくなる
彼らにターニャも手を振り続けた。
 そして角を曲がり、工芸館がバックミラーから消えるのを待ちかねていた薫が尋ねる。
「ターニャ。その人は?」
 もちろん今はターニャの手の中にある名刺の人物。スティーブ・J・セリザワなる人物のことだ。
「知りません。初めて見た名前です」

 国務省というのはアメリカの外務省。肩書きからするとそこの職員、役人、外交官になるのだろう
か。どうしてアメリカ人が、リピンスキーという名前を知っていて訪ねて来たのだろうか。ターニャにも
薫にも皆目わからない。
 名刺には連絡先の電話番号とEメールアドレスも記載されていた。


「この人、誰なんでしょうか・・・・・」
 名刺の裏を見ても何も書いていない。
「またわからないことが増えてきたわね」
 運転中に、どうせわかりもしないことを考えていては事故を起こしかねない。バックミラーに付いて
くる車やバイクがいないかどうか探る方が優先だと、薫は操縦に集中する。直行ルートを避け、
何度か無意味な方向転換をしてからマンションの地下駐車場へ入った。

 待ち伏せなどされていないのを確認してから、エンジンを切る。薫の部屋がある最上階の8階まで
エレベーターで一気に昇り、足早に廊下を歩いた。ここはなかなか高級なマンションで。保安関係が
充実しているのはわかっているのだが。

「どうぞ。自分の家だと思って寛いで」
「はい」
 ターニャをリビングに通して椅子を勧める。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルに食器
棚のグラスを2つ。腎臓型のテーブルにそれらを置いて、「先に飲んでいて。着替えてしまうから」
と薫。

 ラフな格好になった薫が戻ると、グラスは指紋ひとつつけられてはいなかった。彼女の向かいの
椅子、すなわちいつもの自分の場所に座る。
「ここにいる人には、一つだけ守ってもらうルールがあるの」
「ルールですか?」
「そう。それは、つまらない遠慮をしないこと。少しでも寒かったら、寒いって言う。喉が乾いても、
お腹か空いても、眠くても、退屈でも、我慢しないこと。見たいテレビがあれば見る。いい?」
 最後に、くすっと笑う。つられてターニャも口元が緩んだ。
「はい。そういうルールは、喜んで守ります」
「よろしい」

 薫とターニャの共同作業で、いくつかの料理がテーブルに並ぶ。調理は決して薫にとって得意な
作業ではないが、ターニャのちょっとしたアドバイスで味が引き立ったことに驚いた。
 敢えて食事中には、軽快な話題を選んで箸を進めた。専ら薫が思い出話などをして、時折交える
不思議な冗談にターニャが戸惑いながら遅れて笑う。

 食器を洗い、交代で入浴してから、いよいよ当面の問題に取り掛かる。

"Steve J Serizawa"

 名刺を間に、うんうんと唸ってしまう二人。
「よくもう一度思い出して。この名前に聞き覚えはないのね?」
「ありません。たまに外国からの観光客も来ましたけど、名前を聞いたことは一度もありませんし、
知り合いもいません」
 もともとターニャの交友関係は広くない。小樽に住んで7年。職場と無関係に知り合った人は
よく行く喫茶店のマスターや紅茶の葉のお店の人程度。

「名前からすると日系何世かね。外見はまるで日本人で、日本語をいくらか不自然にではあっても
流暢に話した。そんな人の記憶は?」
「ありません。でも、日本の人みたいに見えて日本語を話されたら、少しぐらい話し方が変わって
いても私では気がつかないかも・・・・・」
「それもそうね。じゃ、アメリカの国務省で何か浮かばない? 大使館の人とか、文化交流で工藝
館を訪れた人とか」

 ちょっと考えて、すぐに否定するターニャ。
「アメリカの人と、一度も会ったことがないと思います。文化交流というのは確かにあります。でも
それはロシアとだけです」
「あなたが日本に来たのも、その繋がりよね」
「・・・・・そうです」
一瞬ためらってから頷く。
「ロシアとアメリカでは全然違うわよね。あ、でもロシアからアメリカに移住した人っていう可能性が
あるわね。ロシア、当時はソ連よね。その頃の知り合いだったとかは考えられない?」

 この問いかけに、ターニャはぐっと唇を引き締めた。
 12歳までの居場所であった町のことを回想して。

 父がいて、母がいた町。
 今はどうなっているのだろうか。
 あの町に暮らしていた人々は、どうしているのだろうか。
 もうわからない。
 これからわかることもないのだろう。
 わかっているのは、もう両親がどこにもいないことだけ。

 祖国はあれから激しく揺れた。
 かつての体制が崩壊したことを喜ぶことはできるけれど、失われたものの大きさはいつまでも
変わらない。
 ロシアの空と大地を愛するが故に、何者をも憎むこともできずに。

 はっと、ターニャは薫の瞳に陰った自分の顔が映っているのを見た。

「あ、ごめんなさい。ちょっと考えてしまって・・・・・ええっと、ロシアでもこの名前には思い当たる人は
いません」

 硬直した空気をふうっとため息で吹いて薫は視線をずらした。
「とにかくあなたには心当たりがまったくない。なら、この人はなぜあなたに会いに来たか。あなたの
知り合いでないとしたら」
「梁の知り合い・・・・・ですか?」
「考えられなくはないわね。あなたと交際していたことを彼が話していれば。少なくとも、あなたとの
関係がわからない間は、このセリザワという男は葛城梁の関係者だと思うしかないわ。ただの
あなたのファンだって可能性もあるけど、だったらどうってことないから、最も危険な可能性を想定
しないとね」
「危険な可能性・・・・・」

 薫は二人の間に置かれ、蛍光灯を浴びて白さが浮き立っている名刺をぐっと睨みつけた。

 セリザワなる人物が名刺通りのアメリカの公務員なら、連絡を取ったところで危害が加えられる
ようなことにはならないだろう。しかし、名刺などどこの印刷屋でも作れる。もし葛城梁を追っていた
相手なら、または陽子を誘拐した一味の一人だったら(この両者の関係もまだわからない)。
うかうかとぶら下げられた餌に食いつけば、ぐっと釣針で引かれ、陸地の魚のように無力化されて
しまいかねない。

 今日一日、薫は尾行されていない自信があった。このマンションが監視下に置かれていない限り、
敵ーーそう、もうそう呼んでいいだろうーーは、重大な鍵を握っているであろうターニャを見失って
いる。穴から誘い出すための囮ではないのか。
 しかし、もしこの人物が葛城梁との関係で小樽に現れて、彼についての情報を持っているのなら、
喉から手が2、3本出るほどに欲しい。
 昼間に左京葉野香と川原鮎とターニャでやった調査が空振りに終わったことで、さらに真実への
道は霞み、消えかけている。このまま何も掴めないままでは、再び誘拐事件やそれ以上の危険が
発生するのを止めることはできないだろう。

 そこで浮上するのが、名刺に印刷されている連絡先だ。コンタクトを取るべきか。避けるべきか。
取るとしたら、どうやって取るか。避けるとしたら、どうやって避けるか。

 見慣れない数字の流れで記された電話番号。アメリカの国内番号だろうか。そしてメール
アドレス。

 メールは安全だろうか。ネットカフェから発信するのはいいが、どこかで返事を受け取らなければ
ならない。それは個人所有のパソコンや携帯電話でなければ無理だろう。同時にこちらの情報を
与えることにつながる。

 電話はどうだろう。長く話さなければ逆探知は容易ではないはず。公衆電話を使えば、まずそれ
だけで所在を把握されたりはしないだろう。そう思いたいが、日進月歩の技術の進歩を考えると
確実なのかはわからない。それに短い時間で必要な情報を入手できる見込みはまずない。

 医師として医療機器の扱いは修得しているが、情報通信という分野はエジプトの象形文字と同
程度の理解しかない。もちろん考古学とは縁遠く生きてきた。

 今夜のところは、こちらからは動かないでおこう。そう決めた。明日の夜、春野さんたちと会う
ことになっている。その時にみんなの意見を聞こう。





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