堕天使のいた季節 <2>



 葉野香を先頭に、とりあえず午後のうだるような暑さを避けて喫茶店へと入る。

「図書館は、本が多すぎるよ」と、稼働式のずしりと重い書棚を右に左にと動かしていた葉野香が
嘆いた。「もっと絞って調べられないと、時間の無駄だよな」
「では、どうしましょう」

 ここで鮎が思い付いた。
「そうだ。パソコンで調べようよ」
 インターネットの検索機能を使ってやれば、もっと楽にできるはずだと。
 葉野香もターニャも賛成したが、あいにくこの3人の家にはパソコンがない。春野家にないことは
鮎が知っていた。薫と由子に電話してみたがどちらも勤務中のようで繋がらなかった。

「うちの学校にもあるんだけど、4月に登録してないと使えないんだ。してなかったんだよ。あ、でも
大学の近くにインターネットカフェがあったな。そこ行こう。今日は遅いから、明日」
 そう葉野香が提案して次の課題が定まり、この日の活動は終わり。
 まずターニャを北海大学まで送り、家が偶然近い葉野香を鮎が車で送って帰ることにした。

 幸い何事もなくターニャを薫の元へ送り届け、葉野香は鮎の車へ。
「ねぇ、左京さん」
 幾度目かに止まった赤信号で、鮎が前を向いたまま言う。
「あたしのことは葉野香でいいよ。で、なに?」
「葛城梁って人のことなんだけど」
「うん」
「ターニャの恋人だったんでしょ。だから彼女の前では言えなかったんだけど、犯罪組織とかの人
だったってこともありえるよね」
「・・・・・そうだな」
 まともな暮らしをしていたなら、こんなことにはなっていない。拳銃を持っていたことから、暴力団が
すぐに連想される。葛城梁が犯罪組織の金を持ち逃げして、追われて、誰かを身替わりにして
死なせたという筋だって考えられる。身元が明らかではないのは、戸籍を売り買いしたり偽装結婚
したりする集団とでも関わりがあったからなのか。不法入国した外国人なら、経歴がわからないのも
もっともだということになる。

 ターニャが自分から彼の正体を知ろうとはしなかったのは、どこかで彼の暗い背景を感じていた
からではないのか。

 好きになってしまった男が悪人だったとしても、彼女を責めるのは筋違いだ。
 葉野香にとっても鮎にとっても心配なのは、もし事実として葛城梁が汚れた仕事に手を染めていた
ということになれば、どれほど彼女が傷つくだろうかということだった。

 ターニャは自分から葛城梁と別れたと言う。
 それは嘘ではないだろう。
 だが、彼女の気持ちは聞かなくてもわかる。
 まだ彼を愛しているのだ。
 なのにどうして別れたのか。
 男女間のことだからと、これまで無理には尋ねないでいたが、いずれは話してもらわなければ
ならなくなるかもしれない。


 そのターニャは、薫のフィアット・バルケッタで小樽へ向かっていた。長く自室を離れるので、着替え
などを持ってこなくてはならなかったのだ。尾行を意識しながら車は小樽へ。
 小樽市内に入り目的地へ近づいたところで、ターニャは少し先にあるコンビニへ寄ってくれるよう
頼んだ。
 「何か買うの?」と、信号の先に見えるコンビニの看板に目をやりながら尋ねた薫に、「ええ。
ちょっと」とだけターニャは答えた。

 夕刻ということもあり、高校生などで賑わう店内。薫も喉の乾きを感じて、ミネラルウォーターの
ペットボトルを手にする。
 さてターニャはどこだろうと見回すと、雑誌の棚の前で立ち読みをする子供に挟まれながら、ガラス
越しに外を見ていた。

「どうしたの?」
 そう背後から声を掛けると、我に返ったように振り向く。
 手には何も持ってはいない。
「あの、少し待っててください」
 そう言って、ターニャはトイレへと入っていった。
 そういうことかと納得し、薫は適当な雑誌を手にした。

 やがて出てきた彼女。
 顔色が悪い。
 車にでも酔ったのか、それとも心臓の具合が悪いのかと尋ねたが、「平気です」としか返事は
戻ってこなかった。

 そしてターニャは紙パックのグレープフルーツジュースを買って外へ出た。その様子を見ながら、
薫も会計を済ませた。

 車に戻ってから、ターニャはジュースに口をつける気配もない。エンジンをかけた薫だが、そのまま
発進する気にはなれない。
 「ねえ、どうかしたの?話して」
 そう言いたい。
 しかし、じっと腿の上で紙パックを握り、結露して滴る水滴がスカートを湿らすのも無関心に、
呆然としているようなターニャの横顔には、絶望的な苦痛が見て取れた。

 ためらいながらも、サイドブレーキを外し街道に出た。

 細い声で時折されるターニャの道案内で、彼女の部屋のあるアパートへ到着する。降りる前に、
周囲に不自然な存在の有無をミラーで確認する。買い物帰りの親子や、自転車の学生ぐらいしか
人影はない。

 アパートも変わりはないのだろうか。それがわかるのはターニャだけなのだが、彼女はどこか
感覚が麻痺したかのように、無造作に部屋へ向かいポケットからキーを出した。

 薫は背中を合わせるようして、後方を警戒する。その耳に、金属音ではなくかさりという紙の
擦れ合う音がした。
 振り返り、ターニャの肩越しに見ると、彼女は赤い郵便受けから白い封筒を取り出していた。

「手紙?」
「職場の人たちです。急に辞めたから、それでだと思います」
 ターニャは葛城梁の訃報を聞いて、2日後に退職届けを出した。誰に聞かれても慰留されても
一切理由は口にせずに、ただ急に辞めることを詫びるだけだった。近いうちにアパートも引き払い、
この街を出るからと。
 それから3日だけ出勤し、有給休暇を消化する形で正式に退社したのは葉野香がここを訪れる
前日のことだった。
 その間、食料品を買う以外にはほとんど外出もせず、PHSの電源も切ったままにしていた。
既に転居したのかと思ったのだろう。

 室内に入り、鍵をしっかりと掛けてから彼女は封を切った。



  ターニャへ。
 
  あなたが工芸館を突然去ってから、もう1ヶ月が経とうと しています。
  お元気ですか?
  こちらは、みんなで毎日仕事で張り切っています。
 
 そんな書き出しの手紙は、同僚からの友情に満ちたメッセージで紙面が埋められていた。
 誰かが作業で失敗したとか、誰かが太ったとか、誰かに恋人ができたとか。

 寮で寝食を共にした人。
 上司。先輩。同期。後輩。
 寄せ書きのように、いろんなことが書いてあった。
 そして最後に、

  また、一緒に仕事ができるといいね。

 そう記されて。

 この国で、たった一つだけの彼女の故郷。
 それが運河工藝館だった。
 いつか、帰ることができるだろうか。
 どれだけの時を犠牲にしても、いつかは、またあそこでガラスに命を吹き込みたかった。

 手紙を封筒に戻し、机の上にそっと置くと、ターニャは押入れから持っている中で一番大きいで
あろうドラムバッグを取り出し、箪笥の引き出しから綺麗に折り畳まれた衣類を詰めてゆく。
 手伝うべきものでもないかと、手持ち無沙汰に室内を見ている薫。実際は、横目でターニャの
挙動を観察しているのだ。

 時折、白く繊細に手の動きが止まる。時計の秒針が5回ほど鳴るまで。
 じっと、手の中の服を見つめて。

 葛城梁とその服との重なる記憶が、蘇っているのだろう。短い吐息とともにバッグに入れるまで。

 他に生活品や薬の類も持っていかなくてはならない。引き出しをを開けて、細々としたものを
バッグのポケットに入れてチャックを締める。
 机の上の、実父と母と3人て撮影した最後の写真も。

 そして、胸のポケットには一番大切なものを。

 帰る前に、薫は葛城梁が撃たれて入ってきた時の状況を詳しく説明してもらった。その課程で、
どこかに血痕が残っていないかと床や壁をよく調べたが、よほどターニャが丁寧に拭い去ったとみえ
どこにも跡は残っていなかった。掃除に使った布なども全て処分したという。それがあれば、DNA
鑑定にかけることもできたのだが。


 車に戻り、シートベルトをしながら薫が尋ねた。
「運河工藝館って、近いのよね」
「はい。ここからすぐのところです」
「じゃ、寄りましょうか」
「えっ」
「近くに来たんだから、返事を書くより早いでしょう。私も、ちょっと工藝館ってのを見てみたいし」
 後半は作り事だった。遠慮しそうな彼女の機先を制するための。
 ためらいながらも、首肯する金色の髪。

「あっ、ターニャ!」
 すでに閉館時間で、入り口の掃除をしていた若い女性職員が車から降りる彼女たちに気づいた。
工藝館の扉を開け、中に声を張り上げる。
「みんな来て!ターニャが来たよ!」

 すぐにわらわらと集まってくる6人ほどの男女。
「久しぶり!」「元気だった?」「体の具合はどう?」
 ターニャを囲んで屈託のない笑顔の花が咲く。

 その様子を、少し距離を置いて薫は見ていた。軽く腕を組んで、分析的に目と耳を働かせて。

 やがて話題が一段落したのか、「ねぇターニャ、こちらの方は?」と、ずっと黙っている薫を訝んで、
一人が尋ねた。
 ターニャが答に詰まるよりも早く、薫が近づいて「彼女の治療に当たっている医者なの」と告げた。
なるほどと納得する一同。
「やっぱり、体の具合が良くなかったんだね。それで辞めるってなったんでしょう。ちゃんと治して、
そしたらまたここに戻っておいでよ」
 全員の気持ちが、その言葉に集約されていた。

「ゆっくりさせてあげたいところだけど、まだそういう段階じゃないの。今日はそろそろ、おいとま
しないとね」
 そう薫が、尽きることのない再会のシーンを遮った。ターニャが、真実を隠したまま同僚たちと
話すのが苦痛であることは最初からわかっていたからだ。
 それでも、薫はターニャが職場でどのように遇されていたのかを確かめておきたかった。薫も他の
仲間も、彼女と知り合って間もない。もしターニャが信頼できる人格でなければ、とても危険も予想
される謎へと共に入っては行けない。
 結局、それは無用の心配であった。
 この様子を見れば、彼女が誠実であり誰からも愛されていたことが明瞭だった。

 二人が別れの挨拶をしようとした時、同僚の一人が、ぱん、と手を打った。
「思い出した。ターニャ。一昨日、ターニャに会いたいって人が来たんだよ」
「私に、ですか?」
「どんな方でした?」
 薫が尋ねたことに戸惑いながらも、話す同僚。
 それは20代後半の男性。
 「こちらに、リピンスキーさんという方がいらっしゃると思うのですが」と。
 すでに退職したという返事に、残念そうに立ち去った。
 その前に、名刺を残して。

 1枚の紙片が差し出された。

 英文で書かれている。薫の英語力でそれは、

『国務省外交局日本課課長補佐・通商産業担当スタッフ スティーブ・J・セリザワ』

 そう読めた。





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