第3部 堕天使のいた季節



 それぞれに仕事があり、日常がある。
 一人の男の生死によってがらりとその色合いを凄惨なものに変えられたとしても、こなすべき毎日
はある。

 翌日、日中から時間があるのは鮎だった。もともと予定のない日だったこともあるが、この件が
片付くまでは音楽活動を一時的に減らし、アルバイトしている楽器店の休日などもこの件に費やす
ことにした。

 夢のために努力している彼女の障害になってしまったことをターニャは心から詫びた。もちろん
鮎は笑って、
「音楽ってのは、いろんな体験が役に立つんだよ。いつかこのことも歌にできる。だから、私の好き
にさせてね」
そう言った。

 由子はこれから非番の度に札幌まで出向き、時間に余裕がある時は春野家に宿泊することに
なった。ボディガードを兼ねてのことだ。あいにくと来週までは基地から出られないのだが。

 夕方まで職場に拘束されてしまう琴梨と陽子は、休みの日でもなければ意欲に見合う行動はでき
ないにしても、できる限りのことをするつもりでいた。

 自分たちを護るために。
 そして、ターニャのために。
 彼女には、そうしたくなるなにかがあった。


 誘拐未遂事件の翌日、陽子は夏風邪を引き込んでしまったと仕事を休んだ。自分も休むから無理
しないでと琴梨に哀願されては、押し切る気にはなれなかった。やはり心理的な衝撃のせいか、
浅く途切れ途切れの睡眠しか取ることができなかったことは内緒にしたが。

 愛田牧場で朝の仕事が終わった頃を見計らい、陽子が愛田家の短縮ダイヤルのボタンを押した。
電話口に出たのは義妹の里子。足元には姪の理沙がまとわりついているらしい。高い笑い声が
洩れ聞こえる。
「先日は娘がどうも・・・・・」という挨拶と雑談をいくらか交わしてから、兄の耕作を出してもらう。

「おう、どうした」
「ちょっと相談というか、そっちに気をつけてもらいたいことがあってね。最近、変なこととかなかっ
た?」
「変なこと?」
 こっちで起こっている不透明な渦に愛田家を関わらせたくない陽子は、苦労しながら周辺への
注意を喚起した。いきなりの話で不審がる兄を『最近はストーカーとか多いから』という一般論で
説き伏せ、部屋で勉強中だというめぐみを出してもらう。

「おはようございます、おばさん。こないだは楽しかったです」
 溌刺とした声が有線で届く。
「またいつでもおいでよ。それより、お父さんにも話をしたんだけど、最近身の回りで、おかしいな、
って思うことはなかったかい? この間うちに来てからのことなんだけど」
「へぇ?」とめぐみ。
「ない?」
 しばらく考えあぐねたらしく、沈黙が続いた。
「んーと・・・・・ああ!あったあった、あったよ!」
 大発見をしたように勢いづくめぐみ。
 一方、自分に起こったようなことが美瑛でも起こるのかと冷たい悪寒が陽子の背中を走った。
「こないだクロちゃんがね、テレビの音楽に合わせてひょいひょいって踊ったんだよ。
すんごくおかしくて、里沙なんて真似して踊ってたの〜」
 悪寒は走って、転んだ。
「あ、あのね、そういうことじゃないの。誰か見慣れない人につきまとわれたりとかしてないかって
ことなのさ。よくわからない電話とか、ないかい?」
 焦るめぐみ。
「そ、そういうことなの。ごめんなさい勘違いして。でも、そんなの別にないよぉ。牧場見学に来る人
とかいるけど、牛乳飲んで美味しいって言ってくれるし」
「そう、それならいいんだよ。もしこれから、そういうことがあったらおばさんに教えておくれよ」


 愛田牧場のある美瑛は観光地でもあるが、それでも人口は僅かなもの。不審人物がいれば目
立つはずだ。ただ事故現場にいたというだけで、運転手の顔すら見てはいない愛田めぐみにまで
監視をしたりはしないということだろうか。そうであってほしい。陽子も琴梨もそう思った。
 しかし、何を見たせいで昨夜の事件が起こされたのかがわからないのも事実。安心できる根拠を
手に入れるためにも、葛城梁についての謎を解明しなくてはならなかった。


 早々に出勤した薫は、あの事件の記録を確認しておこうと事務室の書類フォルダを手に取って
いた。きちんと整理されているおかげで、すぐに解剖所見などは見つかった。とはいえ、自分が書い
たものだ。目新しいことはあるはずもない。デスクに遺体写真を広げ、ルーペで眼性疲労にもめげず
に細部まで精査する。

 左肩に、やはり銃弾による負傷の痕跡はない。ターニャの話が本当なら(彼女は微塵も疑って
いないが)、この遺体は葛城梁ではない誰かだ。どうしても焼けた顔の人相は判別しにくい。しかし、
前日に見せられた葛城梁の写真と比べるとやはり別人の印象がある。これは話を聞いたことでそう
思いがちになっているだけかもしれない。
 指紋が火で消失している以上、確実に人物判定をするには歯を調べるのが一般的な方法だが、
この場合は葛城梁の歯科医院への通院記録がなければ意味がない。それが手に入る可能性は
極めて低そうであり、DNA鑑定をしようにも遺体の細胞組織は研究所に送ったものがあるが、
やはり葛城梁のものがなければ照合はできない。ターニャの家に彼の頭髪でもあれば鑑定できる
が、その必要はもはやないだろう。

 その研究所に送った組織の鑑定結果は、昨日の退勤直前に届いていた。
 毒劇物反応なし。薬物反応なし。アルコール反応なし。血液型AB型Rh+。

 他にもいろいろな分析がされていたが、総論として何も異常も目立つ特徴もなかったということだ。

 薫はターニャからの話で、この事故が実は殺人事件ではないだろうかという疑念を抱いていた。
だとすれば、運転者にカプセル入りの薬物でも飲ませ、走行中に発効するようにしたという可能性が
出てくる。しかし、どうやらその線は薄いようだ。
 この世には発見不可能な毒物というものも存在しているが、容易に入手できるものではないし、
死亡から時間があまり経過していないこのようなケースでは事実上ありえない。

 殺人でなかったとすると、この死者はなぜ葛城梁の車に乗り、どこへ向かおうとしていたのか。
葛城梁とどういう関係だったのか。なぜ見通しの良い道で事故を起こしたのか。

 まだわかるはずもない。

 そして彼女は数葉の写真を抜き取り自分の鞄に滑り込ませ、書類を目立たないように棚に戻して
おいた。

 やがて出勤してきた先輩監察医の嶋田に、挨拶と冗談のキャッチボールの後に尋ねる。
 葛城梁の身元確認者について。応対したのも、話を聞いたのも嶋田だったのだ。

「頭が真っ白の、50絡みの人だったな。警官と来て、あの状態だから時間がかかるかと思ったが
すぐにわかったらしい。顔面に特徴が残っていたってな。それで葬儀社と引き取って行ったよ。
どんな人だったかって? 小柄でスーツ着てて、あまり喋らない人だったな。取り乱したりもしない
で、落ち着いたものだった。甥ごさんの死を静かに受け止めるって感じかな。
名前? 記録にあるはずだな」

 調べてもらうと、身元引受人として『葛城 啓二』という署名があった。住所も残っていた。
しかし、その住所は葛城梁のものと同じになっていた。これでは名前が本名かも怪しいものだ。

 担当した警官に電話で尋ねたところ、ちゃんと本人持参の住民票で相手を確認したという。
「事故の映像をニュースで見た。甥の車のようだ。連絡が取れなくなっているから、もしかしてと思い
やってきた」という相手を、警官がさほど疑いもせずに受け入れたことを責めるわけにはいかない。
今に至っても、この件は毎日のように起こる交通死亡事故にすぎないのだから。
 しかし住民票など偽造も容易だし、実際にその住所に誰も住んでいないことから、身元はとても
信用できるものではない。
 同じ住所を示したからには、この自称伯父も梁と同様、人物像を明らかにするのは困難そうで
あった。


 お昼。
 北海大学近くの喫茶店で、やってきた葉野香とターニャ、そして初顔の鮎にこれらのことを話す
薫。パスタを口にしながら、電話では聞ききれなかった昨夜のことを話してもらう。

 最大の手がかりだと思っていた「伯父」が、空振りに終わりそうであることでどうしても落胆して
しまう3人だった。
 そんな彼女たちに、薫は「都市開発振興社」をもっと調べてみることを提案した。完全に架空の
ものならまた行き止まりだろうが、実体のない幽霊会社であれ存在していれば、そこから人名が
出てくるはずだと。
 かつてターニャが掛けた時に電話が繋がったという事実がある。電話で形式的な応対のみを
代行する業者だったのかもしれないが、調べてみる価値はある。

 テーブルから4人分の皿が下げられ、薫の昼休みもなくなってきた。最後に、薫が尋ねた。
「ターニャ。昨夜はどこで寝たの?」
「葉野香さんの家に、泊めてもらいました」
 兄夫婦もいることで、その方が安全だろうと葉野香が連れて帰ったのだ。
「じゃ、今夜から私のマンションに来なさい」

 彼女がこの謎を解くキーパーソンである以上、小樽の部屋に一人でいさせるわけにはかない。
体のことも考えれば、医師と一緒にいた方が良いことは当然である。薫自身も一人暮らしである
以上、誰かといなければ不安を禁じえない。

 仕事に戻る薫と別れ、午後から3人は市内最大の図書館に向かった。どんな本を調べればいい
のかもよくわからないが、高速での事故の記事を読み返すだけでも何かに気がつくかもしれない。
鮎が新聞の縮刷版を担当し、葉野香とターニャが書棚のタイトルを追いながら歩く。
 今朝の新聞には、やはり陽子の誘拐未遂事件については何も報じられてはいなかった。
全国紙から地方紙まで、少しでも関わりのありそうな記事を探すものの、直接結び付く情報など
ない。東洋系の外国人が起こした暴力犯罪が報道されてはいたが、そのどれかは陽子誘拐犯と
関係があるのだろうか。

 事故の数日前まで遡って読み続けたが、葛城梁のカの字も出てこない。小さな文字で疲れた
目に、ロビーで買ったオレンジシュースからビタミン補給をしていると、やはり眉を指でほぐしながら
葉野香たちもやってきた。やはり手当たり次第では収穫らしいものは出なかったのだ。
「疲れたね」
「そうだな。もう出ようか。遅くなるといけない」
「はい。行きましょう」





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