青が落とす影 <5>



 幸い、陽子に外傷はないようだった。駆けつけてきた鮎も交えて話し合った結果、陽子が自分の
車を運転し、葉野香が同乗することにした。その車を鮎が先導する。
「それじゃ、私が後ろにつくよ」
 そう桜町由子が言い出した。
「ここまで来て、他人事にしておけないからね」

 そこからは尾行されている様子もなく、平穏なまま春野家に到着できた。
 車内で、何があったのかだいたいのあらましを陽子が話した。


 職場のテレビ局の駐車場で、帰宅しようとキーを差し込んでドアを開けた瞬間に、2人組の男が
拳銃らしきものを突き付けてきた。
 黙って車に乗れと命令する男。
 脇腹に押し当てられる冷たい金属の感触はモデルガンなどはないように思えた。
 まず一人が助手席に乗り込み、銃口を向けて陽子を運転席に座らせた。それを確認してもう一人
が後部座席へ。

 なんとかこの事態を外部に伝えようと思った陽子の抵抗意志を挫いたのは、「娘を預かっている。
お前が騒げば、娘は死ぬ」という男の言葉だった。
 陽子にそれが嘘だとわかるはずもない。駐車場の門にいる警備員と目が合っても、何のメッセー
ジを送ることもできなかった。
 途中、携帯電話が鳴ったがすぐ奪われ、電源を切られた。指示されるままにハンドルを握り、市の
郊外へと向かわせられ、人気のない工場裏で拘束された。

 それからどこをどう走ったのかはわからない。後部座席に乱暴に横たえられ、男が運転しはじめ
た。しかし、葉野香と鮎の車に遭遇したのはまったくの偶然らしく、男が舌打ちをする音が聞こえた
という。
 そして、葉野香が救出する直前に男たちは車を放棄してどこかへ立ち去ったのだ。


 あまりのことに、普段は沈着な陽子も冷静に相手を観察するなどという余裕はなかった。それ
でも、いくつか細かいことを看取していた。

 男たちは20代後半。ともに頑健そうな体つき。背広姿だが、サングラスと帽子で外見を装って
いた。指紋対策にか、夏なのに黒い皮の手袋を着用。持っていた拳銃はどちらも大型のオート
マチック。

 そして、「あれは日本人じゃないね」と陽子は断言した。日本語を話していたが、アクセントや言葉
の使い方がおかしかった。正確なところはわからないが、中国大陸や朝鮮半島、台湾といった地域
の人間ではなかろうか。
 これらの説明を聞いても、葉野香には犯人像が浮かばない。そして誘拐の目的も。
 外国人。
 また拳銃。
 どんどん謎が膨れ上がってゆく。

 そこまで話したところで、マンションへと車はたどり着いた。

 3人で足取りがふらつきがちな陽子を支えて、自宅の玄関に入る。

「お母さん!」
 出迎えた琴梨が、脇目も振らず母に抱きつく。
 陽子もしっかりと娘の背中に手を回し、服がしわになるほどにしっかりと抱き止めた。
「ごめんよ、心配かけたね・・・・・」
「お母さん、お母さん・・・・・」

 鮎と由子は、じろじろ見ない方がいいかと余所を向いていた。葉野香とターニャは、それぞれの
背中をじっと見つめていた。
 自らが身の危険に直面していながら、春野陽子が救出されて最初にしたのは娘の安否の確認
だった。家族という強い絆。
 両親を早くに亡くした葉野香と、12歳から異郷で一人暮らしをしていたターニャにとっては、どこか
羨んでしまう光景だったからかもしれない。
 いつしか二人は母の面影を重ね合わせていた。


 やがて、ぽんぽんと琴梨の背中を母が叩いた。
「さ、もう泣くんじゃないよ。こうして、ちゃんと帰ってきたんだからね。お客さんを立たせておいちゃ
失礼だろう」
「うん・・・・・」
 まだ目元をぐずぐずさせながらも、頷く琴梨。
「上がって、ください」
 母の手を握りながら、そう言った。


 この家には珍しいほど、応接室は混雑していた。
 春野陽子と琴梨は手をつないだまま、並んで座る。
 琴梨の隣には鮎。
 葉野香とターニャが対面に位置して、由子は陽子とターニャの間の一人掛けの椅子に。
 テーブルには勝手知ったる鮎が入れたコーヒーが、6本の白い糸をたなびかせていた。

「春野さん、横になっていなくて平気ですか?」
 心配気なターニャに陽子は気丈に応じる。
「平気さ。別に痛い目にあったわけじゃないからね。それより、一体どういうことなのか知らないと
おちおち寝ていられないよ」

 さて、どこからどう話を切り出したものかと思案する葉野香の耳に、桜町由子の快活な声が響い
た。
「話をする前に、まず自己紹介をさせてよ」
 彼女には全員が今夜初対面なのだから当然だ。

 みんなが頷くと、彼女は自分から始めた。
「私は桜町由子。千歳の航空自衛隊に勤務してる23歳。よろしくね」
 財布から身分証を取り出してみんなに見せる。
「自衛隊の方だったんですか」と葉野香。
「そうよ。でもパイロットじゃなくて普通の職員。非番でドライブしてたら、よくわかんないうちに巻き
込まれてたってわけ」

「じゃ、次私ね」と手を上げたのは鮎。
「私は、川原鮎。琴梨の高校時代からの友達です。年は18。職業は、一応歌手かな? まだイン
ディーズだけど、メジャー目指して活動しています」
 内心で納得したのは葉野香。とこかで見たことがあると思ったのは、文化面の記事に写真入りで
取り上げられていたからだ。

「私は左京葉野香っていって、北海新報でアルバイトしてるの。それで、この件に関わるようになっ
たんだけどね。あ、それは後。今ハタチの大学生だよ」と葉野香。

 自然と注目が集まった。ターニャの番だ。

「ターニャ・リピンスキーです。ガラス職人でした。ロシアからの移民です。19歳です」
 彼女らしく、控えめな自己紹介。しかしそれでは短すぎると思ってか、ためらいながらも経歴を
話し始める。

 ロシアのナホトカで産まれた彼女。ナホトカは日本海に面した沿海州にある古い街。近くには
軍港として有名なウラジオストックがある。
 11歳の時に父が亡くなった。
 やがて母が再婚してやってきた義父との折り合いが悪くなった。
 ペレストロイカで緩くなった渡航許可を受けて、父が残してくれたなけなしのお金で、逃げるように
出国。
 やはりガラス職人だった父が、国の文化交流事業のために何度か小樽の運河工芸館を訪れて
いた関係で、身元引受人が見つかり工芸館で働かせてもらえることになった。
 以来一度も祖国の土を踏むことはなく、ずっと小樽で暮らしてきたが国籍はロシアのままになって
いる。
 そしてつい先日までガラス職人として働き続けてきたと。


「日本語、上手だね」
 陽子が感心して言う。
「ありがとう、ございます」
 ちくりと胸が痛んだのは、病のせいではなかった。

「それじゃあとは私たちだね。私は春野陽子。テレビ局で仕事をしているよ。夫を亡くしてここで娘と
二人暮しさ。年は聞かないでおくれ。みんなと違いすぎるからねぇ」
 無理をしているに決まっている冗談。それがわかっていて、みんなが笑った。

「私、琴梨です。レストランで、コックの見習いをしています。もう少しで19になります」
 そう締めくくられ、ようやくそれぞれの名前が明らかになった。

 重たく湿った空気が和んだように思えるのは、誰しも同じ。
 除湿機のようにべとつく緊迫感を吸い取ってくれた由子の朗らかさが、みんなにとって有り難かっ
た。

 少しコーヒーをすすって、陽子が言う。
「さて、それじゃ左京さん。わかっていることを話してくれないかい?」
「はい」





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