青が落とす影 <4>



 人の気配がないマンションの一階ロビー。昨夜と同じ部屋番号のインターホンを震える指で押す
葉野香。それは気が急いているからなのか。それとも何かに怯えているからなのか。

「はい?」
「琴梨さん? 私、左京葉野香。大丈夫?」
「は? ・・・・・大丈夫ですけど。今開けますね」

 かちゃりと音がしてエントランスのロックが解除された。マンションの廊下でも、きょろきょろと周囲に
怪しい人影がないかどうか様子を探りながら歩く二人。エレベーターの出入りやドアを開けた瞬間
など、狙うには絶好のタイミングに違いない。

 そして春野家の前へ。
 ここまで、怪しい兆候はなにもなかった。ただの考えすぎだったのだろうか。
 いや、まだわからない。
 「どうぞ」という琴梨の声に、挨拶もそこそこに玄関へ滑り込む。そして葉野香は勝手に、2つ
あった鍵をかけチェーンロックまで下ろす。

 琴梨は客人のすることではない行動にあっけにとられている。
「あ、あの、どうぞあがってください」
 そう言うのが精いっぱいだった。

 3人が応接間に入ると、一人の見知らぬ女性がソファーでコーヒーカップを手にくつろいでいた。
見知らぬ、とはターニャと葉野香にとってのことだが。
「こんばんは。琴梨のお友達?」
 川原鮎は、そう言って意外そうに来客を見た。

 つい厳しくなる視線で小柄な、どこかで見たことのあるような気がしないでもない女の子を見て、
「琴梨さん、この方は?」と尋ねる葉野香。
 答える琴梨の人懐っこい笑顔も、いくらか乏しい。
「私の友達。遊びに来てたの」
「友達って、以前からの?」
「うん。もう4年になるもの」
「なら、いいわ。そうだ、それよりお母さんは?」
「まだ、帰ってないですよ。あれから一回電話したけど繋がらなかったし」
「今日、何時に戻るって言ってた?」
「6時」
 壁に掛けられた時計は7時半を指している。目を見合わせるターニャと葉野香。ただ遅れている
だけなのか。
「ねぇ、お母さんがどうかしたの?」
 不安げな様子をいつもの穏やかな表情の中にも洩らす彼女。

 後で、ただから騒ぎしただけだとなれば迷惑になるだろう。しかし、そうでなかった時のことを考え
れば、ためらってはいられない。
「琴梨さん。まだ事情は話せないけど、こないだの事故を目撃したことであなたのお母さんが危険な
目に会うかもしれないの。それも普通の危険じゃない。犯罪的なこと。だから、一刻も早く無事を
確認したいの。手伝ってちょうだい」
 あまりに夢想外のことに、当惑する琴梨。
「お母さんが危ない? どうして・・・・・」

 そんな姿は、またもターニャの胸に悲しく刺さった。穏やかに暮らしていた家族が、自分のせいで
辛酸な事件に投げ込まれてしまうのかと。

「理由は後、とにかく、どこでも電話をかけて所在を確かめて。あと、心当たりのある場所を教えて。
探しに出るから」
 ここで待つだけではなんにもならない。
 しかし単独行動は避けたい。
 そう葉野香が思っていると、鮎が申し出た。
「わかんないけど、おばさんが大変なの? じゃあたしも手伝うよ」
「わかった。お願いするわ」

 琴梨がテレビ局で尋ねたところ、今から1時間ほど前に仕事から上がって帰ったとわかった。

 1時間。
 直行したなら、とっくに着いている時間だ。

 話し合った結果、車で来た鮎と葉野香がペアを組み、陽子の帰宅ルートを辿ることになった。
琴梨とターニャは春野家で電話をしながら待つ。

 もう夜の帰宅ラッシュは終わっている。街灯が車の数も少なくなったアスファルトを照らす。
こんな時間に立ち寄る所と言えば、コンビニぐらいしかない。陽子おばさんのコンビニ好きを知る
鮎は当たりをつけて店のひとつひとつに車を停め、葉野香が店内を探す。行き違いに通り過ぎて
しまわないように、鮎が道路を見張る。そんなことを何度か続けて、意外と他の可能性も多いことに
二人の焦燥は募った。

 ガソリンスタンド。給油に立ち寄るということもありえる。
 レンタルショップ。気が向けばビデオだって見るだろう。
 薬局。ちょっとした買い物があるかもしれない。

 どこにいるんだろう。お願いだから、無事でいて。

 二人の願いが一致したからか。
 一台のチェロキーが反対車線を走り去った。

「今の!」
 鮎が叫ぶ。
「あれ?」
「そう。ナンバーも合ってた」
「よし、戻ろう」

 急いでUターンして、後を追う。

 運良く、交差点で信号待ちで止まったチェロキーの真後ろに車をつけることができた。少し事情を
話しておこうと、車を降りて運転席に近づく葉野香。

 サイドミラーの中で、人影が動いた。

 不意に、赤信号を無視してチェロキーが猛然と交差点に飛び出した。

 ちょうど右から通りがかったバイクが避けようとして転倒する。
 金属質の擦過音。
 アスファルトを削り火花を散らす車体。
 危ういところでぶつかりはしなかったが、ライダーは路上に投げ出されて10mほども転がった。

「川原さん、追って!」
 葉野香が叫び、鮎がアクセルを踏んだ。

 そして葉野香はうずくまっているライダーへと走り寄る。
「大丈夫ですか?」
「ああ、なんとかね・・・・・」
 長身から予想したのとは意外に、フルフェイスのヘルメット越しに話されたのは女性の声だった。

 手で体の各所を確かめるように触りながら、体を起こす。
「なんだ一体、あの車。いきなり飛び出して・・・・・」
 ヘルメットを外し、ふうっと息をつく。
「あ、あたしのバイク!」
 路肩の近くで斜めに倒れているバイクへ走り寄る女性。葉野香も追いかける。
 重いはずの大型バイクを手慣れた様子で引き起こし、スタンドを立てて各部を調べる女性。
「擦っちゃったけど、壊れてはいないな。あ−よかった」
 そして葉野香を振り返って聞いてくる。
「あ、あんた、あの車のナンバー見た?」
「え?」
「警察に通報してやんないと。ああいうドライバー許せないんだ。この損害だって弁償してもらわ
ないとさ」
 憤慨している様子の女性に、どう答えるべきか迷う葉野香。
 あの車が陽子さんのであることは間違いない。だが、あんな運転をするはずがない。だとすれば、
別の誰かがハンドルを握っていたことになる。

 彼女の服の袖をぐっと掴み、詰め寄る。
「これ、まだ走りますよねっ」
「は、走るよ」
「お願い、手伝ってください。あの車を追わないと!」
 はぁ? と首を傾げる女性。
「追うって言っても、どこに行ったか・・・・・」
「あたしの仲間が追ってます。だから行かないと。お願いします!」
「なんだか、緊急事態みたいだね」

 携帯を取り出し、さっき登録したばかりの川原鮎の携帯にかける。

「もしもし、川原さん? 左京です」
「あ、左京さん、今、追ってます。すごいスピードで、ついていく、のも、やっとです」
 風切り音が背後から聞こえてくる。途切れがちな言葉が、追跡の困難さを示している。

「なんとか食い下がってて。すぐ追いかけるから」
「お願いします。今、231号線に入って石狩町方面に向かってます」
「わかった。このまま切らないでいてね」
 そして女性に、「お願いします、乗せて・・・・・」と再び頼もうとすると、聞こえた会話から軽い気持ち
で言っているのではないのがわかったのか、あっさりと承諾してくれた。
「いいよ。じゃ、後ろに乗りな。追うって言っちゃったんだから、放ってもおけないしね。ついでにドライ
バーもとっちめてやる」
 予備のメットをバイクから渡し、尋ねる。
「ところであんた、名前は?」
「左京葉野香です」
「私は桜町由子。それじゃ、行くよ!」

 追跡劇が始まった。札幌の郊外から北西へ向かっていた車は、どこを目的にしているのかをくらま
そうとしてか無秩序にルートを変えてゆく。連携を取りながら、撒こうとして交通ルールを無視して
進路変更を繰り返すチェロキーの逃走を追い詰める車とバイク。二輪の長所を活かし、相手を先回り
した効果で次第に両者の間隔が狭まる。

 カーチェイスは1時間も続いただろうか。
 いつしか舞台は再び札幌市街へと戻っていた。

「あれ!」
 向かい風に負けない大声を出し、由子に指を差して教える。

 路肩にライトが点灯したままのチェロキーが停止していた。そこは市内でもこの時間になると人も
車も少なくなる商業地の一角。
 少し距離をおいてバイクを正面に廻す。

 運転席にも助手席にも、人の姿はない。
 周囲を窺う。
 やはり人影はない。

 葉野香はヘルメットを外そうと思ったが、万一のことを考えてそのままでいることにした。
「川原さん。車を見つけたよ。ここは・・・・・」
 場所を言い、通話を切る。

 バックシートから降りた葉野香が、慎重に近づく。「待っててください」と言われた由子は黙って
頷いた。

 エンジンもかかったまま。振動が伝わる運転席のドアに手をかける。施錠されていない。
 重いドアをそっと開けると、誰もいない前部シートが運転席のパネルからの青白い明かりで照ら
された。
 すると、後部座席で呻くようなくぐもった声が。
「春野さん!」
 春野陽子が、粘着テープで口を塞がれて横たわっていた。目には黒いアイマスクが、これもテープ
で固着されている。拘束されている体をよじって、助けを求めているのは明らかだった。
「春野さん! 大丈夫ですか? 私、左京です!」
 大急ぎで後部のドアから乗り込み、手を伸ばしてテープを剥す。通常のガムテープよりはるかに
粘着力がある。
「なんだよ、このテープ!」
 悪態をつきながらも、彼女の痛みが少なくなるようにできるだけそっと剥す。
やっと外れると、
「左京さん、娘は、琴梨は?」
そうかすれた声で切迫して聞いてきた。
「琴梨さん? 家にいるはずです」
「電話して!」
 まだ手足を電気ケーブルのようなもので縛られたまま、切迫した声で言う。
 すぐに携帯をかけると、数度のコールですぐに琴梨が出た。
「はい、春野です」
「琴梨さん? 左京だけどそっちは無事?」
「はい。ターニャさんもここにいます」

 ふぅっと息を吐き、「大丈夫だそうですよ」と教える。
「・・・・・よかった」
 不意に、はらはらと陽子の瞳から涙がこぼれ落ちた。
 握った手の中で、琴梨の声が聞こえた。
「お母さんは? 見つかりました?」
「うん。ここにいるよ。もう、大丈夫。安心して」
 葉野香の双瞼にも、熱いものがこみ上げてきた。





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