青が落とす影 <3>



 疲労の陰が落ちていたターニャの白い頬に、安らぎとともに紅みが差すのが葉野香にも薫にも
わかった。二人が見つめていると、一度深呼吸したターニャが体を起こし、普通にソファーに腰掛
ける。
「葉野香さん。この先生に、事情を話してくれませんか?」

 葉野香は頷く。
「ターニャが、かまわないなら。私もその方がいいと思うし」
 今の会話で何がわかったのか葉野香には不分明だけれども、きっとターニャにとって重要なこと
だったのだ。この椎名という医師も、信頼してよさそうだし。

 交互に二人の顔を見ながら、「・・・・・なんのこと?」と薫。
 こほん、と咳払いをして、葉野香は薫に正対する。
「これから話すことは、まだ私たちにもどういうことなのかわからない、不可解なことです。だから、
秘密を守ってくれますか?」
 そう前置きして、葉野香は話し出そうとした。ところが生憎そこに食事を終えたらしい事務員が
戻ってきてしまって、口を閉ざすしかなくなった。

「こっちで聞くわ」
 薫は立ち上がり、自分の机がある部屋へと二人を招き入れた。同僚と相部屋になっているが、
今日は夕方まで戻ってこない。

 改めて、葉野香がそもそものきっかけから説明する。ターニャは隣で黙っていた。
 葛城梁という人間について、当然知りうべきことがまったくわからないこと。
 目撃者に、尾行がついているかもしれないこと。

 所々で、より精密な解説を求める薫。
 わかっていることよりも、わからないことを話すしかない葉野香。
 すべてを語るまでに、長い時間がかかった。
 その頃には、外では夏の太陽が色彩を落としていた。

「まるで、影を追いかけているみたいね」
 そう言う薫の腕は、ずっと胸の下で組まれていた。謎の難解さを示すように固く。葉野香は手帳を
閉じて頷く。
「そうですね。真っ黒で、なにもわからなくて」
「でも、彼という人間がいたのは確かで、死んだのも確か。問題は、どうして彼がそんな人目を避け
る生き方をしていたかよね」

 ふぅ、と、二人がこんがらがった頭をほぐそうと一息ついた時、ターニャが口を開いた。
「確かじゃ、ありません」
 これまでの彼女らしくない、きっぱりとした口調に「え?」と異口同音に戸惑う。そんな二人に続け
られた言葉。
「椎名先生が見た遺体は、きっと彼じゃないです」

 唖然として、ぽかんと口を開けてしまう葉野香。同様だった薫が、先に反応したのは自分の手がけ
た仕事に疑問符を付けられたからだろうか。
「彼じゃないって、じゃ誰なの?」

 ふるふると振られる金色の髪。
「それはわかりません。でも、彼じゃないんです。だって彼は、左肩にひどい怪我をしていたんです
もの」
 はっと葉野香は気づいた。昨夜、春野家でターニャが拘った理由が。
「怪我? 左肩って、そのことだったのね?」

 彼女はずっと考えていた。左京葉野香と事故を調べながら、あんな怪我をしていた彼が、高速で
車を運転できるのだろうかと。そして、どの報道でも肩の負傷に触れていなかったことに疑問を
持っていた。
 あの夜、彼が部屋を最後に訪れた夜のことを、意を決して明らかにするターニャ。
「あの事故の前。3時間ぐらい前に、彼は私の部屋へ来ました。左の肩から、ひどく血を流して。
私、応急処置をしました。でもそれは、消毒して布を巻いただけ。だから遺体が彼なら、傷がある
はずなんです」

 少し考えて、「どんな傷? 切り傷?」と薫が尋ねる。もう一度遺体の状況を思い出しながら。
「撃たれたって、言っていました。銃で」
 ごくりと息を飲み込み絶句する葉野香と薫。
「銃って、鉄砲?」
 なるほど。ターニャが話したがらないはずだ。犯罪が絡んでいてもおかしくない。いくらここが北海
道でも、まさか猟師に誤って射たれたわけでもあるまい。そう葉野香は納得した。

「誰かに追われていたんです。それで、私の部屋に逃げ込んできて。だけどこれ以上巻き込めない
って、傷の手当をしたらすぐに出ていってしまって・・・・・」
 ターニャの語尾は、悲痛に途切れた。
 あの遺体が彼ではないとしても、彼が重傷を負い、行方不明だということは変わっていないのだ。
 それに思い至り葉野香は、
「それなら、きっと生きているよ。諦めないで探そう。もう別れた人だって、生きていた方がいいに
決まってるもんね」
 こう言って元気づけた。
 肯定も否定もせず、ターニャの表情は凍ったままだった。

「これは、たいへんなことね・・・・・」
 そう薫が呟いた。
 理知的な分析は得意だったが、その薫でもここまで不可解な事態を把握するのは困難だった。
「あの遺体が別人のものだとしたら誰のものなのか。確認に来た伯父というのは何者なのか。
どうして間違った確認が成立したのか。そもそもあの事故は事故だったのか。彼を撃ったのは誰
なのか。なぜ撃たれたのか。
 葛城梁とは、誰なのか。
 何一つ、わかってはいないわ」

 3人の前に、ごろりと転がった血生臭い現実。もはや単なる交通死亡事故では説明できないこと
は、誰の目にも明らかだった。

 追われる者が善人だとは限らない。たとえ由なくして撃たれたとしても、葛城梁は銃器の不法所持
という犯罪を犯していた。
 このことを警察に通報したらどうなるだろうか。
 当然そうすべきであるはずだ。
 しかし、それはターニャに元恋人を司直に告発しろと強いることでもある。

 生きている可能性が生じた今、葉野香はそうしたくなかった。

 はっと、考え込んでいた薫が窓に駆け寄った。突然の俊敏な挙動にびくっとする二人。右に左に
視線を動かし、10秒ほどもそうしていたかと思うと、今度は部屋の引き戸へ走り、いきなりガラッと
開けた。
 首を出し、やはり左右を確認する。
 そしてほっとしたような表情を浮かべ、また自分の椅子に腰掛ける。

「あの、どうか、しましたか・・・・・?」
 芝居じみてすら思える薫の行動を見ているしかなかった葉野香がやっと尋ねる。
 その問いに答えず、逆に聞く。
「リピンスキーさん。左京さん。あなたたち、ここに来るまで誰かにつけられたりしてない?」
「えっ・・・・・?」
 顔を見合わせる二人。そんなこと、考えてもいなかった。

 薫は真剣だった。
 犯罪事件と深く関わらざるを得ない仕事柄か、ミステリーをよく読んだからか、この件の持つ危険な
兆候を感じとっていた。
「目撃者が尾行されているかもしれないって言ったでしょ。あれだって、本当かもしれない。あなた
たち。いえ、もう私もね。私たちは、知ってはいけないことを探ってしまっているのかもしれないわ。
だとすると、危険なのよ」

 声も出せず、身近にあるのかもしれない悪意の存在を初めて耳にして、ただ聞き入る葉野香。
そして大変なことに巻き込んでしまったかと悔いるターニャ。

「少なくとも葛城さんを殺そうとした人たちがいる。成功したのか失敗したのかわからないけど、人の
命を狙うなんてまともじゃない。私たちが迂闊に首を突っ込んだら、遠慮するとは思えないわ。考え
すぎならそれでいいけれど、そうじゃない場合のことを用心しないといけないわ」
 薫の言う意味は葉野香にもわかる。もう記者見習いの真似事ではすまない。銃を持った誰かが、
夜道で背後から撃ってくるなんてことだってありえないことではないのだ。
 この平和なはずの日本で。

「でも、ここまでやって知らないふりはできないよ。私」
 はっきりと、葉野香は言った。
 ターニャの顔を見ることなしに。
 そう。
 これは自分で決めた、自分の意志だから。

 薫も頷いた。
「私もよ。手を引こうってことじゃないの。これからはいっそう慎重に動かないといけないってことよ。
このわけのわからない謎の全体がわかるまではね」

 口を開こうとするターニャを、葉野香が手で制した。
「いいの。私は好きでやるんだから」
「私もよ。あ、これから私もあなたをターニャって呼ぶことにするわ。いいでしょう? あ、そのかわり
先生って呼ぶのはやめてね。薫でいいわ」
 巧みな薫の言い方に、「これ以上、誰にも迷惑はかけられません」と喉まで出かかった言葉は封じ
られてしまった。
 微笑んでくれる二人に、
「は、はい」
と、精一杯元気に答えるターニャだった。

 思い出した葉野香が言う。
「あ、目撃者の人にも、警告しないと」
「そうね。早い方がいいわ」


 ひとまず、今夜のところはターニャは自室に戻らず葉野香の家に泊めることにした。兄夫婦もいる
ことだし、一人暮らしのアパートよりはまだ安全なはずだった。
 薫は自分に尾行がつくかどうか調べながら帰るという。
 互いの連絡先を教え合い、別々の出口から時間もずらして出ることにした。

 薄暗くなりはじめた大学の敷地を、いくらか急ぎ足で歩くターニャと葉野香。
「なんか、映画とか、小説の世界みたいだよ」
 そう努めて明るく話す葉野香にターニャが
「恐い、ですか?」
と聞いた。
「本音を言うとね。でも、空威張りが私の得意技だから」
「私のせいで・・・・・」
 ぽん、とターニャの背を叩く。
「違うだろ。私が自分で首を突っ込んだの。これからだって、自分のために調べるんだ。これでも
新聞記者見習いだからね」
 話しながらも、後方をさりげなくチェックする葉野香。目につく不自然な存在はない。

 大学の正門を出て、人通りの多い街道に出たところで、
「あ、まず電話しよう」
と葉野香が携帯を取り出す。
 もうビルの向こうに傾いてしまった太陽では数字がよく読めず、自動販売機の光を頼りにする。
手帳を右手に、携帯を左手に器用にボタンを押した。

「もしもし、春野さんのお宅ですか?」
「はい。そうですけど」
「あ、琴梨さんね。昨日お邪魔した左京ですけど」
「はいはい。昨日はどうも。こんばんは」
「あの、お母さんはいますか?」
「まだ帰ってきてないんです。今日はもう、とっくに戻っていていいはずなんだけど」

 ぞくりと、葉野香の胴体から手足の末梢まで嫌な感覚が走った。毛虫が皮膚と筋肉の間を蠢く
ような。ためらわず叫ぶ。
「ターニャ! タクシーを拾って!」
 そして携帯に。
「琴梨ちゃん! これからそっちに行くから、絶対に家から出ないで待ってて。いい? 絶対だよ。
知らない人が来ても、出たらだめだからね!」
 電話口であっけに取られているであろう琴梨に、半ば命令口調でまくしたてて電話を切る。

 そしてとにかくタクシーを急がせ、平岸へ。料金を弾み、マンション前で降りる。夜の住宅街はしん
と静まり返り、各部屋の玄関前の明かりだけがこうこうと光っていた。

 葉野香はターニャの手を握った。
「いい、用心してね。離れたらだめだよ」
「はい・・・・・」





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