青が落とす影 <2>



 翌日、電話帳と地図で監察医務院が北海大学内にあることを調べた二人は、早速に訪ねてみる
ことにした。

 創立からの歳月を感じさせる正門をくぐり、通りがかりの男子学生に場所を聞く。
「あっちに医学部棟と大学病院があるから、そこで聞くといいよ」
 とびきりの美人二人とあって、案内しようかとまでいう学生を葉野香が軽くあしらい歩き出す。

 夏休みのせいだろう。敷地内に人影はほとんどなく、木陰のベンチも手持ち無沙汰で退屈している
ようだ。まばらな蝉のコーラスに伴奏され、ふと緊張が緩んで歩調もゆっくりになった。

「ねぇ、ターニャ」
 暫し続いた沈黙を破ったのは葉野香。
「はい」
「葛城梁ってさ、どんな人だったの?」
 そう尋ねてみた。
「どんな・・・・・ですか?」
「これまで調べたような意味じゃなくて、あなたといる時、彼はどんな人だったのか、知りたいの」

 想いを巡らすように、彼女は木立の隙間から雲のかけらすらない空を見上げた。
 空と同じ色の瞳。
 描画される面影。



 どれほどの時と記憶を遡行したのだろう。

 何十歩もそのまま歩いて、ようやく巻き戻されたフィルムが再びしまい込まれた。

「彼は・・・」

 静かに返事を待ってくれた葉野香に言う。

「寂しい人、でした」

 その答に小首を傾げる彼女。
「寂しい?」
 地味な人とか大人しい人とかあるけれど、寂しい人、という言い方は耳に慣れがない。
 ターニャはこくりと頷く。
「そう。彼はいつも、そうでした。待ち合わせをすると、いつも先に来て待っていて、何かに寄り
掛かったりしながら地面を見ているんです。
 ただ、じっと。
 空を見ている時も、人波を見ている時もありました。
 待ち合わせだけじゃなくて、私が服を買う時なんかも、お店の外で待っていて、視線が合うと
微笑んでくれて。
 でも、一人でいる彼は、一度だって微笑んでいる時はなかったんです。
 一人でいる彼は、いつも寂しそうでした。
 人混みの中にいても、彼だけが別世界にいるみたいに。誰もが透明な彼をすり抜けてゆくように

 家族の話を、したことなくて。友達の話もしたことなくて。

 彼はきっと、いろんな人と仲良くなれる人なんです。楽しい話をたくさん知っていて、思いやりが
あって、頼りがいがあって。なのに、そうしないで、誰からも離れていようとしているみたいで・・・・・

 それが、とても寂しそうでした・・・・・」



 寂しい横顔がもうひとつ、名もない風に吹かれていた。




 やがて医学部棟が見つかり、入り口の案内板で「監察医務院」を探す。外気と一変して足元が
痺れるような涼しさの廊下を歩く。病院特有のつんとする匂い。時々擦れ違う白衣姿の男女がいた
が、特に二人に気を払うこともなかった。
 事務室らしいところを見つけ、ノックしたドアを開ける。職員らしい女性が、「はい」と机を離れた。
「すいません。ここの監察医の方に話を伺いたいんですが」
 恰幅のよい、気の良さそうな年輩の女性がにこやかに応じる。
「監察医といっても何人もいるよ。どの先生? 誰でもいいのかい?」
「少し前にあった、高速道路から落下した車の事故、あの遺体を扱った方にお会いしたいんですが」
「ええと、あれは嶋田先生だったかしら。お待ちなさいな」
 女性が壁に掛けられたホワイトボードを調べる。そこに毎日の予定や行き先が記されているよう
だ。
「嶋田先生は、今現場検死に出ていて不在ですね」
 ターニャも葉野香も現場検死という言葉は知らないが、事件の現場で遺体を調べることなのだろう
とは想像がつく。
「いつ、お戻りになられますか?」
「夕方よ。遅い時は夜になるわ。今日どうなるかは出先の状況次第だからわからないね」
「そうですか・・・・・」
 いくらかの落胆を混じらせる葉野香の声。
 その時、事務室の奥にある扉から白衣の女性が現れた。
「あ、椎名先生。お疲れさまです」

 ふぅっと一息ついて、応接用のソファーに座り込む薫。手にしていた書類挟みをガラステープルに
置く。
「やっと一体終わったわ。もう在庫もないから、今日はこのまま楽に終わりたいわね」
「そうですね。繁盛しなくていい仕事ですから」
 そこでやっと見慣れない顔に気づき、事務員に聞く。
「・・・・・そちらの方は?」
「あ、嶋田先生に話を聞きたいというんですけど、出ていらしてますでしょ。それでどうしようか
と・・・・・」
 立ち上がり軽く手を振って、言葉を遮る薫。
「そうじゃないわ。そっちの、金髪の子。あなた、具合が悪いの?」
 えっ、という驚きの表情が入り口の3人に浮かび、視線がターニャに集中する。まじまじと見つめ
られ彼女は言葉をもたつかせてしまう。
「あ、いえ、その・・・・・」
「こっちいらっしゃい。顔色が普通じゃないわ」

 ソファーに二人を並ばせた薫はまず自分が椎名薫という医師であることを話し、ターニャの名前を
聞いてから脈を取るなど軽く診察をした。
 名前を名乗り合うのは、いい診察の第一条件だと思っている。
「持病があるのね? 心臓?」
「は、はい。心臓が、少し」
 葉野香は様子をじっと見ていたが、『心臓』という言葉に衝撃を隠せなかった。
「薬は持っているの?」
「はい。ちゃんと」
「すぐに発作は起きないみたいだけれど、涼しいところで少し休んでいきなさい。ここでいいから。
無理はいけないわ」
 真摯な助言に、いくらかのためらいはあったが、
「そう、させてもらいます。すいません、葉野香さん」
と、素直に従うことにしたターニャ。
「いいよ。どうせ待つつもりだったんだから。気にしないで休ませてもらおうよ」
 明らかに、『足を引っ張っている』と自分を責めているターニャを楽にさせようと、彼女の肩を優しく
叩いた。

 ソファーに横になるターニャ。
 葉野香はその手を取る。
 自分の手と比べても、あまりに細く、肉の薄い、華奢な手指にやっと気がついた。
「あのさ、私、体が悪いのにあちこち連れ回していたんだね。ごめんな。ターニャ」
「いいんです。私が、望んでしているんですから」
 少しだけ強く握り返し、気持ちを通い合わせる。
 一昨日に知り合ったばかりなのに、不思議なほど相手の心がわかる二人になっていた。

 事務の人が出してくれたアイスコーヒーで喉を潤す葉野香と薫。ターニャにはミネラルウォーター
が出された。そして事務員は昼食を取りに出ていった。

「でも、お医者さんってやっぱりすごいですね。何日も一緒にいて、私、彼女に病気があるなんて
わからなかった。一目見ただけで、しかも肌が白いのに顔色がぱっとわかるなんて」
 感心する葉野香に、薫はたいしたことでもないと首をすくめた。
「医者なら、そういうことは基本なの。あなたが健康だってことも、ちゃんとわかるわ。最近は死体
ばかり見ているけど、腕は鈍ってないみたい」
 最後は苦笑になった。脈を取ったのも本当に久しぶりだったのだ。
「あなたも、監察医なんですか」
「そうよ。そういえば、嶋田先生に用事って先生の知り合い?」
「いえ、違うんです」
 葉野香は訪問の理由をかいつまんで話した。調べている背景などは伏せておいたが、あの事故
について情報を集めていると。

「あら、だったら私が話せるわよ。私もあの仕事は手伝ったから」
 意外な事実を聞き、目を丸くする葉野香。
「えっ、そうなんですか?」
「何が聞きたいの?」

 葉野香は手帳を出し、これ幸いと質問を浴びせる。
「あの遺体って、今どこにあります?」
「身元確認がされて、引き取られていったわよ」
「いつです?」
「すぐよ。その日のうちに」
「確認したのは、どなたでした?」
「たしか、伯父だとか聞いたわね。私が会ったわけではないけれど」

 メモを綴る指が止まる。さっきまで眼を閉じていたターニャも、僅かに瞼を上げて反応している。
「ターニャ、いい?伯父さんの話、聞いたことある?」
 横たわったまま首を振る彼女。
 ぜひとも詳しく知りたい情報に、改めて確認する。
「その人が、遺体を葛城梁さんだと認めたわけですね」
「そうみたいよ。かなり遺体の状態は悪かったから、遺留品とかに頼ったのかもしれないけど。
でも、そんなに意外?」
 こういうところに運ばれてくる死者は、身元不明という場合も少なくない。警察の捜査で人物特定
がされても、引き取り手がなくそのまま無縁仏となる場合もある。しかし、身元が確認されて引き
取られるのがやはり当たり前だ。
「・・・・・ええ。故人は生前、身寄りはないと言っていたんです」
「言ったって、誰に?」
「彼女に。彼女は、彼の恋人だったんです」
「あ、そうだったの・・・・・残念なことをしたわね」
 もうターニャは、はっきりと目を開けていた。
「いいんです。それで、あの・・・・・」
 続きを葉野香が引き取る。
「その伯父さんの名前とか、わかりますか?」
「書類を調べればわかるけど、教えられないわ。部外者に流せる情報じゃないから」
 きっぱりと拒絶され、これには記者見習いも諦めるほかない。
「そうですか。そうですよね」

 葉野香はじっと考え込んだ。
 伯父の存在。
 ターニャ以外で初めて、彼を知っている人を見つけた。
 どうにかしてこの人を見つけ出せればかなりのことがわかるはず。伯父なら姓が葛城の可能性が
高い。どうすれば見つけられるだろうか。

 ターニャは目を閉じて思いを巡らせた。
 伯父の存在。
 「家族はいない」と言っていた彼。
 伯父は家族に入らないからそう言ったのだろうか。
 親戚としての付き合いをしていなかったのだろうか。
 彼自身伯父のことを知らなかったのか。

 それとも、嘘をついていたのか。

 黙ってしまった二人を怪訝な表情を浮かべて見ていた薫に、ふと思い出されたことがあった。
「ええと、リピンスキーさん? 一つ、彼のことで聞きたいんだけど、いいかしら」
「はい」
「彼、目に何か病気を持っていたりしなかった?」
「目、ですか?」
 薫の唐突な問いに葉野香もきょとんとしている。
「そう。少し気になっていたの。詳しくは話せないから、聞くだけになってしまうんだけど」
 思い出しながら、ゆっくりと答えるターニャ。
「視力は、いい方でした。眼鏡もコンタクトレンズもしていませんし。悪いという話は聞いたことが
ないし、気づかなかったですけど・・・・・」
「そう。それならいいの」
 どこかまだ釈然としない気分を残しているような薫に、今度はターニャが尋ねる。
「あの、私もひとつ聞いていいですか」
「守秘義務があるから答えるとは約束できないけれど、何?」
「彼の左肩は、どうなっていました?」
「左肩?」

 葉野香も、昨夜のことを思い出して耳をそばだてる。左肩についての彼女の拘りは、何を意味して
いるのか。

「特に、なにもなかったわよ」
 葉野香と、そしてターニャの緊迫と対称的に、至極あっさりと薫は答えた。
「何もですか?」
「ええ。右の鎖骨が折れていただけね。左には目立った外傷もなかったわよ。炭化していたけど」
「もし、怪我をしていて、それが燃えてしまうとわからなくなったりするんですか?」
「傷にもよるわよ。皮膚が破れていると燃えてもわかるし」
 大きな切り傷があった場合と、そうでない場合の違いを皮膚の丈夫さと併せて、薫は皮つきの
チキンを焼いた場合の例で説明した。
 しばらく鳥肉を食べたくなくなった葉野香だった。
 しかしターニャは気にする様子もなく、
「傷は、なかったんですね」
と繰り返し問い正した。
 記憶を再確認する薫。
「なかったわ。全然。それが、どうかして?」

 ターニャは、瞳を閉じた。
 胸の上で組まれた手は、神に感謝を捧げているようであった。


 彼は、生きているかもしれない。





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