第2部 青が落とす影



 その日から、ターニャ・リピンスキーは左京葉野香と行動を共にすることにした。ターニャだけが
持つ葛城梁の情報から、縺れた糸で隠れている偽りのない人物像を明らかにするために。

 アルバイトよりもこの件を優先することにした葉野香は時間が自由になる。都合を尋ねられた
ターニャは、特に制約はないと答えた。

「じゃ、早速取り掛かろう」
 ここまでに手に入れた情報をすべてターニャに与えた葉野香は、ともすれば暗くなりがちな彼女を
元気づけようと大きな声で言った。

 すぐに調べられる唯一の手がかりは、彼の職場の電話番号。小樽駅前の公衆電話ボックスから
番号をプッシュする。
 葉野香は相手が出たらなんと言おうかと緊張しながら最後の番号を押した。
 しかし、「この番号は現在使用されておりません」という無機質な音声が、公衆電話の重たい受話
器から返ってきた。

 すぐに受話器を戻し、ピー・ピーと騒がしいテレホンカードを抜く。
 無言で首を振る彼女に、「これも、役に立ちませんでしたね」と残念そうなターニャ。
「そうだけど、これもおかしいんだよ」
「おかしい?」
「れっきとした会社だろ? 不動産とか持ってるんだから、管理の仕事とかあるはずなんだ。電話が
ないなんてどう考えてもありえない。それに、以前は繋がったのに今は繋がらないってのも妙だ」
「そうですね。どういうことなんでしょう」
「ただ番号が変わっただけかも知れないけど、なにかおかしい。偶然の一致じゃないような気が
する」

 謎は増えた。しかし、解明から遠ざかってはいないと信じている。連立二次方程式のように、謎が
増えれば解けることだってあるのだ。


 まずは、事故の状況を調べることにした。葉野香の手元には警察の調書などないから、まずは
目撃者に会って話を聞くしかない。幸い、現場に行った記者が第一目撃者から取材していて相手の
名前も記録してあった。

 春野陽子。札幌市平岸区。まずは、ここに当たろう。


 その陽子は、ここ毎日どうも気になることがあった。誰かに尾行されているような気がするのだ。
出勤の時も、帰宅の時も、テレビ局を出入りする時も、遠くからの監視の目がついてまわっている
ような感覚がある。

 ストーカーだろうか。こんなおばさんになって、とは思うが、世の中の男の好みは千差万別。ありえ
ないとは言い切れない。この間の事故の時、テレビカメラに映って現場の状況を話したから、そんな
ことがきっかけになったのかも。

 なんの実害も接近もない。
 気のせいだとも思える。
 しかし疑念は去らない。

 仕事柄、スケジュールは不規則だ。偶然は起こりずらい。しかし娘に話すのも心配をかけるようで
気がひけた。

 電話が掛かってきた時、ピンときたのはこういう事情があったからだ。
 たまたま帰宅が早かった陽子は、次の週のスケジュールをシステム手帳を手に検討していた。
キッチンからは娘の作る夕食の香りが漂ってくる。我が娘とは思えない腕前には感心するばかりだ。

 鳴ったリビングの電話に歩み寄る。ナンバー・ディスプレイを確認すると、発信者非通知ではない
がここまでかかってきたことのない相手だ。嫌な予感を感じながら耳へと受話器を当てた。
「もしもし」
「春野さんのお宅ですか?」
 心配に反して、若い女性の声だった。琴梨の友達だろうか。
「ええ。そうですが」
「春野、陽子さんでいらっしゃいますか?」
 おや、あたしかい。なにかの勧誘かね。
「どちらさまです?」
「私、北海新報で働いている者です。左京葉野香と申します。先日目撃なさった事故のことで、いく
つかお伺いしたいことがあるんですが」
 記者?
 なんで今ごろ取材に?
 もうとっくにニュース性などなくなっているのは、同じ業界の人間としてよくわかっている。警戒ラン
クが上がる。
「もう、全部警察の方にも記者の方にも話したよ」
「はい。それはわかっていますが、ある事情がありまして、ぜひもう一度詳しく話を聞かせて頂き
たいんです」

 事情?

「・・・・・私をつけまわしているのは、あんたかい?」
「は?」
 どうやら相手は自分よりも世慣れてはいないようだと踏んだ陽子は、いきなり疑念をぶつけること
にした。
「私を尾行しているのかって聞いているんだよ」
 とっさのことで慌てたのか、返事が戻るまでに数秒もかかった。
「いいえ! そんなことはしていません。尾行されているんですか?」
「いや、違うならいいんだけどね。よくわからないけど、話だけなら聞いてもいいよ。そっちが、きちん
とした相手ならね」
 真剣な声に誠意を感じた陽子は軟化することにした。同じマスコミの人間なら、持ちつ持たれつと
いうのも避けて通れない大事なことだ。
「ありがとうごさいます。では、これからそちらにお邪魔してよろしいですか? 私ともう一人の女性
ですが」
「わかったよ。あ、もう一度あなたの名前を言いなさい」
 それをメモする陽子。
 もう一人のリピンスキーという女性と2時間ほどで行くという約束で、電話は終わった。

 そして電話帳を取り出し、北海新報に掛ける。左京葉野香というアルバイトがいることは事実だと
いう。

 ほどなくして夕食の支度が整い、食卓にお皿と料理の鮮やかな花が散りばめられる。ほとんど
食べ終わったところで、陽子が尋ねた。
「琴梨、ここ何日かでおかしなことなかったかい?」
「おかしな、こと?」
「どんなことでもいいんだよ。例えば、誰かに付け回されたり、聞かれたりしなかったかってこととか」
「別に、なにもないよ。いつもと同じで」
「そうかい」
 ほっとすると同時に、あまり周囲に敏感ではない娘の性格から、気がついていないだけかも知れ
ないという不安も残る。
「どうかしたの?」
「これからお客が来るんだけど、どうもおかしくてね。新聞社の人だって言うんだけど・・・・・」
 さっきの電話のあらましを話す。

「あの事故が、どうしたんだろう」
「話を聞いてみないとわからないけど、一緒にどういうことなのか聞いておくれよ」
「うん。いいよ」

 夜9時を回った頃、来客のコールがあった。マンションのエントランスからのインターホンだ。
ロックを解除する陽子。

 やがてドアの前に現れたのは、娘の琴梨とほとんど年齢の変わらないような女性二人。他に誰も
いないのを確認して、陽子はドアを開けた。

「こんな時間に突然、申し訳ありません」
「あなたが、左京葉野香さんだね」
「そうです。そして彼女が、ターニャ・リピンスキーです」
「こんばんは。はじめまして」

 挨拶を済ませ、娘のいる応接間へ彼女たちを案内すると、一人が白人だったことに琴梨は目を
見張って驚いていた。蛍光灯の下でも燦々と煌くターニャの髪や容貌に気を取られながら、彼女は
紅茶を入れてもてなすことにした。

 それぞれの自己紹介が終わり、4つのティーカップが並んだのを契機に、陽子から切り出す。
「それで、なにを聞きたいんだい?」

 葉野香は、この件にどこか不明朗で警戒すべき印象を抱きはじめていた。だから、この場では
記者修行の一環としてあの事故に焦点を当てて調べているということにした。ターニャが被害者の
元恋人だとはありのままに話したが。
 どうやらそ説明で納得してくれたらしい二人に、事故の一部始終を話してもらう。
 陽子が主に説明し、時折琴梨が注釈を入れる。新聞記事よりは詳しく事態について掴めたが、
目新しいものは出てこない。
「事故現場で、不自然なことはありませんでしたか?」
 葉野香が尋ねると、春野母子は顔を見合わせる。
「不自然と言われてもねぇ。だいたい自然な事故なんて私は知らないよ」
「あっという間に、すごいことになっちゃったし」
「どんな些細なことでも構いません。亡くなったドライバーの様子とか、運転の仕方とか」
 食い下がる葉野香。しかし、目撃者は困ったように黙ってしまう。

 壁に掛けられた時計の針が進む音だけが応接間に続く。この辺りが潮時か、と葉野香が辞去
しようかと思った時。

「なんと言ったかね。あの被害者」
 そう陽子が尋ねた。
「葛城梁。27歳です」
 ポケットから、ターニャから預かっている写真を差し出す。それは調査に使っていた免許証用写真
ではない。彼女が一枚だけ持っていた、彼とのスナップショット。彼は写真が嫌いだったと言う。

 手に取って、少し距離を作ってしげしげと見つめる。形の良い眉が、いくらか寄せられる。
「・・・・・追い抜かれた時に、ちらりと見ただけだし、その後は血だらけで逆さになっていたから、
確かじゃないんだけどね・・・・・」
「けど?」
 つい身を乗り出す葉野香。
 陽子は写真をテーブルに戻し、腕を組む。
「写真が古いってことはないかい? これ」
「2年ほど前に撮影されたものです。そうだよね。ターニャ」
「はい。間違いないです」
 道内の遊園地に行った時に、設置されていた記念写真ブースで撮影したもの。彼女の肩を抱く
彼の、はにかんだ笑顔。

 いくらかためらいながら、感じたことを口にしてみる。
「追い抜いて行った時も事故になってからもサングラスをかけていたし、よく見ちゃいないからはっ
きり言えないんだけどね。なんと言うか、もっと骨の浮いた顔だったような気がするよ。ま、定かじゃ
ない話さ」
 その意味を葉野香が図りかねていると、
「あの、運転していた人はどういう服装でしたか?」
 それまでほとんど黙っていたターニャが、初めて自分から口を開き、春野母子に問いかけた。
「下はわからないけど、上は黒っぽい、半袖のポロシャツだったよ」
 逆さになった車内で服も血に染まっていたであろうが、だいたいの色や形は陽子の記憶に
あった。
「左の肩に、なにかありませんでしたか?」
「なにかって?」
「例えば、包帯とか」
 首を傾げ、映像を思い起こしてみる。
「気がつかなかったねぇ。怪我してたのかい?」
「・・・・・いいえ。それならいいんです」

 知りたいことは充分に聞けたと判断し、二人が春野母子にお礼と突然に訪問したことを詫びて
辞去したのはそれからすぐだった。

「ねえ、ターニャ」
「はい」
 街灯に照らされたアスファルトに、コツコツと響くミュールの足音。
「左肩って、なんのこと?」
 わざと葉野香は、彼女の顔を見ずに聞いた。
 きっと答えにくい事情があるのだと想像したから。
 その証拠に、ターニャの足が止まった。
 葉野香も立ち止まり、待つ。
 沈黙。
 そして。
「・・・・・ごめんなさい、まだ言えません」
 自分を痛めつけるような、そんな余韻の残るターニャの声だった。
「いいよ。いつか話せる時が来たらで」
「はい。いつかきっと、話します」

 ターニャにはわからなかったし、葉野香自身もわかっていなかったが、そのいつかはすぐに迫って
いた。

 う〜んと伸びをして、また駅へと歩き出す葉野香。
「さて、次からどうしようか。あと手がかりはあったかな」
 隣を歩くターニャが尋ねる。
「あの、梁の遺体ってどうなったんですか?」
「遺体か。確か監察医務院ってとこに運ばれて、それから遺族に引き渡されることになってるんじゃ
なかったかな。でも、遺族なんていたのかな」
 家族はいないって言っていたのが事実なら、無縁仏として埋葬されているだろう。もう事故から3週
間も過ぎているし。
「そこに、行きませんか?」とターニャ。
「そこって、監察医務院?」
「はい」





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