凍りえぬ白露 <5>



 キッチンと6畳間の狭いアパート。それがターニャ・リピンスキーの住居だった。
 彼女が紅茶を入れるまで、葉野香はそっと部屋を観察していた。
 ベッド、カラーボックス、14インチテレビ、本棚。
 家具も家電も多くない。

 出された座布団に座り、小さなテーブルを挟んで向かい合う二人。
「改めて自己紹介するわね。これ、名刺。さきょうはやかって読むの。新聞記者の見習いみたいな
ことをしているんだ。本業は大学生。これが学生証」
 テーブルに並べた2枚のうち、ターニャは学生証だけを手に取って一瞥した。そしてすっと戻す。
「あたしは、ターニャ・リピンスキーです。ガラス職人をしています。・・・・・いえ、していました」
 突然退職したことを聞いていた葉野香だが、それは後にすることにした。
「ロシアの人?」
 名前の響きから、そう思った。
 こくりと頷くターニャ。
「12歳の時に移民してきました。まだ、日本の国籍は取っていません」
「そう。ここで、一人で?」
「ええ。以前は会社の寮にいましたけど、しばらく前からここを借りています」
 部屋を見回してみる葉野香。決して高級なアパートではないが、この部屋の中だけはホテルの
ようにぴっしりと整頓され、彼女の慎ましい生活ぶりが看取できる。
「なるほどね。あ、こっちのことで、聞きたいことがあったら何でも聞いて。信頼して話してほしい
からさ。もちろん、あなたが話したことは勝手に人に喋ったりしないから。約束するよ」
「はい」
「何か、聞きたいことある?」
「いえ、今はいいです」
 メモ帳片手に、質問ではなく尋問になってしまわないように配慮することにして葉野香は尋ねる
ことにした。
「そう? それじゃ本題に入るんだけれど、葛城梁さんはあなたの恋人で間違いないんだよね」
「いいえ」
「えっ?」
 目を丸くする葉野香に、彼女はゆっくりと言葉を継ぐ。
「かつては、そうでした。でも別れました。先月のことです」

 その時のことを思い浮かべてしまったターニャの鼓動は、湖の波紋のように波立ち、そして弱々
しく広がってゆく。
「あ・・・・・そうだったんだ。どれぐらい交際していたの?」
「3年になります・・・・・」

 ターニャは、彼との出会いからのことを話し始めた。誰か聞いてくれる人を待っていたかのように。

 働いている運河工藝館をふらりと訪れた彼。
 彼女の作品を初めて買ってくれた彼。
 高台の展望台で、沈みきるまで一緒に夕陽を見つめてくれていた彼。
 いつしか、愛していた彼。

 愛しさえしなければ、こんなに辛くはなかったのに。


 ターニャの職場は観光業だから週末は休めない。だから彼は平日の休みに合わせて週に1度は
札幌から会いに来た。それから小樽で過ごすこともあれば、札幌や函館などへ車で出かけることも
少なくなかった。

「彼の住んでいるところに行ったことはある?」
「いえ、ないです。会社の寮だから、女性を入れたりしてはいけないんだと」

 彼は札幌にあるなにかの会社で働いていると言っていたという。彼女は机の引き出しを開けた。
そこには二人の日々の抜け殻だけが納められている。
 フォトフレームに入った、たった一枚しかない一緒の写真。
 クリスマス・カード。
 ガラスの指輪。
 名刺。

 その中から名刺だけ葉野香に渡す。

「これは・・・・・」
 それは、葛城梁の住所になっているアパートを所有している会社と同じ名前だった。都市開発
振興社。住所も同じ。違うのは、電話番号が書いてある点だ。携帯と、職場と。

 試しに携帯にかけてみる。「電波が届かない・・・・・」と録音されたメッセージが流れる。当然だ。
燃えた車の中にあったはずで、繋がるはずもない。

 もうひとつの電話番号を、じっと見つめる。
「ここに、かけたことはあるの?」
「一度だけ。用事があって、携帯電話が繋がらなかった時に」
「どうだった。あ、応対のことなんだけど」
 早鐘のように高まる葉野香の鼓動。
 ターニャの答はあっさりしたものたった。
「あいにく外出中だって言われました。それだけでした」

 葉野香は額にしなやかな指を当てて黙考する。電話が繋がったということは、この会社は存在して
活動しているということになる。なのに、住所には実体がない。どういうこと?

 掛けてみたいが、自分の携帯を使うのはどうも恐かった。あとで、公衆電話を使ってかけてみよう。

「どうか、しましたか?」
 ターニャに声を掛けられ、自分の態度の迂闊さに気づく。私が難しい顔してたら、話しにくくなるに
決まってるじゃないか。
「あ、どうもしないよ。そうそう。彼の仕事のことは知ってる?」
「何かいろいろなことの統計をとったりする仕事だって聞いてます。よくわからないですけれど」

 統計か。都市開発振興社って社名からすれば自然だ。
「彼に家族は?」
「いないって言っていました」

 かつてターニャも、彼に同じように尋ねたのだ。
 その時彼は、どこか遠くへと視線を投げかけて、一言だけ言った。
 「家族は、いない」と。

 ターニャ・リピンスキーと葛城梁。
 二人は、互い以外に愛する人はいなかったのだ。
 この世界で、ひとりぼっちで生きていた。
 引き寄せられるように恋に落ちたのは、そのせいだったのかもしれなかった。

「卒業した学校とかわかる?」
「それは聞いてないです。でも大学時代のことを時々話しました」
 学校がわかれば調べやすくなるのだが、大学だけでは範囲が広すぎる。
「じゃ、出身地は?」
「東京です。出張で行く度にお菓子のお土産をくれたんですけど、子供の頃からそれが好きだっ
たって」

 東京? 
 でも免許証の本籍地は札幌だった。本籍地の移動なんて簡単だから不思議でもないけれど。

「もっと詳しくわからない?」
「私、あまり日本の地名はわからないから・・・・・」
 しおれたように口ごもる年下の少女。
 慌ててフォローする葉野香
「あ、それもそうね。ごめんなさい」
「いいんです」

 そうだ。
「あ、今出張って言ったわね。彼はよく東京へ?」
「月に数回は。定期的ってわけではなかったみたいですけれど」
 出張があるならやっぱり仕事を持っていたんだろう。都市開発振興社で統計部門を担当するサラ
リーマン。それが恋人にとっての葛城梁。これが真実だろうか。

 まだわからない。

「それじゃ、嫌なことを聞くね。彼と別れたのはどうして? どちらからそういうことになったの?」
 答えてもらえなくても仕方のない質問で、葛城梁という人物についての手がかりにはならない
だろうとも思えた。しかし、彼女が仕事を辞めたことと無関係とは受け取れず、彼が事故直前に
小樽にいたとすれば彼女との関わりである可能性があるのだ。

 長いためらいがあった。
 じっと固まったようにうつむき、その表情は前髪で隠されてはいるけれど、ぐっと握った膝の上の
手が苦衷を顕著に示していた。
「・・・・・私が、言い出したんです」
 顔を上げないまま、途切れがちな声。
「理由は、話せるかしら?」
「それは・・・・・個人的なことですから・・・・・」
「そうだよな。立ち入ってごめん。でも、すんなりと別れられたの? トラブルになったりとかはしな
かった? 別れたくないとか」
 元恋人に会うためなら、小樽に来る理由になる。
 しかし、「いいえ」と、ターニャははっきりと否定した。「ただ、わかった、って」

 これには葉野香が驚いた。
「・・・・・それだけ?もう関係が冷めていたの?」
「いいえ。そんなことはありませんでした」
 3年も交際してうまくいっていた恋人から離別を告げられて、「わかった」としか言わないのは妙だ。
恋愛経験は豊富とはいえない彼女だが、それぐらいはわかる。
「彼と最後に会ったのは、その時?」
「・・・・・」
「違うの?」

 どこまで話していいだろうか。
 ターニャは嘘をつくこともできた。
 あの夜のことが他人に知られていいはずがない。
 なのに、口は動いていた。

「あの事故の起こった朝の前・・・・・」
「朝の前って、夜にあなたと会って、それからすぐに事故になったっていうこと?」
「そう、です」

 葉野香は慌ててペンを握り直した。
 やはり彼は小樽にいたのだ。

「正確な時間は?」
「午前2時ぐらいでした」
「場所はどこ?」
「ここです」
「この部屋に彼が来た。それは、なんのため?」
「それは、言えません・・・・・」
 つい気が急いて、続けざまに質問を浴びせてしまっていた。配慮不足に思い至る。
「あ、あの、別におかしなことを想定してるわけじゃないんだよ。ただ・・・・・」
「言えないんです。とにかく。ごめんなさい」

 頑なな口調に、質問の矛先を変える葉野香。
「ここに2時頃にいた。じゃ、出ていったのは何時?」
「15分ぐらいで、また出ていってしまいました」

 だとすると、事故の時間とだいたい符合する。それからすぐに高速に乗ったとすれば1時間ほど
早すぎるがどこかで休息を取るなりすればぴったりだ。

「それまで、彼がどこにいたかわかるかな。何をしていたとか話さなかった?」

「・・・・・わかりません。そういう話はしませんでしたから」

 ターニャの脳裏にふっと、床を濡らした血溜まりの映像がよぎる。
 「撃たれたんだ」
 追跡者。
 拳銃。

 わからないことばかりだった。

 どうして彼があんな目にあったのか。
 追われるようなことをしていたというのか。

 どうして警察にも病院にも行かなかったのか。
 あのままでいたら、敗血症になって死んでしまうかもしれないのに。

 どうして拳銃なんて持っていたのか。彼は警察官じゃないのに。

 でも彼女には、それを知る術もなく知ろうとすることもできなかった。
 ただ職場を辞め、住み慣れた美しきこの街を離れることしか。


 ぱたんと小さな音をたてて、葉野香が手帳を閉じた。ペンをその上に重ねる。
 ひとたびの深呼吸の後、呼びかける。
「ねぇ、リピンスキーさん?」
「はい」
 改まった様子に、ターニャもその青い瞳を葉野香に向ける。

「私ね、あなたに話を聞けば彼のことがわかると思った。でもわからないことが増えてしまった。
だから、まだ調べ続けるつもり」
「そう、ですか。お役に立てなくて・・・・・」
 本当にすまなそうに詫びるターニャを制する。
「違うのよ。あなたのおかげで色々なことがわかったから、感謝しているの。でもね」
言葉を一旦切り、いくらか身を乗り出して言った。
「あなたの助けが欲しいの」
「私の、助け・・・・・?」
 意味が掴めないのか、ただ繰り返すターニャ。
「そう。そもそもはあるアパートのことを調べるだけのつもりだった。記者になる練習みたいな気持ち
でね。
 でもこうなると、葛城梁っていう人のことが一軒のアパートよりも知りたくてならない。この日本で、
ここまで痕跡を残さないで生きていた人なんていないはず。そんなことをする理由がないんだから。
そんなのっておかしい。なにかある」

 記者の卵のあやふやなカンなどを持ち出すまでもなく、葉野香は確信していた。
 これはただの事故じゃないと。

「だから、あなたに手伝ってほしいの。生身の彼を知っているのは、今のところあなたしかいないの
よ。彼の声も、挙動も、もうあなたの記憶にしかないの。隣で助言してくれたら、きっといろいろな
ことがわかるはず。
 あなたには、辛いことを強いることになるよね。亡くなった方の思い出を突つき回すことになるん
だから。それを承知の上で、お願いしたいの。私と一緒に、葛城梁という人を調べてくれない?」



 葛城梁。
 初めて愛して、愛されたひと。
 これからどんなことがあっても、心の神殿に秘めた想い出さえあれば耐えていけると思っていた。
 そうしなければいけない理由もあった。

 二人の足跡はそのままにしておこう。
 そう決めていた。
 触れたら、砕け散ってしまうそうだから。
 薄すぎるガラスのように。

 そんな理性と裏腹に、彼のことをわかりたかった。
 彼にまつわることならどんなことでもいい。
 知らないままでいると、なにもかもが虚像になってしまいそうで怖いから。
 「信じてくれ」
 くちづけの後に言われた最後の言葉。
 信じ続けていたいから、真実が知りたかった。


「わかりました」





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