凍りえぬ白露 <4>



 彼女がノックして数秒。
 ドアがそっと開いた。
 チェーンロックがぴんと張る。
「ターニャ・リピンスキーさんですね」

 無言で、微かに首肯する金髪の女性。

「葛城梁さんのことについて、少しお話を伺いたいのですが」

 スカイブルーの瞳を瞼で隠し、尋ねた葉野香から視線を逸らす彼女。
 小柄で、葉野香よりも低い身長と陶器のような肌。
 ほっそりとした細工品のような手が胸元で、ぎゅっと握られた。

 ただ葉野香は返事を待つ。

「そういう人は・・・・・」
 自然な響きの日本語だった。しかし、それは言語上のことだけ。
「・・・・・知らないです」
 隠そうとしている苦衷が、言葉の意味と関わりなく明瞭に表現されてしまっていた。

「この方ですよ」
 葉野香は持っていた写真をかざした。小さな免許証用の写真、しかも白黒のコピーだが、顔が
判別できないほどではない。
「あなたとこの人物が一緒にいるところを、多くの人が憶えています。それでもご存じではないと?」
 嘘ではなかった。運河工藝館の従業員に写真を見せたところ、揃って「ターニャの恋人」だと言った
のだ。

 強くかぶりを振る彼女。
 少しだけ癖のある細い髪が揺れる。
「私の知っている葛城さんは、もういません。だから、放っておいてください」
「そうですか。ではやはり、事故で亡くなった葛城梁という人物は、あなたの恋人だった方なんです
ね」
「・・・・・」
 ドアノブを握り、締めようとする白い手。
 葉野香はかまわず話し続けた。
「でも、彼のことを知っている人が一人もいない。どういう人だったんです? 彼は。名前と年齢しか
わからない。それだって本当かどうかわかったものじゃなくて。あなたは本当の彼を知っていたん
ですか?」

「・・・・・いいえ」

 悲哀に満たされた、否定。
 葉野香の予想とは、違う返事だった。

 恋人だというから、てっきり彼女ならここまでに積み重なってきた謎を解き明かせるのだと思って
いた。知っていて嘘を言っているのとは明らかに違う、認めたくない事実を受忍する口調。
 迷いが葉野香に浮かんだ。
 ここで引き下がるべきだろうか。
 恋人を失って苦しんでいる彼女にとって、私は残酷なことをしようとしているのだろうか。

 そうじゃない。
 ここで引き下がることこそ、彼女のためにならないはずだ。

 葉野香は、穏やかな表情で語りかけた。
 それは親しい人にだけ自然に湧き出す姿。
「それじゃ、知りたくはない? 彼が何者だったのか?」
 ドアは、閉ざされるまでにあと数度の角度しか残されていない。
「私はね。ただの好奇心でこんなことをしているんじゃない。こんなことを放置していいわけがないと
思うから。そのために、話を聞かせてほしいの」

 ドアの引く動きが、一瞬だけ止まった。

 そして静かに閉ざされた。
 続くチェーンロックを外す音。

「どうぞ。入ってください」
 新たなドアが開かれた。
 ターニャ・リピンスキーの扉。
 左京葉野香の扉。
 謎の扉。


 ここまで彼女がたどり着くのに、2週間かかった。

 登記簿に記載されていた「都市開発振興社」という会社の住所は、あるビルの一室。ところが
そこには違う名前のビルが建っており、該当するフロアには全く無関係の民間企業が入っていた。
バブル期に新築されたビルとのことで、それ以前のことは入っている会社の古参社員も建設した
ゼネコンの当時の担当者もわからないと言う。

 新聞社にある企業名鑑には社名がない。再び登記所に行き商業登記簿を調べても収穫はない。
「都市開発振興社」という名前から調べられることはもうなくなってしまった。そもそも、存在していな
いという結論が妥当のようだ。ペーパーカンパニーだってちゃんと商業登記簿には掲載されるように
法律で決まっているのだから。尤も、会社の事業所が札幌にあればの話だが。

 あのアパートの近くの不動産屋の扉を叩いた。大正以来、代々ここで営業しているという社長さん
が知っていることを話してくれた。
「もともとあのあたりは国有地だった。丘珠空港から近いからその職員の住宅を建てるとかいう話が
あったのは聞いたな。20年ぐらい前に払い下げになって、どこかが住宅開発に乗り出すということ
だった。それであのアパートが最初に建ったんだが、経営不振だかで回りの土地は分けて売却
したんだな。その会社? さあなぁ。潰れたんじゃないか?」

 結局、所有権者はわからなかった。

 しかし、偽名にせよなんによ、あのアパートを所有している個人か組織がなくてはならない。事故
の被害者があそこを住所として免許証などに記載したからには、所有者と何らかの関係や接触が
あったに違いない。そちらから調べることにした。

 葛城梁。
 他に生年月日はわかるが、それだけでは意味がない。
 札幌市の電話帳にこの名前はない。
 職業もわからない。どうやって生計を立てていたのだろう。
 他紙の、事故の当日の夕刊と翌日の朝刊を網羅しても、被害者について詳細を載せているところ
はなかった。警察発表の住所と年齢と写真を載せただけで。

 なにが手がかりになるだろう。
 税務署や区役所の記録が見れればと思うが、正式な記者でもなくコネクションもない彼女には
無理な話だ。そもそも警察はどうやって「会社員」だとわかったのか。まぁ、警察なら公的な記録を
堂々と入手できるのは当然のことだが。

 数日も模索した挙げ句、ひとつだけアイディアが浮かんだ。かなり頼りないものだが。

 事故車は札幌自動車道の小樽インターチェンジから高速に乗り、札幌ジャンクションを通って道央
自動車道に入ったことが目撃証言や道路監視システムによってわかっている。
 小樽に何か関わりがあったということだろうか。

 小樽インターチェンジは札幌自動車道の西端で、もっと西から一般道で来たという可能性もある。
その場合小樽に意味はない。葉野香がひょっとしたらと思うのは、葛城梁という人物が前夜小樽に
宿泊したのではないかということ。
 小樽の西にある積丹半島には小村ばかりで、そこに住んでいたにせよ訪問したにせよ、見慣れ
ない顔が周囲に知られないでいるのは事実上不可能だ。事故の記事を見て、誰かが反応する
だろう。それがないとするならば、小樽市内にいた可能性がある。

 事故発生の時間から逆算すると、午前3時頃に高速に乗ったことになる。不自然といっていい
時間だ。旅館などにいたとすれば従業員が憶えているかしれない。

 葉野香は小樽の旅館を訪ね歩くことにした。少なくとも、札幌よりは探しやすい。
 それでも観光地だけあって、旅館やホテルの数は多い。しかも見込みがあるとは限らない作業。
かなりの難航が予想された。

 ところが、数日で反応があった。
 意外なところで。

「あら、この人あれじゃない? あの金髪の娘さんとよく一緒にいた人」
 葉野香の見せた写真にそう言い出したのは、小樽駅の土産物売り場で売り子をしているおばさん
たちだった。「お嬢さん、何かお土産はどうだい?」と声をかけられたついでに、期待しないで聞いて
みたのだ。
「金髪の娘さん?」
「そう。そりゃ綺麗な外人さんでねぇ。肌は真っ白で目が青くて。ここから少し行ったところに運河
工藝館ってのがあるんだけどね、そこの職人だっていう話だよ。目立つからついつい見ちゃうん
だよね。どこの・・・・・」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 際限なく続きそうな話を無理に遮り、もう一度写真のコピーを目の前に示す葉野香。
「それで、一緒にいたというのは本当にこの人なんですか」
 真剣な眼差しを向けられて、少し困った様子を見せるおばさんたち。
「・・・・・そう言われると、はっきりとは言えないけどね。でもこういう感じの人と時々歩いているのは
見たねぇ。背が高くて、い〜い男さね。お似合いの二人だなって思ったものさ」

 運河工藝館で葉野香は、金髪の女性がターニャ・リピンスキーという名前で、つい1週間ほど前に
そこを辞めたということを聞いた。
 そして住所も。





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