凍りえぬ白露 <3>



 札幌市内の、とある地方新聞社。それが北海新報である。
 新聞社といえば、特ダネを獰猛に追いかける荒くれものが集っているような印象もなくもないが、
ここはそうではない。
 なにしろ、札幌を中心にしか道内でしか発行されていない地方新聞である。そうそう大きな事件も
ない。政治面や経済面なら、それなりに扱うべき問題も多い。しかし社会面となると、自然と紙面は
身近で穏やかな話題ばかりになる。

 そういうわけで、ここ最近の左京葉野香は退屈していた。

 市内の大学に通う彼女は、入学してから1月ほどしてからこの新聞社でアルバイトをしている。
実家の経営が安定して、自分の将来を考える余裕ができたのは高校2年の時。家業のラーメン屋に
なるつもりはなく、だからといってお嫁さんを夢見るような性格でもなかった。
 自立したキャリアウーマン。そういうものに、漠然とした憧れはあった。

 大学に進むことにして、とりあえず、といった気分で選んだ社会学科。入学してからマスコミ業界
志望の友人に誘われて一緒にアルバイトすることにしたのだ。しかし、その友達はあっさりと辞めて
しまい、逆に葉野香は記者という仕事に面白みを感じるようになっていた。

 勉強の意味もあって、以来ずっと彼女はここの社会部にいた。卒業してからのことは決めていない
が、ここでの経験が活かせればと思って。
 現在は長い大学の夏休み。なるべく朝から顔を出すことにしていた。

 しかし、ここ数日は事件らしいものがない。事件がなければ記者は動かない。記者が動かなけれ
ばアルバイトはお茶汲みだ。退屈である。

 ところが、この朝は違っていた。

 彼女が早めに出勤してみると、社会部室には頭の薄さを連日嘆いている部長しかいず、少ない
記者は皆出払っていた。事務の女性社員に聞くと、例の高速の事故の取材に出ていったという。
葉野香も朝のニュースを欠かさず見ている。早めに来たのも、忙しくなりそうだとの予想からだ。
 午前中いっぱいは、電話の受け答えやFAXで送られてくる情報や記事の分類や整理で忙殺され
た。

 そして午後。彼女をよくアシスタントに使う胡麻塩頭の記者が外から帰ってきた。
「お疲れさまです。高野さん」
「おう。メシ喰ったらまた出るから、ついてこい」
 高野健。51歳。
 社内でも一目おかれるベテラン記者で、なにが気に入ったのか、よく葉野香に仕事を教えてくれる
人だ。

 白い社用車のライトバンに乗り込み、ハンドルを握る高野。
「どこへ行くんです?」と葉野香。
「今朝の事故の被害者のとこに行って、周囲の声を拾う」
「はい」

 信号で車が止まると、浅野は深いため息を洩らす。
「・・・・・こういうのも難しい取材だ。家族や友達が死んでどんな気分か、聞かなくたってわかる。
それでも、やらんといかんのだ」
 しわの刻まれた横顔に、やりきれなさが浮かんでいた。両親を早くに亡くした葉野香には、そういう
悲しみはよくわかっていた。
「またああいう事故を起こさんためにな」
「そうですね」


 警察で聞いたという住所を頼りに車を走らせる。郊外の畑の中にぽつんと立つ古いアパートが、
犠牲者の自宅だった。

 車を降り、まずは部屋を確認するのが手順だ。201というから、2階の1号室だろう。
 しかし、その部屋には表札がなかった。
「ここのはずだが」
「んー・・・・・」
 玄関脇の窓にはまった曇りガラス越しに、ぼやけた台所らしい室内が窺えるが、まるで空き家の
ようである。新聞受けにはなにもなく、郵便受けはなかった。
「隣で話を聞くか」
「なんか、生活感のないアパートですね」
「そうだな」

 隣室にも表札はない。呼び鈴を押しても誰も出てこない。さらに隣も、その隣も。下に降りても同じ
こと。どこからも応答がない。
「どういうことだ?このアパート?」
 ベランダに回って見ると、どの部屋にも厚いカーテンがかかっている。季節的にも不自然だ。
晴天なのに洗濯物の一枚すらない。
「大家さんは、どこにいるんでしょうか」

 近くに少ない民家を何軒か訪ねてみても、
「人がいるのは見たことがないねぇ」
「いつもあんな感じでね、幽霊屋敷みたいだよ」
「大家? この辺の人じゃないはずだね」
「もう20年ぐらい前だよ。建ったのは」
 こんな返事しか聞けなかった。

 またアパートへ戻る。電気のメーターを見ても、どこも動いていない。
 入居者募集の広告も管理者の連絡先もない。
 周囲の雑草が刈られているのを不審に思っていたが、隣の家人が害虫の棲息を嫌って、時折
勝手に除草していたという。

 少し離れたところから、アパートなのかすら判然としなくなってきた建物全体を眺める二人。
「どういうことなんでしょう」
 腕を組み、首を傾げる葉野香。
 高野は銜えていた煙草を携帯灰皿に詰め込んだ。
「ここにいても仕方ない。どうやらここが住所でも実際には住んでいなかったらしいな」
「それじゃ、働いていた会社に行きますか。同僚に話が聞けるんじゃないですか」
 葉野香のアイデアに、難しい顔がもっと難しくなる。
「それがまだわかっとらんのだ。今加藤が当たってるんだが」
 加藤というのも記者の一人である。

 やむなく再び車を走らせる。
 助手席で葉野香は、警察発表の資料に目を通した。

 葛城梁。27歳。
 札幌市東区東苗穂○○−△△−□コーポなえほ201。
 
 個人情報と言えそうなのはそれだけ。免許証に貼られていたものと同じらしい小さな写真の
コピーが添付されていた。スーツ姿の、いくらか伏し目がちな無表情。

 やがて高野の携帯が鳴ったが、職場はわからないとのことだった。
「これじゃ夕刊に間に合わんな」
 通話を切って呟く。
「無職だったってことですかね」
「いや、警察筋からの話では会社員だ。なんて会社なのかがわからんのだとさ」
「小さな会社なんですかね」
「もう潰れた会社かもしれんしな。それで金がなくなってあのアパートも追い出された。そういうこと
かもな」
 短く刈り上げた白いものが混じる頭をがしがしと掻く。
「朝刊までに被害者のことがわかるといいんだが。名前と住所だけでは紙面が寂しくなる」

 そう言っていた高野だが、これにばかり構っていられるほど北海新報の記者は多くない。
結局、深夜になっても新しい情報は入らず、事故現場の詳細で埋められた新聞が輪転機から出て
くることになった。

「よし、お疲れさん。今日はもういいぞ左京」
 0時前。地下鉄の終電までもう少しだ。若い女性で、アルバイトの身ということで高野が気を使って
くれる。
「じゃ、お先に失礼します。あの・・・・・」
まだペンを手に、記事の文面を推敲している背中にためらいつつも声をかける。
「なんだ?」と顔を動かさずに浅野。
「今日行った、アパートなんですけど」
「あれがどうした」
「気になりませんか?」
 高野はふ〜む、と一声唸り、椅子を引いてぐるりと葉野香に向き直って言う。
「気になったか」
 どこか面白がっているような表情。
「ええと、なんとなく、変だったなと」
「じゃ、調べてみろ」
 こともなげに言う。
「あたしがですか?」
 高野さんに調べてもらって、それを手伝えればと思っての話だった葉野香は戸惑った。

「記者ってのは、自分で記事を探すものだ。それが本当の意味での取材だし、調査報道ってやつ
だ。気になったことはそのままにしてちゃいかん。もし今はつまらんことしかわからなくても、それは
きっと後から役に立つ経験になる。自分で時間を作って、納得できるまでやってみたらどうだ?」

 頷きながら、意味をかみしめる葉野香。
「やってみます」


 翌日、彼女は遅い時間の出勤になる。その前に登記所へ足を運んだ。最初の手がかりとして、
あのアパートの所有者から調べようと思ったのだ。
 登記簿によると、20年以上も前からあの土地は「都市開発振興社」なる民間企業の所有になって
いた。アパートが建てられたのは22年前。所有者も同じ。他には何もなかった。
 たいてい、土地を購入したりアパートを建てたりする時には銀行からお金を借りて、その担保に
なった旨が登記されていたりするものだが、22年間何の記載もない。ということは、現在も賃貸者
はこの会社なのだ。
 必要なことをメモして、閲覧料を払って葉野香は登記所を出た。

 この会社を訪ねて、社員の人に話を聞けばいい。
 1日もかからない、記者見習いのよちよち歩きにぴったりの取材だ。
 気楽にそう考える葉野香。

 それが間違いであることを、すぐに彼女は知ることになる。





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