凍りえぬ白露 <2>



 札幌市内にある北海大学医学部。
 ここには、一般にはあまり知られていない施設が併設されている。
 その名を「北海道監察医務院」という。変死体を解剖し、死因などを調査する公的機関である。

 一言に変死といってもいろいろだ。殺人事件や自殺から、老人の孤独死までも該当する。医師法
により変死体は主治医であっても死亡診断書を書くことができず、届け出て検死をされなくてはなら
ない。

 検死には、死因に犯罪の可能性があり検事が指揮する司法検死とそうでない行政検死がある。
さらに死亡した現場で行う現場検死と監察医務院でなされる検死に分けられる。どれにせよ、監察
医務院制度のある地域では監察医の仕事である。
(注:現在、札幌に監察医務院制度は導入されていません)

 もちろん、監察医務院の監察医だってれっきとした医師だ。ただ実情としては、医師の世界の
中で、働こうというなり手が少ない職場のランキングトップを争ってるのが保健所と監察医務院で
ある。もっと稼げて、患者の回復という医師の喜びの感じられる仕事を選ぶのは当然のことだろう。

 そのため、監察医務院には大学病院からの出向者が少なくない。

 既に大学病院での研修期間を終えた椎名薫がここ、監察医務院にいるのも、そういう理由だ。

 一説にはセクハラをしてきた大学教授を手ひどくやっつけたため飛ばされたとも陰では言われて
いる。
 彼女自身では、経験としてこういうことをしておくのも悪くないと思っている。殺人事件の遺体を扱う
時など、ミステリー小説の登場人物になったような気すらする。大学時代も好奇心から熱心に法
医学の講義を受けていたものだ。
 周囲の思惑や、「もっと勤務のしやすい職場に移って、いい加減に結婚を考えなさい」という実家
からの声も気にせず、薫は仕事を楽しんでいた。

「椎名君、今日もお客が待ってるぞ」
 5年先輩の監察医、嶋田公一の冗談で迎えられる出勤した彼女。
「少し、待たしておいてください。本人が苦情を言うまで」
 大きな笑い声が、廊下に響く。昨夜の宿直番で疲れているはずなのにそんな様子を見せない。
この人は豪放な気質で、職場をいつも明るくしている。
「はは。そうしたいところだが、かなり気むずかしくて面倒な客なんでな、手を借りたいんだ」
「今朝の事故ですか? 高速の」
 出勤の時、車のラジオでやっていた。橋からの転落ということで大きく扱われていたので憶えて
いたのだ。
「そうだ。衝突して炎上した挙げ句に車もろとも20mはある高さから落っこちてる。踏んだり蹴ったり
というやつだな」
「よほど運が悪いのね」
「おまけに俺たちにバラバラにされるわけだからな。とにかく、支度して来てくれ」
「はい」

 緑色の手術衣と帽子と医学用手袋に覆われた薫が解剖室に入ると、いつもながらのホルムアル
デヒドの臭いがつんと鼻をつく。死体の腐敗臭を消すための薬品が、壁にも天井にも染みついて
いるからだ。さらに今は、焦げ臭ささも伴っている。

 鉗子でかつて腕だった組織を突つくと粉末化した組織がぱらぱらと手術台に散った。
「かなり焼けてますね」
 マスクで声がくぐもる。
「落下の衝撃でも火が消えなかったらしい。現場は牧草地で住民なんかいないとこだ。燃え尽きる
まで燃えるしかなかったというわけだ」
「では、始めましょう」

 これは単独の交通事故死ということで、死亡に犯罪が関与している可能性はほとんどないの
だが、分類上では司法解剖である。

 行政解剖の場合、スタッフは5人。執刀する監察医。臨床検査技師。2人の監察医補佐。そして
薫がこれからする、所見を遺体検案書に記載する監察医。司法解剖の場合は検事と警察官も立ち
会う。もっとも、多忙な検事は「指揮」はしても後から報告書を受け取るだけで、ここまで来るのは
事件性が明確な場合だけである。

 死後硬直で膝を立てた格好になっている遺体を、ぐいぐいと押し曲げて解剖しやすい姿勢にする。
幸い死亡から時間がさほど経っていず、硬直は弱かった。これが24時間後だったりすると人力では
戻らない。

 まず内臓、続いて頭部を調べるのが一般的な手順。検視の結果を、嶋田が次々と口述してゆく。
ペンを走らせる薫。
「肋骨の左2番3番4番5番骨折・・・・・」
「肝臓に裂傷・・・・・」
「前頭部非円形陥没骨折・・・・・」

 薫がここに来て2年になるが、ここまでひどい死体はそうそう来ることはない。
 結局のところ、気管に煤が入っていない、上気道粘膜に熱傷がない、血液内の赤血球が鮮紅色
に変色していないなどの状況から、この遺体は火災が発生した段階で既に呼吸しておらず、事故に
よる前頭部と内臓への衝撃で即死状態だったようだ。

 最も大きな負傷は前頭部。次いで胸部と腕部。ともに骨折。衝突の衝撃によるものであろう。
腕の怪我はハンドル痕という交通事故に特徴的なものだ。身体に手術後などはなく、目立つ特徴は
ない。年齢は頭骸骨などから20代後半と推定される。肺にはタールが付着しており喫煙者であっ
た。組織の小片を採取し、顕微鏡て検査したところ、内臓諸器官に疾患はなし。

 血液や胃内容、尿などを化学的検査のために研究所に送付する。
 解剖は1時間ほどで終わるが、最終的な結果が出るまでには3週間ほどもかかるのだ。

 取り出した臓器などを元の場所など気にせず、とにかく戻して縫合して解剖は終わる。実は脳も
内臓もいっしょくたである。こういうところでは、あまり死者の尊厳は考慮されない。

 一通りの検死を終え、嶋田が立ち会う警官を手招きして説明する。
「死因は脳挫傷だね。衝突でかなり強くぶつかっている。シートベルトは?」
「していたようです」
「じゃ車が回転する時に体が抜けたんだな。しっかり締めていなかったのか、ハンドルをしっかり
掴んでいられなかったのか。スピードの出し過ぎでは無理もないが」
 警官に嶋田が尋ねる。
「ところで、これは誰なんだね」

 この若い警官、正確には立ち会っているとは言えない。こういう経験の乏しい警官らしく、吐き気を
堪えながら部屋の隅で顔を背けていたのだから。
「車検証と免許証が燃えてまして、鑑識が解読にかかっています。車のナンバーからすると保有者
は、ええと、葛城梁、27歳となってます」
 青い顔をして、屍臭が鼻に入らないようにか口で呼吸しながら手帳を確認する警官。
「近親者でも呼んで、確認してもらってくれ。この状態ではわからんかもしれんから、その時は歯で
同定確認するか最悪の場合はDNA鑑定だな」
 DNA鑑定が最悪なのは、他の方法より時間がかかる上に費用が高価だからである。
「わかりました。こちらの捜査で判明次第、連絡しますので」

 薫はその話を聞きながら、遺体の歪んだ顔を見ていた。顔そのものは車体にでも押し付けられて
いたのか、それほど熱による損傷はない。遺族ならなんとか見分けられるだろう。

 無謀な運転の挙げ句、ひどい死に方をしたものね。
 まだ若いのに。私と同じぐらいよね。
 一瞬で、さほど痛くもなかったでしょうけど。

 ふと、違和感を感じた。

 じっと見つめてみる。
 何かおかしい。

 焼けて縮んだせいで、瞼が半分ほど開いている。焼死体では普通のことだ。
 しかし、その下の目が違うのだ。
 眼球は水分が多いせいで、なかなか燃えない。焼魚がいい例だ。
 その瞳の瞳孔が収縮していた。人体の限界と思えるほどに。

 こういった事故の場合、反射的に目を閉じるのが普通だ。その場合、こうはならない。目を閉じ
れば視界は暗くなり瞳孔は自然に拡大するからだ。

 更によく見ると、かなり白濁している。眼球は数度温度が上昇するだけで白濁する。火災現場に
あった遺体なのだから当然で、そういう実例はこれまでに何度も遭遇している。しかし、顔の状態と
比べると眼球の変化だけが突出しているような印象がある。

 毒物による死亡の場合、眼球にその特徴が出る場合が多い。アルカロイド系の毒物であれば瞳孔
が拡大するという特徴が顕著に表れる。経験の浅い薫でも、見逃しておけないことだった。

「あの、先生」
「なんだね」
「これ、どう思います?」

 話し合った結果、化学的検査をする研究所に送る検査片に意見を添付して、毒物の有無を精密に
検査してもらうことにした。何も言わなくても毒物検査はされるのだが。
 実際には脳挫傷という診断は間違いのない死因である。仮に毒物を服用していたとしても、効果
が出る前に事故死しているということだ。可能性としてなら、薬毒物の影響で運転手が事故を起こし
たということも考えられるので、慎重を期したのだ。
「まぁ、事故の瞬間にこの仏さんが目を閉じる間もなく死んでしまったというのが妥当だがね」
 そう嶋田は言い、薫もそれ以上は気にしないことにした。

 人生最後の診察を次の死体が待っていた。





 小樽の街に夕日が長い影絵を描く頃。

 ターニャ・リピンスキーは定時で仕事から上がり、職場の休憩室で同僚たちと缶ジュースを飲んで
いた。夏には暑さが倍加するような工房から離れ、冷たいものを口にするのがみんなの習慣だ。
ぼぅっとしたり、沈んだりする様子に「どうしたの?」心配されるのを無理に作った笑顔で誤魔化して
いた一日だった。

 あれから一睡もしないまま出勤したのだから、無理もない。

 テレビでは誰がチャンネルを合わせたのか、ニュースをやっていた。みんな時折横目で見るだけ
で、おしゃべりに興じている。

「・・・・秋の臨時国会にむけての派閥間の調整には難航が予想されます」

「東京地検は今日午前、脱税と外国為替法違反の疑いで東京都港区にある総合商社世紀の本社
を家宅捜索しました」

「混迷するシベリア情勢のニュースです。自由シベリアの党首ヴィツェンスキー氏は今日ハバロ
フスク市で行った演説で、改めてモスクワに対して搾取と抑圧に・・・・・」

「今日未明、札幌と旭川を結ぶ高速道路で起こった車の転落事故で、運転していて亡くなったのは
札幌市内に住む会社員、葛城梁、27歳だと判明しました」

 はっと、それまで下を向いていたターニャが画面を見た。

「この事故ではガードレールに衝突した車が勢いのまま・・・・・」

 彼女の世界が塵となって終わった音を、キャスターのルージュで光る唇が奏でていた。

 顔写真は出なかった。
 しかし、名前と、住所と、年齢と、職業。
 疑うべくもない。




 愛した人が、死んだ。





「ちょっと、ターニャ、あなた真っ青よ!」
 同僚が、食い入るようにテレビに視線を注ぐ彼女の表情に気づいた。

 ぐらりと揺れた細い体が、糸の切れた木偶人形のように床へ崩れ落ちた。
 金色の髪が、力なく散らばって。





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