第1部 凍りえぬ白露



 未明の高速道路。

 札幌と旭川を結ぶ道央自動車道路を、一台のチェロキーが北上していた。

 運転するのは、春野陽子。後部座席にはいささか眠そうな一人娘の琴梨と、今日まで平岸の
自宅マンションに泊りに来ていた姪の愛田めぐみが並んで座っていた。

「めぐみちゃん、元気だね〜」
 まだ夜が明けて間もない。夏ともなれば払暁はいっそう早くなる。いつも朝食の支度に6時には
起きている琴梨にしても、クリーム色の眠気の膜が頭に張られたようだ。

「うちはいっつも早起きだからね。もう慣れちゃった。こんな時間になってごめんね」
 めぐみは今、高校の夏休み。札幌の大学を見学に行く・・・という名目で、受験勉強の気晴らしに
遊びに来て、3日ほど滞在していた。本当は昨夜のうちに帰るはずだったのだが、ついつい引き
留められるうちに遅くなり、今日の登校日に遅刻しないためにはこの時間に送ってもらうしかなかっ
た。「朝、送るから今夜も泊まっていきな」と陽子が誘ったのだ。

「いいんだよ。めぐみちゃん。たまには早起きだっていいもんさ。こんなにいい景色が見られるん
だからねぇ」
 陽子の言葉に、二人も左右の窓を少し開けた。少しなのは高速走行中だから。車の速度に置いて
いかれまいとする風が息せき切って飛び込んでくる。

 地平線から昇るドーム型の太陽が、広がる大地に今日最初の光線を筆に輝きを描いていた。

 ちょっとした時間限定の芸術を鑑賞していながらも、陽子はバックミラーにぐんぐんと近づいてくる
車があるのを見て取っていた。

 黒い乗用車。かなりのスピードだ。自車と比較しても180kmは軽く出ているに違いない。しかも
追い越し車線を走り続けている。それだけでも違法だ。

 この時間、当然ながら道は空いているが、それにしても暴走だ。巻き込まれては迷惑と、彼女は
少し車を右に寄せた。テレビ局で仕事をしている彼女は、悲惨な事故シーンなど飽きるほど見せ
られている。
 どうやら運転しているのはサングラスをかけた男らしい。助手席には誰もいないようだ。

 あっという間に追い抜いてゆく乗用車。
「わっ、危ないねあの車」
 琴梨がそう洩らす。風と車の衝突で発生する衝撃波で3人の乗る車がびりびりと震えるほど
だった。
「どこの兄ちゃんか知らないけど、無謀だねぇ」
 眉をひそめる陽子。
「琴梨さん、あんなにスピード出したことある?」
 めぐみに聞かれる琴梨は去年免許を取った。
「全然ないよ〜」
「この鈍くさい子が、とてもそんなことできるわけないだろ」
「あっ、ひど〜いお母さん・・」

 その時、信じがたい光景が前方に広がった。

 あの黒い乗用車が、回転して宙に舞ったのだ。

 陽子は急ブレーキを踏んだ。ABSで段階的に減速しながらも、ぐんぐんと自車は前進する。安全を
心がけていたことが幸いして、2重衝突という更なる事故にはならずにすんだ。
 後方から他の車が来ていないのをチェックして、陽子は恐らくは事故であろう現場へ車を寄せた。

そこは陸橋に入ったところ。
 右手には山。左手には広がる牧草地。
 下は深い谷。

 惨状だった。
 路上には粉々になったどこのものともわかりはしないパーツが散乱し、黒いブレーキ痕がうねる
蛇のように伸びている。

 最初に右の中央分離帯に斜めから衝突したのだ。そして慣性の法則のままに乗り上げ、左側
へと弾かれたようだ。完全に車はひっくり返り、陸橋のコンクリート製ガードレールに屋根から落下
していた。
 背骨をへし折るかのように。

 それでも生存者がいるかもしれない。急いで陽子は車を降りた。釣られるようについてゆこうと
する琴梨とめぐみに気づく。いけない。
「琴梨、これを後ろで振っていなさい!」
 ダッシュボードの下から取り出した発煙筒を着火させて渡す。
「車道に出たら絶対にだめよ。いい?」
「うん」
 真剣な母の指示に、表情を引き締めて頷く彼女。教習所で習ったことを思い出しながら、後方へ
走る。
「めぐみちゃん」
「は、はいっ」
「これで、警察に電話して」
 陽子は自分の携帯を渡した。
「事故があったって言って、あとは一つずつ聞かれたことに答えればいいから」
「はい」

 そして足元や周囲に用心しながら、陽子は事故車へと歩み寄る。ガードレールが車を前後で切断
しそうなほどに、中央部に食い込んでいた。
 よく見ると、車は危ういバランスでその位置にある。
 車の前半分は完全に橋を乗り越え、後ろの重量との釣合でようやく落下を免れているようだ。
下は、数10mはあろうかという高架橋。素人がうかつに手を出しては、事態を悪化させかねない。

 まず人命が大事と、前方へ回り込み運転席を見る。エアバッグのない車だったらしい。男性らしき
人物が、シートベルトで座席からぶら下がっている。逆さになった車内の光景は異様だった。
 男はぴくりとも動かない。だらりとまるで食肉のように血に塗れていた。

 運転席そのものが空中に突き出されているため、彼女にはどうにもできない。
「運転手さん! 声を出して!」
 そう叫んでみるがなんの反応もない。レスキューの人が来てくれないと。
「お〜い、どうした〜」
 遠くからの声に振り向くと、トラックが2台、後方の路肩に停まっていた。琴梨がトラックの運転手
らしい人と話している。やがてがっしりとした男性2人がこちらへ走ってくる。

 その時、「ピン!」という何かを弾くような、破裂するような音がした。
 一瞬の間をおいて、車が轟音とともに炎上した。
 きのこ雲のような焔に嘗められそうになり、慌てて後ずさりして距離をおく陽子。
 ガソリンは洩れていなかったはず。そう思ったが、実際に炎上している。駆けつけた男たちは、
今度は消火器を取りにトラックへ戻ろうとした。

 しかし、ぐらりと揺れた車は黒い煙を残して、陸橋から落ちていった。

 ガードレールから体を乗り出すと、くるくると、こよりで作った風車のように回転しながら転落した
車は、ぐしゃりという醜怪な響きとともに大地へ突き刺さった。

 呆然と見つめるしかない彼女たち。
「ありゃあ、どうしたって助からねぇな」
 トラックの運転手が言う。
 鈴なりになって、琴梨もめぐみも黒い煙と太陽よりも残酷に眩しい炎をを吐き出し続けている、
ただの残骸を見下ろしていた。



 高速警察隊のパトカーがやって来るまで、それから5分とかからなかった。第一目撃者として、
春野母子と愛田めぐみが詳細な説明を求められるのは当然のことだった。次々に到着して路上を
埋めるパトカーに分乗して、個別に事情を尋ねられる3人。
 実際のところ、琴梨とめぐみはお互いの顔を見て話していた時に事故は起こっており、直前の
状態や瞬間を目撃してはいなかった。ただ、猛スピードで追い抜いていったということしか記憶に
ない。

 陽子はベテランのドライバーで運転席にいた上に、テレビ局勤務と言うこともあり不審なものには
意識を向けるという習慣があった。そのせいでドライバーの様子や運転の状況なども、かなり詳しく
話すことができた。

 しかし、ある引っかかりがあった。

 説明のために記憶を整理すると、なにかぼやけた映像が浮かんでくるのだ。

 黒い車は、陸橋に入る手前のゆるやかな右カーブの直前でハンドルを切り損ねたように数度蛇行
し、右のガードレールにぶつかり、跳ね返って左のガードレールへ横転しながら乗り上げた。
 ブレーキランプが点灯したのは蛇行して数秒もしてからだったはず。

 その映像を脳裏で反復すると、蛇行が始まる直前に何かを感じたように思えてならないのだ。

 あの時、ちらりと後部座席の二人の方へ顔を向けたのは確かだ。
 しかし振り向き切らないうちに、事故が起こった。
 無意識に何かを感じて前方から視線を外すことをためらったのだ。

 ・・・・・色?

 はっきりとはわからない。
 だが、あの車の辺りで何か違う色を見たようにも思える。
 光のような、違うような。

 迷ったが、とりあえず聴取する警官にそのことを話してみた。

 しかし、「ガラスに太陽が反射しただけでしょう」と、警官はそのことを書き留めもしなかった。
 言われてみると、そんな気もする。

 やがて質問は車の炎上時のことに移る。
 金属音をきっかけにしたように爆発炎上したことを説明する。
「きっと、どこかで部品が火花を出して引火したんでしょうな。あなたが巻き込まれなかったのは
幸運ですよ」
「でも、ガソリンは洩れていなかったんです。少なくとも路面には。近づく時に気をつけて見ました
から」
「裏返しになっている車ですからね。タンクやパイプが破損しても、必ずしも下に落ちるとは限らんの
です。ボディのくぼみとかにに溜まったりするものでね。ですから事故現場というのは注意せねば
ならんのですわ」
 やれやれ、という感じに肩をすくめる警官。

 この事故で現場を挟むインターチェンジ間で道央自動車道は下り線が1時間近く通行止めに
なった。

 車が落ちたのは牧草地。消火した、というか、燃えるだけ燃えてしまった残骸を警察官と消防隊
員が取り囲んでいた。

 テレビ局がヘリコプターまで飛ばして取材にやってきた。目撃者としてインタビューされそうになる
陽子。立場上、他局の画面に映るわけにはいかない。そちらはトラックの運転手さんと娘たちに
任せ、自分の職場から駆けつけたスタッフの担ぐカメラに状況を話す。

 いくつかの疑問は置いておいて。


 めぐみは当然ながら登校日に遅刻である。心配させないように家に電話を入れたが、戻れるのは
昼過ぎになりそうで学校に欠席の連絡をしてもらうことにした。

 琴梨は働いているレストランが改装のため2週間の休業で、この機会に愛田牧場に何日か泊まる
ことにしていたので、都合がどうこうという問題はなかった。

 陽子はここに残って事故のリポートをしなくてはならなくなったため、パトカーで二人を最寄りの
インターの外まで送ってもらいあとはタクシーを使わせることにした。


 この朝、日本中のモーニングショーで似たような映像がブラウン管を舞っていた。
 ヘリコプターが捉えた、高速道路に集まるパトカーと警官。
 そこだけ誰も足を踏み入れないタイヤの跡。
 美しいグリーンの海にくすぶる鋼鉄の棺。

 「今朝早く、札幌市と旭川市を結ぶ道央自動車道下り線で乗用車の単独事故が発生しました。
この事故で車は炎上。陸橋から転落しました。運転席から男性のものとみられる遺体が発見され
ましたが、現在のところ身元などはわかっていせん。他に同乗者はなかった模様です。道警では
遺体の身元を調べると同時に、スピードの出し過ぎが事故の原因ではないかと見て捜査していま
す。車の火災による周囲への延焼はなかったとのことです。この事故で、道央自動車道下り線は
・・・・・」





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