プロローグ 散乱する海鳴り



 大きな渦は その勢いに力を得て
 ぐるぐるまわる小さな渦を含み
 その小さな渦の中には これまた
 ひとまわり小さい渦がある

                                      ルイス・F・リチャードソン



 故に明主賢将の動きて人に勝ち、成功の衆に出ずる所以の者は
 先知なり、先知なる者は鬼神に取るべらかず。
 事に象るべからず。度に験すべからず。
 必ず人に取りて敵の情を知る者なり。

                                                『孫子』



 トリストラムはブレンダウィンが粗忽にも目の触れるところに
 出し放して置いた恋の薬入れの壷を見つけた。
 彼はそれをとって、愛するイゾーデに飲ましてやり、残りは自分が飲んでしまった。

                                  『アーサー王とその騎士たち』









 青い風が、海面を鴎とともに滑走する街。
 彼女の住む高台にある部屋は、いつでも窓越しに白い波頭が見えた。
 時刻は、午前2時ぐらいだろうか。
 彼女は眠れぬまま、潮騒に耳を澄ませていた。

 北の大地では、盛夏であっても深夜ともなれば冷え込む。
 体に触れている布団が、否応なしに孤独を感じさせた。

 耐えられるだろうか。
 彼のいない明日に。
 暗い部屋でベッドに横たわりながら、彼女は決して瞼を開けなかった。
 そうしたら、溢れ出る涙を塞げないのがわかっているから。

 こうなることを、ずっと恐れていた。
 どれだけお互いを強く結び付けていても、いつか無益になるとわかっていたのに。
 誰も愛してはいけなかったのに。

 枕に、シーツに、不定型な逃れられぬ呪縛の徴が残る。
 もう涙なんて枯れてしまえばいいのに。

 こんな願いすら叶わないなんて。



 ザッ・・・・・


 何か、聞こえた。
 波とは違う、擦過音が。
 足音。
 それも、意図的に消そうとして。

 アパートの廊下を、誰かが歩いている。

 本能的に不審と危険を感じた彼女は、そっと体を起こしてドアの方を見た。女性の身で一階に
住む彼女は、用心の必要をよく周囲から言われている。

 戸締まりは、ちゃんとしているはず。
 腫れぼったい瞼をごしごしとこすって様子を窺うと、ドアの隣にある曇りガラスの向こうに、黒い
影が動いた。
 そして。

 聞こえないほどの小さなノックがされた。
 拳ではなく、指先で突ついたような音。

 応じていいものか迷い、息を呑んで動かずにいる彼女。

 またノック。

「誰?」
 脅えた様子を出さないように、言った。
 もう涙も元栓が締められたように止まっていた。

 かすかに、返事らしい声がした。しかし聞き取れない。

 ベッドを出て、足音を潜ませて少しドアに近づく彼女。
 そして尋ねる。
「誰なの?」

「俺だ」

 絞り出すような低い声。
 すぐに彼女はわかった。

 どうして。
 どうしてここに。

 そんな疑問を意識の外に追い出し、慌てて錠を外して扉を開ける。

 同時に彼が、玄関に入るなり床に崩れ落ちた。

 電気のスイッチに手を伸ばした瞬間、押し殺した声で「明かりはつけるな!」と強く言う彼。

 右手で左肩を掴み、肘を使って四つん這いの男は、玄関から部屋へといざり進む。荒い呼吸が、
常ならぬ苦しみを表していた。

「梁。どうしたっていうの?」
 彼の背に手を当てると、ぐっしょりと汗で湿っており、体は熱病患者を思わせるほどに火照って
いた。
「まず、鍵をかけるんだ。絶対に大声は出さないでくれ」
「う、うん。」
 がちゃりという施錠音を聞いて安心したのだろうか。細い息を吐く梁。台所の床に尻餅をつく格好に
なり、呼吸を整える。窓から微かに届く星明かりも、その表情を浮かばせはしなかった。

「怪我してるのね!」
 そばに寄ろうとした彼女の素足に、ぬるりとした感触があった。リノリウムの床から彼の体まで
黒い染みが続いているのが暗いままでもわかる。そして金属にも似た血の臭い。
「なにか、きれいな布をくれ。あとアルコールはあるか?」
 すぐに衣装箪笥を開け、ありったけのタオルを取り出す。そしてキッチンの料理酒を。

 彼は震える手でシャツを小さなナイフで切り、左肩を露出させる。そして酒を肩に開いている直径
3センチほどもある丸い傷口に一気に注いだ。
「ぐっ・・・・・がっ・・・・・」
 消毒の激痛に身をよじる。
 その衝撃で、さらに油井から涌き出す原油のように出血する。歯を食いしばりながら、それでも
指示を出す彼。
「その、タオルを、半分に切ってくれ。そう・・・・・それに酒をかけて」
 彼女は言われる通りに血塗られたナイフを使い、傷口に張り付ける。
「今度は、反対側だ」
 その言葉に驚き、背中側を見るとそこにも同じように出血する生々しい傷があった。
 それでも質問はせず、治療に専心する彼女。

 手拭いを包帯代わりに、ようやく形ばかりの手当を終えた二人。
 いくらかは良くなったのだろうか。心配で心が破けそうな彼女の顔を見ずに、呟くように彼が言う。
「すぐに出ていく。すまない。もう会えないって言われたのにな・・・」

 そう。
 つい半月ほど前。彼女は彼にそう言ったのだ。

「出ていくって、いけないわ。すぐ病院に、そう、救急車を呼ぶから・・・・・」
 電話に目を向けた彼女。
 しかし、ゆっくりと首を振られた。
「病院には行けない怪我なんだよ」

 一瞬ためらって、言葉を続ける。

「撃たれたんだ」

 衝撃のあまり、どういうことなのか聞くこともできない彼女。
 彼はまるで他人事のように、「へまをしたらしい。だけど貫通したし、神経にも障害がないから
たいしたことはない。もう行く」
 そう言い切って腰を浮かせる。

 彼女は床をつく彼の右手を両手で覆った。
「そんなに血が出ているのに、無茶よ。無理に動いたら死んでしまうわ。病院に行けないなら、
ここにいて。お願い」
 それは心からの哀願だった。

 だからこそ、彼は出て行かねばならなかった。
「そうはいかないんだよ。じきに連中がここへ来る。もう時間がない」
「連中って誰? 追われているの?」
「そうだ」
 腰の後ろへと右手を伸ばし、ベルトからオートマチック型の拳銃を掴み出す彼。
 鈍く光る黒い凶器。
 銃把を握ったまま、壁を這うようにして立ち上がる。

「どうして、そんなことに・・・・・」

 静かな沈思が流れた。
 彼の唇のシルエットは、笑っているように彼女には見えた。

「さぁな。俺にもわからんよ。でも、今の俺にはやらなくちゃならないことがある。死ぬわけには
いかないんだ」

 彼女は背を向けようとする彼の前に回り、胸に飛びこんで、もう何度抱きしめたかわからない体に
すがった。
「お願い、やめて。そんなものを使うなんて。あたしがいつまでだって匿うから。それでいいん
でしょう?」
「絶対に駄目だ」
 厳然と断言する彼。

 そして、ぽつりと洩らした言葉。
「・・・・・やっぱり、ここに来たのは間違いだったかもな・・・・・」

 ただをこねる幼児のように、シャツの胸元を掴んで離さない彼女。
「そんな、そんなことって・・・・・」

 いきなり、彼女は唇を奪われた。
 融けたガラスのように熱く、獣のように猛る接吻だった。


「俺は必ずお前を守ってみせる。だから、俺を信じていてくれ」

 そうして、彼は闇の渦巻く夜へと消えていった





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