第28章 Sound of music



 「ケーペシュボルト」荘に滞在して2週間ほど過ぎた日。
 市内散策から戻った鮎は、玄関先で宿のご主人クラウスさんが若い男と話しているところに出くわ
した。どうも、なにか困っているようだ。

「エントシュルディゲン・ズィー・ミッヒ・ビッテ?(どうしました?)」
 覚えているドイツ語を使い、二人に尋ねてみる。

 クラウスさんのゆっくりと話してくれる返事を理解してみると、どうやらお金がない客が一日だけで
いいから泊めてくれと頼んでいるらしい。鮎と同じぐらいの年齢に見えるその青年は財布を無くして
しまい、もう大使館も閉まっている時間なので途方に暮れているのだ。

 もう季節は冬。東欧の夜は野宿できるほど優しくない。前もって電話予約があった客なので主人も
泊めたいようだが、料金先払いが当たり前になっているので泊めたものか迷っているようだ。

 彼も旅の用心からか、幸いパスポートと国際学生証は持っている。アイルランドからの旅行者の
ようだ。数日で国の親から送金してもらえると言っているのだが、確実な保証になるものではない。
ヨーロッパはどこも治安の悪化に悩んでおり、安易に受け入れるわけにはいかないのだ。

 彼は、持っていた黒いケースを叩いてまずドイツ語で、続いて英語で何か言った。これで明日、
宿代を稼いでくると言っているらしい。

 すぐに中身が鮎にもわかった。
 ギターケースだったから。

 主人が何か彼に言った。すぐにケースの止め金をぱちんと外し、中身を取り出す彼。本当に稼げる
腕があるのか、やってみせろと言ったのだろう。

 古びたギターだった。
 でも、安物ではない。
 まさか・・・・・
 WHITE BOOKの70年モデル?
 まさかね。

 ストラップを肩にかけ、少しかじかんだ手に一息を吹きかけ、そして彼は弾きはじめた。イントロで、
彼の祖国のカントリーソングだと感じた。


 鮎より、下手だった。
 上手な素人といったところだろう。
 歌う声もそこそこだ。

 3分ほどで、その曲は終わった。
 どうでしょう、という顔で主人を伺う若者。

 マスターは腕を組み、う〜むと一声唸って鮎の感想を尋ねる。弾かせたはいいが、音楽の善し
悪しはよくわからないのだろう。
 「グート(良い)」と、鮎は答えた。
 苦笑いを浮かべて頷き、ご主人は若者に手を差し伸べた。

 彼の名は、レイモンド・マクローリン。
 アイルランドのダブリンから旅を始めた大学生だった。

 朝の食卓で彼は、鮎に大使館まで案内してくれないかと頼んできた。事情を話し、当座のお金を
借りるつもりだと。鮎もアイルランドの大使館など知らないが、電話で場所をマスターが調べてくれた
ので放ってもおけず、承諾した。

 その結果は、一日分の食費ほどを借りられたに留まった。
 しかしそのお金は実家への電報代となり、また元の無一文へと逆戻りである。
「トラベラーズ・チェックは持ってないの?」
「遣い切って、ここの銀行で発行してもらうつもりだったんだ」
 訛りの強い英語で彼は萎れたように答えた。

「それじゃ、それで稼ぐしかないね」
 ギターケースを指差す。
「稼げるかな」
 彼も自分の腕はわかっているらしい。不安がありありと出ている。
「ドゥ・ザ・ベスト(一生懸命、やってみなよ)」


 とはいえ、そう甘くなかった。

 市の中心、デアークテール駅前でギターを取り出すと、すぐに警官がきて追い出された。通行の
邪魔だということらしい。

 そこで近くのルーズベルト広場へ行ってみると、すでに楽器を抱えた先客が何人かいる。鮎が
なんとか場所を確保してやったのだが、いっこうに彼はギターを取り出さない。
「どうしたの?」
「俺、無理だよ」
 そう言う彼は、すぐ近くで弾かれているバイオリンの音色に迫力負けしてしまっているらしい。
ヨーロッパでは珍しくないことが鮎にはわかってきたが、街角で演奏する人がそもそも多く、レベルも
高いのだ。オペラのアリアを高らかに唱える女性や、弦楽4重奏のカルテットまでいたりする。

「そんなんじゃ、入れてもらえないよ。宿に」
「わかったよ。やってみる」

 そして空になったギターケースを前にして、彼も演奏を始めた。

 数時間後、収入はパン1個すら買えそうもないものだった。

 及び腰での演奏と歌では、足を止めてくれる人すらいなかった。まるでホームレスへの施しの
ように、数枚の硬貨が投げ入れられただけ。

 徒労感に苛まれ、ぐったりと花壇の柵に座ってしまった彼。

 鮎は昼食にパンとジュースを買い、彼にも分け与える。サンクスというお礼もそこそこに、かぶり
つく。朝、かなり食べたはずなのだが食欲はたいしたものだ。落ち込んでいたのは空腹のせいでも
あったのか。

 隣に座り、鮎はふと、自分のことを考える。
 どうしてここにいるんだろう。
 大使館に案内して、頼まれたことは終わったはずなのに。

 暇だから、いいんだけど。
 予定があったわけでもないし。
 お天気もよくて、そんなに寒くないし。


 だが、気がつくと彼のギターを見ていた。
 行き交う人々を、ドナウの立てる波を、くさり橋を、緑の林を、空を見ても、彼のギターへと
舞い戻ってしまう視線。

 パンを食べ終わり、これからどうしようかと思案しているのか、途方にくれているのかよくわから
ない彼に、思い切って言う。

「貸してくれる?」
 きょとんとする彼。
「ギターを?」
「そう」
 一体何に使うつもりかと訝む彼の表情。
 ただ持ってみたいだけなのかとでも思ってか、体に立てかけておいたギターを鮎の膝に乗せた。

 ネックを握った瞬間、どきっとした。
 指に触れた弦が神経に直結した1本のように振動する。

 鮎は立ち上がった。

 ストラップの長さを合わせる。
 チューニングを整える。
 ピックがなじむように、指をこすり合わせる。

 気持ちの赴くまま、戯れるように弦を突つつくように音を出す。
 10秒ほどもそうしていただろうか。
 不意に、メロディが全身から沸き上がる。

 イントロを、地下鉄の階段を駆けあがるように弾き始めた。
 躍動感に溢れたライン。
 生命力に満たされた音符。
 コードをかき鳴らす腕が歓喜するように踊る。

 夢中で半分ほども演奏して、やっと自分の選んだ歌が
 ビートルズのヒットナンバーだと気づいた。
 発音もいいかげんな英語で、それでもかまわずに声を高めた。
 言葉が次々と出てくるのだから、それでいい。

 最初にギターを弾いたのはいつだろう。
 高1の夏休み。
 楽器屋で、見よう見真似で爪を立てた時。

 最後にギターを弾いたのはいつだろう。
 どんな曲を弾いただろう。
 もう、忘れていた。
 誰のために弾いたのかも。
 大好きな人のためじゃなく、ファンのためでもなかった。
 誰のためにでもない演奏をしていたんだ。

 もう、あんなことはしない。

 今、自分のために弾いている川原鮎がそこにいた。


 そう。あたしはここにいる。
 ここにいるよ。


 最後のコードを弾き終え、弦を押さえる。
 一瞬の間を置いて、拍手が聞こえた。
 正面には、いつからか人だかりが。
 左右からは、ストリートミュージシャンと彼らを囲む人たちが手を叩いていた。
 そして背後から、ひとつの拍手。

「君、すごいよ」
「ありがとう」
「もっと、弾いてあげなよ。みんな待ってる」
「いいの?」
「いいさ。もちろん」

 それから、休憩を挟みながら3時間以上も鮎は演奏を続けた。途中で、「勝手に人前で演奏しては
いけない」という会社の規則を思い出したが、半秒ほどで笑い飛ばした。
 好きな歌を、手当たり次第に歌った。
 洋楽も邦楽も、弾きたいという気持ちにだけ従って。

 やがて冬の陽が傾き、寒さからか人通りも少なくなってきた。
「これで、最後です」
 そう前置きして、ギターを抱え直す。

 こんな季節に似合う歌じゃない。
 けれど、相応しく思えた。

 『二人の水平線』という歌が。


  Do you remember?
  二人だけのものだったスロープを
  あなたはいつも 早足で
  おいてきぼりのわたしを 振り返る
  街でいちばん高い空へ
  名もない丘に続く道 歩いた

  Do you remember?
  星のない夜にした喧嘩の理由を
  わたしはいつも うつむいて
  ごめんねなんて言わないと ふくれてた
  誰も知らない砂浜に
  足跡のペンで大好きだよって

  聞こえてくるよ 潮騒とあなたの鼓動
  聞こえてくるよ あなたのいる街から
  聞こえてくるよ どんなに遠くても
  聞こえてほしい 溢れている想い.....

  Do you remember?
  別れ際に握った暖かさを
  二人はいつも 若すぎて
  どこまでも歩いていけると 信じてた
  青空と重なる水平線も
  あんなに近くにあるよと 笑って

  真夏の幻が口笛吹いて
  渚の天使を呼び集めた

  聞こえてくるよ ただ瞳を閉じるだけで
  聞こえてくるよ あなたがどこにいても
  聞こえてくるよ どんなに遠くても
  聞こえてほしい 溢れている想い.....



 拍手に包まれながら、鮎は決めた。
 もう、帰らなきゃ。
 どこかで待っているはずだから。



 そうして数日後、ウィーン発の飛行機のチケットを手に、鮎はオーストリアへ入国した。
 迷いも、悩みも、寂しさもなくなったわけじゃない。
 それでも、もういい。
 歌いたくて、歌いたくて。
 川原鮎の歌が、遥か遠くまで響くくらいに、歌いたくて。







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