第8章 斜めの砂時計


 世界中で邦彦としか過ごせない日から5日ほど経った。

 アルバイトを終えて夕食にとりかかった鮎の部屋にマネージャーの水上から電話がかかってきた。
今からすぐに、都内のスタジオまで出てくるようにと。
 時間は夜の8時。あまりに急な呼び出しに戸惑いつつも、大事なことだからと言われては急ぐしか
ない。
 窓の外はあいにくと篠つく雨。いつだったか彼が忘れていった傘と並んでいる自分の傘。それを
取り出し、疾走する車のタイヤが紙を引き裂くような音をたてる路上へと出た。
 その前に、ちゃんとご飯は食べたが。

 1時間ほどで目的地に到着。
 このスタジオはプロデューサーの沢井が拠点として使っているところ。これまでにも2回、曲を
聴いてもらうために来たことがある。こんな時間でも昼間と変わらぬ活気があるのは、音楽に夜も
朝もないということだろう。泊まりこんでリハーサルしたりする人も珍しくない。

 玄関ロビーには、いかにもミュージシャンといった各種取り揃えた髪色の男女と漂う紫煙。
そんな人たちに混じって、ノートパソコンを膝の上に構える水上がいた。自動ドアを通る鮎を見つける
なりパソコンをしまったことからすると、ここで待っていたらしい。
「おはようございます」
「おはよう」
 この世界では、夜でもこう挨拶する。まだ鮎には違和感が残っていて、言いずらいのだが。
 早速、電車内でずっと考えていたことを聞く。
「大事なことって、なんですか?」
 最良から最悪まで予想はしてみたが、わからないまま帰宅するサラリーマンで込み合う駅の
ホームへ降りることになった。

「あなたのテビュー曲候補が決まったの」
 ことさらに表情を変えることもなく、話す水上。
「えーっ!?」
 鮎はロビーにいた半数以上が振り向くほどに大声で驚く。まだOKのサインが出た歌はないの
だから。

 最後に曲を提出したのは3日前。
 公園で弾いたメロディーをベースに、曲は高揚感の赴くまま一気に仕上げたが、歌詞はまだサビと
出だしぐらいしかできていなかった。期限が迫っているからと言われ、未完成のままテープに録って
水上に渡しておいたのだ。

 『イノセント・シー』というタイトルに釣り合うような歌詞はまだ書けていないけれど、きっと特別な
歌にできるという確信があった。だからテープを提出する時に
「この曲にはもう少し時間を下さい。一番のいい歌にできそうなんです」
と口添えておいた。

 だから、候補になったのはそれより前に作った歌だろう。
 今までに提出した曲のどれかを沢井が聴き直して選んだのだろうか。
 アレンジを変えたりして、もっと良くしてくれたとか。
 きっとそうだ。
 どの歌だろう。

 思い当たるのは、最初に提出した歌。
 札幌時代よりもいいものができたと自信があった。「悪くないが、もっと候補を揃えるように」と
沢井に言われていたのだ。ひょっとしたら『大好き』かも。だったら嬉しいんだけれど。


 水上と沢井の待っているというスタジオルームへ向かいながら、鮎はついにたどり着いた
「デビュー」という言葉の響きに酔いそうになっていた。やっと「川原鮎」というクレジットがCDの
虹色の輝きに刻み込まれるんだと。


 スタジオの廊下には大きな窓が取り付けられていて、操作室(コンソールルーム)とさらに奥の
セッションルームが見えるようになっている。
 そんな窓の一つ。向こう側に、沢井がいた。いつものようにサングラス姿。
 椅子に座り、長椅子に並んでかけている3人の女の子と話をしている。
 彼女たちは同じ事務所に所属するグループだ。確か去年デビューして、かなりのヒットを記録して
いる。みんな年下だが先輩。まだちゃんと話をしたこともない。

 水上がドアをノックし、防音ガラス越しに室内の顔が揃ってこっちを向いた。それを合図にした
ように沢井は立ち上がり、3人を送り出した。開けられたドアから洩れる「じゃ、失礼しま〜す」という
彼女たちの明るい声。次のシングルの打ち合わせでもしていたのだろうか。
 出がけに、
「水上さん、久しぶりですね」
「今度の曲、すこくいいんですよ」
当然顔見知りの水上にそんな言葉をかけ、彼女たちは廊下に消えていった。

「川原を連れてきました」
「すいません。遅くなりました」
 謝る鮎を気にする風もなく、沢井は「それはいい。まずは座って」とありふれた長椅子を示す。
まださっきの3人の温もりが残っている。
「君のデビュー曲のことなんだが」
「はい」
「これでいこうと思ってる」
 沢井は操作盤の無数にすら思えるスイッチに指を走らせ、曲を流しはじめた。

 これは・・・・・

 『イノセント・シー』だ。

 編曲の手が入って、メロディラインがより複雑に、厚みを増している。いくらかアップテンポになって
全体に軽快さと明るさが強く出ている印象だ。

「俺がいくらかアレンジした。どうだ?」
「あたしが書いたのより、良くなってると思います。でもこの歌は、まだ歌詞を書いているところ
だから」
「歌詞はこうなる」
 そう言って彼がポケットから出した紙には、ワープロで印刷された歌詞の文字が並んでいた。

 背筋に冷たいものが疾駆する。
 まさか、作詞家に依頼したのだろうか。
 作詞に見切りをつけられたと、そういうことなのだろうか。
 驚きのあまり言葉もなく、ただ反射的に受け取る鮎。

 上から下まで、一心不乱に文面を追う。
 何度も何度も読み返す。
 沸き上がってくるある思い。

 メロディに合わせて、頭の中で歌ってみる。
 つきまとうぼやけたためらい。

 この歌は、だれのものなんだろう。

 それは、彼女の歌であるようにも思える。
 そうでないようにも。

 これまでに鮎が札幌で歌い、提出したデモテープの歌詞。
 デビューの為に書き下ろしてきた歌の数々。
 それらに彼女が使ったフレーズが、巧みに掬い取られて新しい言葉で繋げられていた。
 どの歌がベースになってもいない。
 わかるだけでも、7曲ほどから引用されていた。
 確かに、彼女の歌だった。
 夏らしい明快さが伝わる、洗練されたラブソングに仕上がっている。

 でも、どうしてか歌詞にしっくりしないものを感じる。
 こういう手段を使うなら、もっと選んでほしいフレーズがある。
 むしろ当たり障りのない部分が引用されていて。

 欠け落ちているもの。

 なんだろう。なにかが抜けている。
 もう一度歌詞を読む。
 でも、わからない。
 考えてみようと紙をテーブルに戻すと、「どうだ?」と沢井が感想を聞いた。
「これは、沢井さんが纏めたんですか?」
「そうだ。うちのスタッフに活字に起こさせてな。そこから曲に合わせて組んだ」
 テープを提出してから間もない。
 仕事の少なくない部分をこれに費やしてくれたのだろう。
「君に異存がなければ、これをレコーディングする。今夜から始めてもいい」

 歌詞として、レベルの高いものになっているのはわかる。
 自分に求められていたのが、こういう歌詞だとも。
 ここで「はい」と言えば、デビューできる。
 やり残したことは、ないだろうか。
 川原鮎に、これ以上のことはできないだろうか。

「あの、この曲には途中まで詞を書いてあるんです。だから、待ってくれるように言ったはずなん
ですが」
 水上さんは、伝えてくれなかったのだろうか。
 彼女に確認するように、顔を見る。
 水上が応じるより先に、沢井が答える。
「聞いた。しかし、もう待てない。レコーディングだけなら1日でもできる。君の能力次第では、だが。
それでも制作とPRのスケジュールからすれば、もうぎりぎりの線だ。カップリング曲も用意しなくては
ならないしな。明日の朝には出来上がるいうのなら、待てなくもないが」

 明日の朝。
 そんなやっつけ仕事で、あの曲に詞を書くことはできない。
 素敵な時間をくれた邦彦のためにも、自分のためにも、もっと長い時間が必要だった。
「それは、無理です」

 水上が慰めの言葉をかけた。
「今取り掛かっている歌は、アルバムに回すこともできるわ。まずはデビューシングルを優先させま
しょう」
 椅子に座り直し、腕を組む沢井。
「歌詞の点で不満があるかもしれないが、俺はできるだけ君の言葉を選んで作詞をした。君の
音楽的な将来も考慮したつもりだ。俺や作詞家が用意した歌詞でデビューして成功すると、その後
からは君の歌詞では発売しにくくなる。なぜかわかるか?」
 思い付く答えを口にしてみる。
「売上が落ちた場合、あたしの歌詞のせいになるからですか?」
 沢井が軽く頷く。
「そうでもある。次に自作の詞で曲を発表した時に比較されて、どうしても初作詞として低く評価
される。だがそれ以上に重要なのは、君に『歌うだけの歌手』というイメージがついてしまうことだ。
そうはなりたくないんだろう?」
「はい。作詞も作曲も、自分でやっていきたいと思ってます」
「この詞なら、作詞者として君の名前をクレジットできる。時間がない現状では、最善の手段だ」

 どこか冷たい印象があったプロデューサーが、細心の考慮を払って準備してくれた歌。
 これなら、いいデビューができるんじゃないだろうか。
 そう思える。
 そう、あれだけ頑張ってやったんだから。

「もちろん、沢井さんの名前も入るわよ。あなた一人で仕上げた歌詞ではないんだから。
それでいい?」
 水上が確認するように言い添えた。
「いいです。その通りですから」
 一旦言葉を切り、きちんと沢井に向かう鮎。
「これでお願いします」
「それじゃ、決まりだな」

 コンソールルームに、3人の安堵を気化させたような弛緩した空気が流れた。彼らが、どれだけ
真剣であったかを示すようだ。
「そうだ、歌のタイトルを考えておくように。これも大事なことだ」
「イノセント・シーにします」
 間髪を入れずに鮎は言った。
 ふむ、と鼻を鳴らす沢井。
「これも堅いな。でもまぁ、そう悪くもない。もっといいのが出てくるまでは、それでいこう」


 それから明け方まで、歌の練習に時間を費やした。ディレクターやエンジニアといったスタッフは、
今夜のところはまだ出番がない。まずはこの歌を川原鮎の歌にすることだ。スタジオのマイクと
譜面を前に、コンソールルームからヘッドホンを通して出される沢井の指導に合わせ、様々な
スタイルを試した。

 鮎の声に応じて、沢井が曲を調整する。
 そして曲に応じて、鮎の歌い方も調整する。
 楽譜をそのままなぞるだけでは、音楽は完成しない。音の強弱と抑揚で元曲とは全く違った
印象にすることができる。それこそが、プロデューサーの技術が最も反映される職分なのだ。
とはいえ、この段階ではまだ曲も歌も荒削りなもの。本格的なレコーディングは程遠いことを、
これから鮎は知ることになる。

 時計が午前5時を指す頃、流石に鮎の喉に限界がきたところで練習は終わった。何パターンかを
録音はしたが、それはあくまでテイクの一つとして。沢井が最終決定するための資料程度の物。
これからは連日、スタジオでの仕事が完成まで続くことになる。

「それじゃ、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
 帰宅する沢井に頭を下げて見送る鮎と水上。
 彼の姿が廊下の向こうに消えた途端、鮎が長椅子にへたりこむ。背もたれに左腕を伸ばし、肩を
枕にして、それ以上は緊張から解放されたことで噴出する疲労で動くこともできない。
 水上が操作室を出て、すぐに缶ジュースと缶コーヒーを手に戻ってきた。
「さ、飲みなさい」
 差し出したのはジュースの方。
 鮎は薄目をこじあけ、頼りない手つきで受け取る。
「どうも。あ、でもコーヒーの方がいいかも」
「あなたに必要なのはカフェインじゃなくてビタミンよ。今日もアルバイトあるんでしょう」
 鮎同様に寝ていないはずなのに、眠たげな気配も覗かせない水上。
「9時半からで・・・」
 答えの語尾は、欠伸によってかき消された。
「それじゃ、急いで帰りましょう。少しだけでも休んでおかないと、体がもたなくなるわ」
「始発って、もう動いてますか」
「あたしが車で送るわ。それなら着くまで寝ていられるでしょう。さ、立って」
「はい・・・」

 人影の乏しくなったスタジオを出る。
 まだ雨は降るのをやめていなかった。
 青いアスファルトを叩くスタッカート。
 髪に絡まる湿った風。
 コンクリート色の低い空に、ぼやけた朝日がくすんでいる。
 そんな僅かな明かりさえ、鮎の瞳には鈍く痛かった。
 東に傘を向け、彼女は目覚めはじめた街を後にする。







トップへ
戻る