第7章 息吹を拾う道(後編)


 確かに違っていた。
 250円にしろ、入園料金を取るということだけではない。とにかく広いのだ。
 どこまでも続くような遊歩道が点在する広葉樹の林を縫って伸びている。
 噴水やベンチもあって、家族連れや彼らのようなカップルが穏やかな時間を寛いでいた。
「まだ?まだ歩くの?」
 公園に入ってからもけっこう歩いているが邦彦は歩みを止めない。
「もうちょっと、我慢な。足痛いか?」
「まだ大丈夫だけど、お腹空いたよ〜」

 東京らしくない、澄んだ流れの川を跨ぐ橋を渡り、さらに進む。
 途中、園内を廻っているらしい子供向けの遊覧車と擦れ違う。赤く塗られた電動の蒸気機関車に
貨車が連結され、乗っているはしゃぐ子供たちが手を振ってくる。

 そして、坂を登りきった鮎の眼前に、邦彦が連れてきたかった眺望があった。
 彼と彼女の手がダンスを終えたペアのようにするりと離れる。



 見渡す限りの緑の絨毯。
 窮まりのない自然のもたらすグラデーション。
 六月の陽光を受け止めて、芝生が優しい色で二人を迎えてくれる。
 遠く、遠くに森と空が交わる場所が霞む。
 叶えられたいつかの約束が、果てのないパノラマとなって世界を新しくしてしまったのだろうか。
 空を遮るものなど何もなく、風はどこまでも、好きなだけ真っ直ぐに吹いていられるみたいだった。

「こんなとこ、東京にもあったんだね」
 そっと、土の息吹を踏み割ってしまわないように植物の波打ち際から海へと歩み入る鮎。
 敢えて邦彦は、残ることを選んだ。

 導かれるように彼女は歩く。
 どこまでも歩いていけるかのように。

 蝶がいた。
 白くて、小さな蝶。
 どこへ行くのか。



 どうしてだろう。
 こんなにも胸が満たされてゆくなんて。
 こんなにも指先が歓喜に震えるなんて。
 こんなにも髪が蒼い風と戯れるなんて。
 どうして・・・・・





 どうして私、泣いているんだろう・・・・・・





 瞬間という名の砂時計の沙が無音のまま落ちてゆく。
 立ち尽くし、まるで小舟のように揺れる彼女の後姿。


 拭っても拭っても、あてのない行き先を求めて涙が溢れる。
 感じられるのはぼやけた緑の印象ばかり。
 そして、近づいてくる彼の存在だけ。

 肩にそっと置かれる彼の手。
 母親に迎えられる迷子のように、彼女は彼の胸にすがった。
 嗚咽と熱い滴が枯れた泉を潤すまで。





「なんか、ここって北海道みたい」
「落ち着く感じがするか」
「うん」
 言葉を切って、清純な空気をおもいっきり吸ってみる。
「変だよね。札幌にいたって、こんな風景は滅多に見てなかったのに」
 草原の番人のように独り立つ大きな樹。
 彼が作ってくれる木陰に、ビニールシートを敷いて寄り添う二人の姿があった。
 涙の跡は、鮎の瞳に微かに残るだけ。
 もう乾いた邦彦のTシャツ。
 焼きたてのパンはもうお腹のなかへ。
 残っているのはペットボトルのミネラルウォーター。
 彼らは横になって、靴を脱いで、腕時計は外してしまった。
 邦彦の腕枕で、たなびいてゆく雲が姿を変えてゆくのを鮎は見つめていた。

 彼は、いろいろな話をしてくれた。
 雲のこと。
 風のこと。
 光のこと。
 大学で、彼は自然科学と思想の関わりを研究課題にしている。単純な例をとって、素人の彼女にも
わかるように、ユーモアも交えて教えてくれる。

 彼が意識しているのかどうかはわからない。
 でも、彼の話はいつも彼女にインスピレーションをくれる。
 単純だと思っていた世界に満ちている矛盾と真実。
 定められていると思っていた世界にある自由と束縛。
 彼は決してものを一つの面で見ようとしない。
 表と裏だけでもない。
 その奔放で闊達な精神に、彼女は憧れる。
 まだ、知識も経験も子供から脱却しきれてていない鮎を、手を引いて導いてくれる彼に。
 歌いたいことをどんどん増やしてくれる彼に。

 ついさっき、歩き疲れたと言って彼を責めるような言葉を洩らした。
 軽い鞄とパンぐらいしか持っていなかったのに。
 ギターを持ってくれた邦彦の方が、疲れているはずなのに。
 そんなことにはまるで思い至らなかったのだ。
 大好きな人に、大好きなことができなくなっていた。心を強くしたつもりでいたけれど、卵ほどの
薄っぺらい殻に閉じこもっていただけだったことがわかる。
 そして、どれほど彼に心配をかけていたかも。


 鼻腔を大地からの草の香料がくすぐる。
 今日最初に見つけた雲は、もうどこかへいってしまった。

「ねぇ」
 ついと顔を彼の頬に寄せ、耳元に話しかける鮎。彼は瞼を閉じていて、「ん?」とそのまま応じる。
「ここに連れてきてくれたのは、どうして」
 邦彦は薄目を開け、深く、長い吐息を洩らした。
「安上がりだから」
 天空へと視線を戯れさせながら彼は答える。
「それだけ?」
「それだけ」
 鮎は体を起こし、邦彦の頬を両手で挟む。キスをするように顔を近づけて言う。
「ウソつき」
 真剣さが眼差しからテレパシーのように伝わる。
 じっと見つめ返し、根負けして空へと視点を流す彼。
「わかってるなら、聞くなよ」
「だって、ちゃんと言ってほしいんだもん」
 そしてくすっと笑う。

 邦彦はためらった。感じていたことを言葉にしてしまい、肯定されるのを恐れているから。
 昨日までの鮎なら、絶対に否定しただろう。それもきっばりと。その否定が虚勢でもいい。
ここにいてくれるなら。
 だから昨日までは言えなかった。
 わかっていながら。

「帰りたくなってただろ」

 初夏の微風が通り過ぎる間の沈黙。
 やがて鮎は体を起こし、膝を抱えて呟く。

「・・・うん。やっぱり、わかっちゃうんだね」

 彼も彼女もずっと避けてきた話題。札幌。北海道。故郷。ホームシックでもノスタルジーでもなく、
彼女の精神は逃亡先を探してあがいていた。気取られないように微笑んで、挫折を隠そうと次々に
新曲を作ろうとして、孤独に震えているのを悟られまいと自分から電話をかけるのも我慢した。

 くたくたになって眠るのは、懐かしく暖かい夢を見てしまいそうで怖いから。
 そんなことをしても、音楽が楽しいだけだった日々は麻薬のように反趨することをやめてくれない。

「夜中にね、眠れないで、ずっと札幌の街を想い浮かべてたりするんだ。明け方には、ギターも
楽譜もみんな置いて、朝の飛行機に乗っちゃおうって」

 今帰ったら二度と戻ってはこれない。
 デビュー失敗。届かなかった夢。慰めと憐れみと嘲笑。
 ステージは永遠に立てない場所になる。
 それでも、もうよかった。

 膝の間に顎を預けていた彼女が、
「でもね。札幌には邦彦さんがいないから」
 すっと顔を上げてただ彼だけを純粋に見つめる。
「だから、ずっと我慢してこれたんだよ」

 躊躇など微塵もなく、邦彦は体を起こして鮎の頭を両腕で抱き寄せる。
 俺の鼓動が直接伝わるように。
 俺の心に直接触れるように。

 想いを伝える術をずっと詩作に求めてきた。
 辞書のページには限りがあっても、ペンを握れば生命のように脈動する新しい言葉が誕生した。
 なのに。
 どうしたって、ひとつの言葉しか浮かばない。

「愛してる」



 やがて空も雲も太陽も、森も樹も芝生も、夕闇に閉ざされる前に濃く深く色合いを変える。
もう二人が背にした木陰も、木そのものよりも長くなって余所を覆っていた。

 語らう二人の視界に、入ってくるものがあった。
 顔を向けると、歩みを止めた。
 2歳くらいだろうか。男の子が、きらきらとした瞳でじっと二人をみつめている。きゅっと握った手は
バランスをとっているのか、前後に揺れている。少し離れたところで、やはりシートを敷いて寛いで
いる夫婦の子供のようだ。
「かっわいい!どうしたの、坊や」
 鮎が話しかけても、何の反応もない。ただじっと見ている。
「子供の考えていることはわかんないな」と苦笑する邦彦。
「ねぇねぇ、何かお菓子持ってない?」
「ないな。あいにくと。でも犬とか猫じゃないんだから、餌付けするなって。そういうの好きな。お前」
「だってかわいいんだもん」
 彼女が手を振ると、その子も振り返してきた。
「・・・ねぇ、憶えてる?」
「何を」
「前に、似たことがなかった?」
「リスのことか?」
「そうそう。小樽に行った時。リスがいて、お団子あげようとして止められたんだよね」
「歯にくっつきそうだからな。あれから、夕陽見て泣いたんだよな」
「うん」

 ちょうど、今ぐらいの時間だったな。
 邦彦にとって、いつでも鮮やかに甦る記憶だった。
 ペンチから離れ、展望台の欄干へ歩く鮎。
 座ったまま、夕日よりもその細い背中を見ていた邦彦。
 やがて振り向いた彼女は、紅茶色の涙で頬を濡らしていた。
 川原鮎だけが、美しくそこにあった。
 どうしてか彼女が、いとおしくてならなかった瞬間。
 魂の尽きる時まで忘れることのないシーンだと、誰かの声が精神の最深部に響いた。

 俺は彼女が、どうしようもなく好きになったんだな。

「そうだ!」
 突然の鮎の声。
 過去への小旅行を慌てて中断する邦彦。
 見ていると鮎が、ずっと置いたままにしていたギターケースから中身を取り出して抱えた。
「あの子に聴かせてみるね。弾いても、泣いたりしないよね」
「ま、そんなこともないだろうけど」
「それじゃ・・・」

 双瞼を閉じ、弦にそっとピックを添える。
 これまで見たことのないスコアが、刻まれはじめた。

 ここで吸い込んだ緑の空気が形を変えて出てゆくように、透き通った音符が次々と翼を広げて
滑空してゆく。

 ハミングが無意識のうちに付き添い、産まれたてのメロディをそっとくるんでゆく。

 右手も左手も、高鳴る精神のリズムに直結して軽々と舞う。

 そして飛び立った水鳥が落とした羽が、湖に最後の波紋を残すように、最後の一音を奏でた。


 ふぅ、と余韻を確かめながら吐息を洩らす鮎。
 その耳をくすぐるまばらな拍手。
 一番近いのは、もちろん邦彦の。
 一番遠いのは?
 閉じ続けていた瞼を解放する。
 男の子の両親が、こちらを向いて拍手をしてくれている。
 そして邦彦の真似をしているのだろうか。
 男の子も、にこにこと喜びながら小さな手を叩いていた。

 その響きは、大観衆の拍手と同じだけの喜びを鮎に与えてくれた。



 もう日没が近い。
 男の子が親元へ戻るのを契機に、彼らも帰り支度をすることにした。
 来た時よりも、もっとしっかり手を握り、指を絡ませながら家路を辿る二人。
「ねぇ、さっきの曲にタイトルをつけてくれないかな」
「そうだな・・・」
 一番星が他の星に追い付かれる夜空を見上げて考える彼。
「『イノセント・シー』かな」
「イノセント・シー?」
「なんとなく。イノセント・シー。意味は『無垢な海』かな。あの子と鮎がいる風景が、そんな感じ
だったよ。説明するのは難しいけど」
「ううん、なんとなくわかるよ。無垢な海。イノセント・シーか。その言葉、頂戴ね!」
「いいよ。タダだしな。今まで書いて送った詩も全部あげたものなんだから、使えるのがあれば
使っていいんだぞ」
「うん。ありがと」
 公園を出たところで、水銀灯に照らされた夕闇を振り返る彼と彼女。
「また、こようね」
「ああ。ここは、北海道の替わりになったか?」
 ちょっと思索の間をおいて、答える鮎。
「ここはもう、替わりじゃないよ。あたしと邦彦さんの、新しい想い出の場所になったから」







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