第7章 息吹を拾う道(前編)


 梅雨空がふと休憩し、3日ほど好天が続いた日。
 鮎は冴木に誘われるまま、デートに出かけることになった。

 彼女がデビュー曲に取り掛かってから、会うたびに笑顔に陰影の濃くなる鮎を気遣ってきた邦彦。
「大丈夫だよ」という返事が空虚だった。
 できることなら、ずっと一緒にいてやりたい。お互いの時間が擦れ違うことが続き、アルバイト前の
1時間を喫茶店でとか、お昼だけを一緒に食べるといった細切りにされた逢瀬しかできないでいた。
 留守電に、最もよく鮎の変化の兆候が出ていた。
 かつては明朗なメッセージを残していた彼女だったのに、最近では「邦彦さん・・・・・いないのか。
それじゃ、またあとで」と、この程度になってしまった。
 合成音声のような録音を聞いて、彼は自分になにができるかを思わずにはいられなかった。


 午前10時。
 部屋で待っているはずの鮎のところに邦彦は迎えに行った。
 バッグひとつの軽装とジーンズとTシャツ姿でマンションの階段を登る。
 カンカンと反響する足音。
 3階まで登りきったところで、鮎の隣室のドアが開いて住人らしき女性が出てきた。
 白いブラウスとインディゴ地のロングスカート。
 長い髪と端正な容貌は人目を引くのではないだろうか。
 直ぐに彼女も冴木の存在に気がついたようだ。若い女性が当然見せる、警戒したような視線を
ちらりと向けられる。
 こんな時は、妙に気まずい。こちらが怪しげなチラシを配っている人みたいだ。

 そんなことはともかく、廊下が狭いので、この人の部屋の先にある鮎の部屋へは体を横にして
擦れ違わないことにはたどり着けない。「失礼」と小さな声で言い、彼女の後ろを通る。
 そして303号室の呼び鈴を押した。

 返事がない。

 また寝坊したらしい。
 ちょっとだけ苦笑いして、再び押す。
「はい」
という、力のない声がインターホンのスピーカーからようやく聞こえる。
「俺だよ。早く起きろ」
「へっ・・・・・あっ、ごめん!ちょ、ちょっと待ってて!えっと、3分!」
 部屋を片付けでもするのだろう。やれやれと、ドアから離れて廊下の壁に寄り掛かって待って
いようとした時、じっと先ほどの女性が自分を見ているのに冴木は気づいた。

 なんということもなく、会釈をしてみる。鮎の隣人なら、無視するような失礼な真似はできない。
彼女も会釈で応じ、自室に鍵をかけようとしながら「ごめんなさいね。見てたりして」と話しかけて
きた。
「いや、別にいいですけど」
「彼女のお友達かしら」
 言葉の最後にくすっという笑みが重なったのは、きっとインターホンからの慌てた鮎の声を洩れ
聞いたのだろう。
「まぁ、そうです。あいつ、お隣に迷惑とかかけてませんか?」
 いい機会だと、真面目に尋ねてみる。つい心配になってしまうのだ。
「あら、そんなことはないわよ。いい娘じゃない」
「う〜ん。ちゃんとゴミとか時間までに出せてるか不安で」
 彼の目から見て、鮎はルーズではないが家事が得意じゃないのは明らかだった。
 小首を傾げる女性。
「ちゃんとやってると思うわよ。でも、朝は苦手なのかしら」
「ご覧の通りだから」
 開けてもらえないドアを示してみせる。きっと今頃、ばたばたと支度をしているのだろう。
 事情を察したらしく、指を唇に当てて微笑をこぼす彼女。
「疲れているのかもね。プロのミュージシャンなんでしょう」
「なりたてだけどね。もう聞いてるんだ」
「時々話をするから。あなたも音楽をやるの?」

 『も』と言うからには、この女性も何かを演奏するのか。声楽でもおかしくない声をしているなと
邦彦は思った。

「俺は聴くだけ。不器用だから。どうも最近煮詰まってるみたいなんだけど、気分転換に連れ出す
くらいしかできないのがつらいとこでさ」
「あら、そうでもないわよ。音楽ばかりやっていると、音楽と関わってない人と話したくなったりする
ものよ」
 その時、解錠の音がしてやっとドアが開いた。
「ごめ〜ん。もういいよ」
 かれこれ5分はかかって、最低限の身支度をした鮎がひょこっと顔だけを出した。
「あれ?」
 冴木と宮本未来という意外な状況に、きょとんとする。
 それを見て顔を見合わせ、くっくっと笑う二人。
 宮本は後ろ手を組み、上体を傾けて鮎の高さまで頭を下ろして「おはよう。川原さん」と、優雅に
挨拶してみせる。
「あ、はい。おはようございます」
 事態をさっぱり飲み込めないまま鮎は答える。
「それじゃ、私行くわね」
 身を翻し、鮎と冴木に手を振って、彼女は階段へと歩いてゆく。
「いってらっしゃい」
 邦彦には他に言うべき言葉も見あたらなかった。
 ふと、その場に残る緑の香りを感じた。

「ねぇ、どうして一緒にいたの?」
 玄関で、鮎が尋ねる。
「来たら、ちょうど出てきたんだよ」
 鍵を締めながら答える彼。
「そうなんだ。知り合いだったのかと思っちゃった」
「違うよ。誰かさんを待ってる間、立ち話してたの」
「ねぇねぇ、綺麗な人だと思わなかった?」
 わざと聞いてみる。自分と全く違うタイプの女性をどう感じるのか、本音ではかなり興味がある
のだ。
 いつも、はぐらかされてしまうけれど。滅多なことでは、『鮎が一番だ』とか言ってくれないのだ。
 今日の反応は、「そうだな。寝癖のついてる寝ぼけた鮎よりはな」という的確なもの。
 「あっ、もう、意地悪」そう言って両手で頭を隠す鮎。
「まだそこまでやってないの。あんまり見ないでね」
「わかったよ。テレビ見てるから支度してくれ」

 もう付き合いは長い。合鍵も持ち合っている。
 冴木がここに泊まることもあるから寝起きの鮎だって何度も見ている。
 みっともないところはお互い隠し切れないけれど、それに馴れて、なんでもあからさまになったりは
しない彼と彼女だった。

 邦彦が主婦相手の情報番組を眺めている間に、鮎の準備は完了した。
「できたよ。行こっ!」
 電源を切り、腰を上げる彼の背中に「ねぇ、ところでどこに行くの?」と鮎。電話でデートの約束を
したときには、彼は言わなかったのだ。『気分転換をしに行こう』というだけで。
「近くだよ」
 鮎はちらりと部屋の隅に視線を送る。
 そこに立てかけてあるのはギター。
「・・・どうしよっか」
 気持ちの読み取れない瞳で彼女をみつめる彼は、黙ったまま。
「あ、やめといた方がいいよね。せっかく気分転換するんだもん」
「・・・いや、持っていこう」
 そう言って、冴木はギターケースを手にした。

 今日は、鮎のアルバイトはお休み。邦彦の講義は自主休校というやつだ。夜のアルバイトも
同僚に交代してもらって休みにした。

 うっかりすると日焼けしてしまいそうなよい天気に、国立駅に着くまでに汗ばみそうな二人だった。
駅前のロータリーはいつものように市民と買い物客で混雑していて、並んで歩くのは難しかった。
どこかの時計台を連想するような駅舎は、鮎のお気に入りになっている。
 冴木が最短の切符を2枚買い、一枚を鮎に渡す。
 まだ行き先を教えてもらっていない鮎は、下りのホームへの階段を登る彼についてゆく。
「立川に行くの?」
「そう」
「映画?」
 いつだったか、彼がいい映画館があると言っていた。
「外れ」
 それ以上は教えてくれない。どうしても内緒にしたいようだ。

 揺られること5〜6分で立川駅。
 北口へ出る。
 ちょうど時間はお昼前。まずは美味しいパン屋に足を踏み入れた。
「中で食べないからな」
「そうなの?」
 このお店には買ったパンを食べるための席がちゃんとあるのに。
「そ。あとで食べるから」
 ますます彼女には意図がわからない。ギターとパンでどうするんだろう。
 遊園地でも繁華街でも、似つかわしくないように思う。

「じゃ、歩くぞ」
「うん」

 隣街ではあっても、鮎はここに来たことはほとんどなかった。賑やかな街だという印象はある
けれど、用事らしい用事は国立で済んでしまうのだ。

 10分も歩くと、急に風景が変わってきた。
 建物がないのだ。
 歩道の右側には彼の背よりも高いフェンスが途切れることなく張られていて、その向こうには
雑草が繁りよく見えないが、ビルやマンションらしい姿が目に入らない。歩道も珍しいぐらい一直線
で、信号や交差点もない。人通りもかなり少ない。そのおかげで、ゆっくりと手をつないで歩くことが
できたけれど。

「ここが今日のデートコース」
 冴木がそう言って指さしたのは、『国営昭和記念公園』という案内板だった。
「公園?公園だったら電車に乗らなくてもあったじゃない」
 いくらか歩き疲れた鮎は、不平を鳴らした。もちろん本気で怒っているわけではないけれど。
「その辺の公園とは、ちょっと違うのさ」







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