第6章 深く海は沈む


 当面の鮎の目標は、デビューシングルの作成である。

 これまでに札幌で書き、メッセ・ホールで演奏していた曲はすべて、デモテープの段階で不採用の
烙印を押されていた。
「全部駄目なんですか」
 落胆して、そう水上にこぼした鮎。
「磨けばいいものになる曲も、それはあるわ。でもね、デビュー曲の大切さというのはわかるでしょ」
「はい・・・・」
 未練を残す彼女に、水上は噛んで含めるように説明をした。
「デビューシングルなら、会社も宣伝費を使ってくれる。それで売れなかったら、次からは大幅に
削られるのが慣習なの。だから、失敗は致命傷になりかねない。あなたのできる、最高の一曲で
勝負したいのよ。妥協はしないで。いままで経験したことがないぐらい、集中してやってみなさい」
 そう言って、ポンポンと軽く肩を叩いた。

 デビュー曲。それを夏までに完成させなくてはならない。ギターのネックを握る鮎の手に力が入り、
陶器のような白さが浮き立った。


 彩りの乏しい日々が、6月のカレンダーまでも隙間なく埋めつくしてゆく。
 バイトと、曲作りと、家事を繰り返す時間は、カゴのハムスターがくるくると回している車輪のよう。
 何処へも進めはしないのに、徒労感だけを溜めこんでゆく。
 もう何度デモテープを録っただろうか。
 「曲ができたら持ってきなさい」という沢井の指示があった。
 ありったけの時間を注いで、精神を削り取ってメロディにして、伝えたい想いを乗せて歌った。

 でも、返ってくるのは「使えない」というにべもない判断。
 理由を尋ねても、「これじゃ売れないよ」という返事はましなほう。最初に「こんなのは」と付くことも
珍しくない。
 特に、歌詞が厳しい評価にさらされた。
 「言葉が多すぎる」「意図が伝わりにくい」「もっと会話に使うような表現を」
 タイアップしやすいように、「サビが15秒で収まるように」とまで注文がついた。

 求められるものは多い。
 夏という発売時期に合わせた歌。
 シングル購入層の中心を占める、10代に受ける歌。
 カラオケで歌われやすい、ほどほどの難易度を持つ歌。

 夏向けの歌詞なら書ける。邦彦と過ごした夏を思い出すだけで、幾重にも映像が瞼に映写される
から。

 遭逢。
 新しい水着。
 浜辺で過ごした瞬間。
 防波堤を歩きながらつないだ手。
 つまらないことでしてしまった口喧嘩。
 仲直りして、ずっと花火を見つめていた夜。

 向日葵の香るアルバムには、歌いたい情景がぎゅうぎゅうになって詰まっていた。
 それでも、デモテープは1度再生されただけで短い使命を終えてしまう。

 にべもない却下が繰り返されるうちに、情熱が摩耗してしまったかのように、詞が書けなくなって
きた。

 アルバイトをしていても、料理をしていても、こびりついて離れてくれない焦燥感。
 邦彦が大学で忙しく、逢瀬の機会が限られていることも拍車をかけているに違いない。

 ついには、一つの文字を記すのすら苦痛になった。



 鮎はもともと、作詞は苦手にしていた。あまり文操もなく、活字に親しんでこなかったというのが
主因だと自分でもわかっていた。

 子供の頃はよく本を読んでいたが、読みやすい少女ものの恋愛小説や推理小説ばかり。中学に
なってからは、教科書以外の本を手にすることも希になっていた。国語の成績も、並以上ではない。

 作詞をするようになってから、いつでも専用の手帳を持ち歩き、思い付いたフレーズを書き留める
ようにしてきた。邦彦がそうしているのを知ったから。

 彼は、詩を書く。
 高校での退屈な授業を受けながら、ノートに落書き半分で書き始めたのだと言っていた。
 遠距離恋愛をするようになって、鮎は何年ぶりかに手紙を書いた。
 最後に会ってから、自分に起こったことを。
 琴梨のことを。
 新しく買ったCDのことを。
 一緒にいられない寂しさを。
 心だけにとどめておけない想いを、
 持ち合わせた言葉を尽くしてペンに伝えた。
 そして、書きあがった新曲の歌詞を添えて。

 一週間ほど、郵便受けを気にする日を続けた。
 自分が速達で出したわけでもないのに、投函した翌日にも川原鮎宛の封筒が届いているんじゃ
ないかと。
 もしかしたら、返事がこないんじゃないかと。
 もちろん、返事はちゃんと来た。

 しかし、彼からの返事は違っていた。
 期待に心臓を目覚まし時計のように打ち鳴らしながら封を切り、取り出したのは2枚の飾りのない
便箋。

 1枚目が、初めて触れた彼の詩。

 学校の授業以外で、「詩」を読んだのは初めてだった。
 目を通しながらの感想は、混ぜ合わされた戸惑いと好奇心。
 何を伝えたいのか、何のことを書いているのか、端的に想定できなかった。
 浮かぶのは、色鉛筆で彩った雲のスケッチのような、イメージ。
 会いたいとも、寂しいとも、好きだとも書いてない詩。
 ロマンティックな横文字も、鮎の名前も書いてない詩。

 鼓動の高まりが収まってゆく。
 熱く灼けるようだった胸も冷めゆく。
 なのに、不思議な暖かさが全身に広がっている。
 風も凍るような夜に飲むココアのように。

 2枚目には、邦彦の近況が綴られていた。
 ユーモアを添えた、一転して軽快な文体で。
 デートしている時の彼が、こうだった。
 いつでも、鮎の笑みが途絶えないようにしてくれて。


 早く逢いたいな。
 手紙だけじゃ、やっぱり遠い。


 二人を引き裂く距離を埋める何かを無意識に求めたのだろうか。
 もう一度最初から、「詩」をゆっくりゆっくり読んでみる。
 ひとつひとつの言葉をなぞりながら。
 彼の声を、彼が読んでくれている声と姿と横顔を心のスクリーンに映し出しながら。


 なにもかもが、ぼやけてゆく。
 空と海が重なるように。
 やがて、時間が意味をなくしてゆく。


 魔法にかかる感覚って、こうなのかな。
 寓話のように、小さくなった自分が邦彦の心の世界を歩いている。
 霧の深い森。
 遠くから響くせせらぎと鳥たちの呟き。
 樹々の屋根からこぼれ落ちる、光のリボン。
 彼の幻の全てが、そっと彼女を抱いているのがわかる。

 会いたい。
 寂しい。
 好きだ。

 そう言葉で記されるより、なんて鮮やかに想いを運んでくれるのだろう。
 ペンの持つ、楽器のような表現力に彼女は魅せられた。

 手紙のやりとりは続き、その度に邦彦は詩を贈ってきた。
 鮎は、自分のペンが彼のように多くを伝えられないことにもどかしくてならなかった。
 あたしが彼の心を歩くように、彼にもあたしの心を歩いてほしくて。

 邦彦の詩を真似して書いてみようとしたこともあった。
 でも、2行もすると陳腐な単語が出てきてしまう。
 ボキャブラリーがまるで足りない。
 そのことを痛切に感じた。
 もう大学生で、自他ともに認める読書家の邦彦とは蓄積された国語力の桁が違っている。

 もっと本を読もう。
 そう決意したものの、どんな本を読めばいいのかよくわからない。学校の図書室に足を運んで、
手に触れるまま何冊か借りてみたが、最後まで精読したとは言い難かった。なにより、記憶に残ら
ない。

 地元のミニコミ誌に辛辣な記事を書かれたのも、この頃。
 「自己満足の歌詞」という活字が、無造作に彼女を踏み砕いた。
 自分自身で、満足なんてしていなかったことは慰めにもなりはしなかった。
 まったく詞が書けない日が続いた。

 初めて2人で迎えた冬。
 空港から札幌へ向かう列車で邦彦に聴かせることができたのは、打ちこんだ演奏だけだった。
クリスマスソングなのに、クリスマスを過ぎても歌詞はつけられなかった。「サンタのいないクリス
マス」というタイトルだけが、独りぼっちで揺れていた。

 せっかく会えたのに暗い話はしたくなかった。
 また離れてゆかなくてはならない彼を心配させたくなかった。
 けれど、思い切って打ち明けた。
 ずっと白いままのノートのことを。
 だから、邦彦さんのような詩が書けなくちゃならないと。

「俺は、鮎の歌詞、好きだけどな」
 口にしかけたコーヒーカップをソーサーに戻して、そう答える邦彦。
 ここは函館の喫茶店。ピアノを基調にしたBGMが暖房された空気と一緒にゆったりと流れて
いる。
「それは、邦彦さんだからだよ」
 あたしを好きでいてくれるからそう言うんだと思った。
 カップの取っ手を指で弄ぶ彼。
「そうじゃないよ。俺は、鮎みたいな詩が書けなくて才能の違いを感じてたんだから」
「あたしみたいな?」

 自分の歌に、特徴なんてあっただろうか?
 才能?

「そうだよ。言葉の使い方どうこうじゃないんだ。発想の根本が違ってる感じかな。飛躍があるん
だよ」
 鮎には言われていることが、自分のことではないようにすら思えた。

 飛躍?
 思い付いたことをそのまま歌うからかな。
「まとまりがないってことじゃなくて?」

「違う違う」
 手を振って、笑いながら否定する邦彦。
「俺が書くのはいつも、なんていうか、一つの部屋で完結する小説みたいなとこがあるんだよ。
絵でいうと、印象派ってとこかな。実際にある風景とか感情を、俺なりに解釈してるつもりさ」
 うんうんと頷く鮎。
 確かに彼の詩には物語性があって、読むうちに映画のシーンを連想することもよくあった。

「でもな、鮎の歌には、奔放な広がりがある。ピカソの抽象画みたいに、但し書きなんかなくても、
誰の作品なのかわかって、伝えたいことが飛び込んでくる。そうありふれてない才能だって、本気で
思う」
 もちろん、鮎だってピカソの抽象画は美術の教科書やテレビでいくつか知っている。
 不思議な絵。奇妙な絵。そしてどこか瞳を魅了する絵。
 川原鮎のどこかに、共通する要素が秘められていると、邦彦は言うのだろうか。

「なんか、無理して褒めてない?」
「ピカソのレベルに到達するには、あと70年ぐらいしないと無理だとは思うけどな。あの人長生き
したから。確かに、まだ言葉の種類とか使い方で勉強することはたくさんあると思う。でも、俺の真似
なんかしちゃだめだ。鮎には鮎にしか作れないフレーズがあるんだから」

 自信をそっくりなくしてしまっていた鮎に、邦彦はこう答えた。
 そして、いくつかの本を紹介した。
 薄くて読みやすいけれども、かつても今も、彼の胸に印刷されている本を。


 そうしていくつもの新しい時間を過ごし、やがて年は改まり、冴木邦彦は北の街を離れていった。
また会える時までに、もっと素敵な歌を作っておくねと彼女は約束した。

 CDショップよりも先に、書店へ足を運ぶ日々が始まった。鮎にとって、邦彦が選んでくれた本という
だけで活字を追う目に機械的な退屈さはなくなる。読み終える度に、彼は別のタイトルを教えて
くれるのだが、どれもこれも今まで目にしていなかったのが残念なほどに興味をそそる。眠る前の
数ページのつもりが、最後の章を閉じた時に電気スタンドの明かりではなく暁光が部屋を照らして
いるのに驚くこともあった。バスでの通学中からこっそり授業中にまで、教科書の陰でページを繰る
日々。

 もう一度、作詞にとりかかってみようと思えるようになった。
 蓄えられてゆく言葉が、出口に殺到するように。

 書いてはぐしゃぐしゃと塗りつぶすことも少なくない。本を読んでから浮かぶのは、影響がすぐに
わかる単語。シャープペンシルの先は、とてもフィギィア・スケートのプリマドンナのように滑らかには
動かない。
「苦労の跡を隠すのも、技術だよ」
 そう邦彦が教えてくれた。
 送られてくる手紙を手にする度に、きっと彼もこんなふうに時間と心を費やして書いてくれたん
だろうなと思った。

 進歩している実感もないまま続けたステージでは、オーディエンスの反応が少しずつよくなって
きた。何かに比例しているのか、反比例しているのか。
 ふっと感情がこぼれて涙になってしまった歌詞も、切れ切れになっていた記憶を撚り合わせた
歌詞も、彼女と声を合わせて、歌ってくれる人がいる。

 そして札幌での最後のライブ。
 鮎は鮎だけのフレーズで、満員の聴衆と想いを分かちあうことができたはずだった。

 できたはずだった。


 深夜2時、東京の一室に座り込む鮎。
 濡れそぼってべたつくように疲れた腕を、意図的に加虐するかのようにコードを追い立てる。
 ミスタッチ。
 みじめな余韻だけを響かせて急停止するメロディ。
 喉が灰色で冷たいコンクリートの管になってしまったかのよう。

 歌いたいことが見つからないから。
 歌わなくてはならない理由しかないから。

「もう、わかんないよ・・・・・」


 虚ろに散らばる歌の破片しか、彼女の引き出しには残されていないのだろうか。
 6月の雨が匂う夜に。







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