第4章 ディスクはまだ空っぽ


 引っ越し関係のドタバタもようやく終息し、4月10日、指定された日時に鮎は所属することに
なる事務所へ挨拶に出向いた。改めて、本契約を結ぶのが第一の目的だった。

 上京前に母と選んだスーツとパンプスに身を固め、外苑前の駅で降りる。
「一着くらい、ちゃんとした服を持ってないとね」
 と言われ、用意した服。
 もう制服を着ることはないんだなと、今更のように思う。

 春を告げる強い西風がビルの谷間から駆け出して、いつもよりきちんとしたつもりの髪も
だいなしになってしまった。

 港区にそびえる高層ビル群の一つ。そこにフラットはあった。頭に焼き付けた地図を頼りにして、
予想より容易に「M&Cエージェンシー」の表札を見つけた。

 受付の女性に用件を伝えると、待たされることもなく去年に鮎をスカウトした人が奥から
出てきた。
 諏訪洋(すわ・ひろし)。
 30代半ばで最近ウェストラインとの不利な戦いを続けているという人だ。丸みのある体型に、
丸く髭の濃い顔。イメージは狸だ。間違っても口には出せないが。
「やぁ、時間通りだね。大変結構。この世界は時間にルーズでも構わないなんて思われがち
だけど、そうじゃないからね。引っ越しは終わったか?」
「はい。もう落ち着きました」
「よし、じゃこれから説明しなきゃいかんことが山ほどあるから、ついてきて」
「はい」

 事務所の入り口近くの廊下には、所属するミュージシャンの写真が並べて貼られていた。
よく知らない人やバンドが多かったが、これから先輩になる人たちのことなのだから、よく憶えて
おこうと心にメモする。擦れ違う人に会釈をしながら歩き、小さな会議室のような部屋に通された。
 パチンと照明を入れ、
「じゃ、座って待ってて」
そう言い残して、諏訪は出ていった。
 ほどなくしてコーヒーが3人分、女性社員の手によって届けられた。
「どうぞ」と言われても、気軽に飲めるほどリラックスできてない鮎は硬直したように背筋を
伸ばしてただ待っていた。きょろきょろしているのも下品かと、ちらちらと室内を視線で探る。
テレビドラマなんかで出る、一流企業の会議室とそっくりだ。これから、何をするんだろう。


 5分も待っただろうか。
 かちゃりとドアが開き、諏訪さんと、会ったことのない若い女性がフォルダや書類を手に入って
きた。立ち上がって挨拶しようとする鮎を手で制し、女性が鮎の左前に、諏訪さんが右前に
それぞれ腰を下ろした。

 いかにもキャリア・ウーマンという印象に加え、鮎が羨ましく思うほどの端麗な顔立ちの女性が
口を開いた。
「川原鮎さんね。私は水上秋恵(みなかみ・あきえ)。あなたが契約した場合、マネージャーを
やることになってるわ」
 そう言って、さっと名刺を渡す。
 どぎまぎと、
「あの、よろしくお願いします」
と応じるのがやっとの鮎。
「まだ決まったことじゃないのよ。あなたが契約して始めて、ミュージシャンとマネージャーという
関係になるの。これから契約の細部について説明をしますから、そこで改めてあなたの意志を
確認して、契約書の内容に同意したら、サインをしてもらうわ」
「はい」
 ただ反射的に答えた鮎の瞳を、彼女は鋭く見据えて続ける。
「いい。これはとても大事なことなの。こちらにとっても、あなたにとってもね。だから、疑問に
感じたことは遠慮せずに聞かなくちゃだめよ。友達とする約束とはわけが違うってことを念頭に
置いて、判断をすること。いい?」
 ゆっくりと噛みしめるような口調。
 もう子供でも高校生でもないという現実を、鮎は初めてぴりぴりと肌で感じた。
「はい」
 張り詰めそうな空気を、諏訪さんの声がほぐす。
「まぁ、堅くなることはないから。遊び半分では困るよってことだからね。さて、それじゃ私の方から
始めるよ」

 それから改めて会社の沿革からブリーフィングが始まった。会社創立以来の主だった業績。
現在の業務内容。経営実績。所属しているミュージシャンの活動。
 鮎は渡された資料を手に、真剣に説明を受けた。

 そもそも音楽プロダクションという組織は、ミュージシャンを所属させ、活動を支援する存在で
ある。
 混同されがちなのが、レコード会社。こちらは、CDの制作・販売を主な業務にしている。

 まずプロダクションがミュージシャンの楽曲制作に協力し、CDにする。これを売るために宣伝・
広告をし、全国に送り出すのがレコード会社だ。

 かつてはレコード会社自体が下部組織としてプロダクションを持ち、一切を取り仕切っていた。
それに対するミュージシャン側の反発があって、事務所が別に設立されるようになり、現在では
レコード会社のプロダクションと別組織のプロダクションが並立している。

 「M&Cエージェンシー」は、別組織の方になる。こういうことは既に鮎も両親も説明を受けて
いた。

 続いて契約書の文面についての解説。甲や乙といった見慣れない言葉に加え、法律用語も
使われた契約書の1行1行を、水上は丁寧に説明してくれる。所々に諏訪が注釈を入れる。

 契約年数は2年。
 月給制となる。
 この間に会社の要請に従い、4枚以上のシングルと2枚以上のアルバムを作成すること。
作成は会社が整えた条件の中で行う。契約期間中に制作した楽曲に付随する権利は原則として
会社とJASRACが保有することになり、約1%ほどの印税が契約者(鮎のこと)に与えられる。
さらに契約者は会社の求める宣伝活動に従事し、会社の認めない音楽活動を行ってはならない。

 この他にも福利厚生関係などの様々な条項が数枚の用紙にびっしりと印刷されていた。

 鮎が引っかかったのは、『会社の認めない音楽活動』という部分だった。どういうことなのだろう。
「具体的に、駄目なことってなんですか?」
「そうね。政治的なことはまず駄目と思って。勝手に原発反対の集会に出て歌ったりされると
困るの」
 特別な主義主張などないつもりの鮎だったが、すぐに納得はできない。
「そういう曲を書いてもいけないってことですか?自由に曲を作れないのは、ちょっと・・・」
「何かに偏向したような楽曲は、あなたが作っても収録に至ることはまずないわ」
「えっ?」
 冷厳ともとれる口調に、驚きが声に出てしまった。
 しかし、水上は意に介する様子もなく続けた。
「この会社には、あなた以外のミュージシャンもいるでしょう。原発の例だと、中には電力会社の
CMとか、電力関係の企業が協賛してるイベントに出る人もいるかもしれない。そういう人に
迷惑がかかるの」

 暫し、彼女には話されていることの意味がわからなかった。あたしが問題になる歌を歌った
からって、どうして他の人まで巻き込むことになるんだろう。
「仕事をキャンセルされたりすることになるんですか?」
「ええ。代わりの歌手はいつだっている。うちのような会社だってね。ひどい時は出入り禁止に
なるわ。そういうトラブルを避けなくてはならないの」
 所属する人間の責任は会社に及ぶ。
 大人になったばかりの鮎には、馴染んでいない考え方だった。
 プロの理想として抱いていたのは、完全に独立していて、才能と実力だけで評価される世界。
でも、現実はそうなのだ。
「わかりました」

 さらに実例を挙げ、水上は説明を続けた。
「あとどんなメディアでも、会社の許可無しに出演しては駄目。たとえ無報酬でも。知り合いが
紹介してくれたからって、ラジオに飛び入りで出演するとか、母校の学園祭で1曲歌うだけでもよ」
「友達に聴かせるだけなら、いいんですよね」
「それならね。つまり公開の場での、不特定多数を対象にした活動のことだから」
 思ってもみなかった制約の多さに、戸惑いを隠せない鮎。
 歌いたいことを、歌いたい時に歌えないのだろうか。

 雰囲気を看取したのだろう。いくらか和らいだ声調になる水上。 
「厳しいようだけど、これは会社の利益だけじゃなくて、プロとしてのあなたの権利を守るためでも
あるの。あなたがどこかで演奏して、勝手に録音されて市場に出回ったりするのを防いだりする
ためにね」

 確かにそう。鮎も海賊版の問題はわかっている。プロになる以上、こういったことは当然のこと
なのだ。ミュージシャンは王様のように自由ではないけれど、いい音楽はそれでも作れるはず。
そうだ。これも聞かなくちゃ。
「あと、CDを作る時の『会社が設定する条件』というのはどういう意味なんですか」
「具体的には、会社がプロデューサーを選んで、スタッフやサポートミュージシャンから制作期間、
作品そのものまでその人が監督することになるわ。もちろんあなたの意見を聞いて選任する
けれど、最終的な決定権はこちらにあるということよ」
「・・・・・」
 とっさには返事が出ない。
「不満のようね。それはわかるわ。でもね、こちらは予算の範囲内でしか仕事ができないの。
あなたが望んでも、相手にそれだけの報酬が出せなければ依頼できないのが現実なの」
 言われると、もっともなこと。
「そう、ですね」

「あと、これは契約書に書いてないけれど、あまり風貌を変えるようなことをしないでほしいの。
髪を染めたり、真っ黒に日焼けしたり、タトゥーを入れたりね。あなたがうちの所属になれば、
計画を立ててあなたをPRしていくことになる。イメージをころころ変えられると台無しになりかね
ないの」
 これは抵抗を感じることもなかった。もともとスタイルを気軽に変えたりすることはなかったから。
入れ墨なんて、絶対にしない。
「あとあなた、交際している男性はいるの?」

 意表を突く質問に、思わず水上と諏訪の顔をまじまじと見てしまった。
 真剣に、仕事の一部として尋ねているのがわかった。
「あ、はい、います」
 嘘をついてもしょうがない。
「一応聞くけれど、ちゃんとした人なの?暴力団とかと関係があったりしないわね」
 やはり音楽も芸能界の一部だということなのだろう。普通の会社に入るのに、こんなことを心配
することはまずないこと。
 もちろん、冴木邦彦は無関係である。
「ないですないです。全然そんなの。普通の大学生です」
「ならいいの。あとあと問題になったりしければね。派手な形の交際でなければ、こちらから
干渉はしないわ。あ、でも妊娠には気をつけること。理由はわかるわね」
 鮎が恥ずかしがる間もなく、さらりと言う水上。
 ただ黙って頷くしかない鮎。
 そして彼女は広げていた書類をまとめ、テーブル上を整え、フォルダをぱたんと閉じる。
「さ、これで一通りの説明は終わりよ。質問は?」
「もう、ないです。よくわかりました」

 水上は一層改まった態度になり、これまで検討してきた契約書を鮎の前に提示した。
「では、確認するわ。あなたは、この契約書に則り、当社と契約を結びますか?」

 夢。
 憧れ。
 楽器といえば、リコーダーぐらいしか使ったことのなかった小学生の頃、初めてなりたいと
思ったもの。
 いつも無理だと言われた。
 いつもからかわれた。
 いつも諦めろと。
 これでもう、そんなこともなくなる。

「はい」

 契約書の左下に、ボールペンの先で触れる。
 迷わず、「川原 鮎」とサインした。
 そして押印。

 諏訪さんと水上さんの手元に、すっと契約書を差し出す。
 二人が立ち上がり、右手を差し出した。
「ようこそ、M&Cエージェンシーへ」
「これから、よろしくね」

「みんな、ちょっとこっち向いてくれ」
 スタッフの机が並ぶ大きなフロアに、諏訪の張った声が響く。
 書類にかかっていた者も電話をしていた者も、その動きを止めて注目する。
 水上が鮎の背中を軽く押し、一歩前へと出す。
「今日からうちの所属になる新人よ」

「川原鮎です。みなさん、よろしくお願いします」

 こうして彼女は、プロになって初めての拍手を受けた。







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