第3章 彼女の楽譜


 前日に続き、晴れ渡った4月の朝は鮎を早起きさせた。
 精神が高ぶって浅い眠りになってしまったが、就寝も早かったせいでいつもはつきまとう眠気も
枕の裏に打ち捨てておける。

 さほど高級そうではない絨毯が張り付けられている床を歩き、窓辺へ向かう。
シャッ!とレールを滑るベアリングの音も軽やかに、白いカーテンを一気にシールの端へと
追いやると、新しい太陽がガラス越しに鮎を照らし出す。
 裸足のままベランダへ。
「う〜ん」
 両腕をくの時に曲げ、そして天へと突き上げて伸びをする。
 札幌では、この時期の朝はまだ寒い。
 でも、ここではそうじゃない。
 冷たさよりも爽やかさを先に感じるのも、新鮮な感覚だ。


 見下ろすと、出勤してゆく背広姿の男性とスーツ姿の女性の列が
 路上に続いているのが見える。
 耳を澄ますと、電車がレールの継ぎ目を拾う音が届く。
 昨日は気づかなかったことだ。
 2割ほどを雲に譲った青空に、追いかけっこをする翼と翼。
 あれはなんて鳥だろう。

 生きてゆくために、満員電車に詰め込まれてゆく地上の人々。
 宙を舞うことで生きてゆく名もなき鳥たち。
 その間に立っている川原鮎。

 すべては、これからのこと。


 10時過ぎには荷物が届くはずだ。その前に彼も手伝いにくる。それまでにちゃんと部屋を
整理して、身支度をして、朝食を買ってきて済ませてと、することは多種多様。どれからはじめよう
かと思案しだしたところに電話が鳴った。
「はい、んんっ、川原です」
 朝初めての声だったせいか、かすれてしまった。
「俺だよ。冴木。ちゃんと起きてたか?」
「うん。おはよう」
「じゃ、10時前にはそっちに行くから」
「わかった。待ってるから」

 コンビニでおにぎりとお茶を買い、戻ってきたところで再び電話。今度は引っ越しの業者から。
時間と住所の確認の電話だった。問題無し。

 それから、ちょっと気がかりな用事がある。
 隣人への挨拶だ。
 下の部屋は空き部屋で鮎の部屋は端なので、一軒だけでいいのだが。
 どんな人だろうといささか腰が引けながら、表札に名前のない部屋の呼び鈴を押した。
「はい」
 女性の声だ。それ以上のことはわからない。
 インターホンに顔をくっつけんばかりに寄って、言う。
「あっ、あの、私、隣に越してきたものなんですけど」
「隣に?あぁ、はいはい」
 ぱたぱたと、スリッパの足音のような音がかすかに近づき、扉が開かれた。

 姿を見せたのは、鮎より少し年上のような女性。
 綺麗な人で、どこか圧倒されてしまった。
「あの川原、鮎といいます。昨日から、ここに住むことになりました。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる。
「はい。こちらこそ」
 長くつややかな黒髪をかきあげながら応じる女性。
「それで、今日荷物が届くんで、うるさくなるかもしれませんけど」
「そうなの。わかったわ。あ、あたしは宮本未来。未来って書いて『みく』って読むの」
 そう言って微笑む彼女に、鮎の不安は解消されてゆく。
 優しそうな人でよかった。そう安堵する鮎に彼女が尋ねた。
「あなた、ここに住むってことは、音大なの?」
 もっともな疑問だ。このマンション最大の特徴は、部屋にピアノなどを入れて演奏してもいいと
いう点なのだ。この街には昔からいくつかの音楽関係の学校があり、防音対策のとられた住居が
珍しくない。鮎がこの街を選んだ理由のひとつだ。

「いいえ、プロとして契約したばかりなんです。普通の高校を出ただけで」
 鮎が自分をプロだなんて説明するのは初めて。どこか恥ずかしいのは、自覚が備わっていない
からだろう。
 それでも宮本さんは感心したようだ。
「そっか。プロなんだ。すごいのね。あたしはこの近くの音大に通ってるの。ピアノをね。
あなたは?」
 ピアニスト。そんな響きが似合う上品さが、言葉の端にも窺えた。
「ギターとボーカルです。まだ下手なんですけど」
「ここなら、まず音は洩れないから安心して練習するといいわ。音楽をやる者どうし、仲良く
しましょうね」
 すっと右手が差し出された。慌てて握手する鮎。雰囲気と違って、厚みのある手のひらだった。
腕を動かして、脇に抱えていた箱の存在に思い至った鮎。ちゃんと渡さなきゃ。
「あのこれ、田舎のお土産なので、どうぞ」
 挨拶用に買った、地元のお菓子。
「あ、北海道なんだ。ありがとう。もしわからないこととかあったら、気軽に聞いてね」
「はい。では失礼します」

 部屋に戻り、安堵のため息をつく鮎。
 やがてドアベルの音がした。
 彼だ。

「おはよう。邦彦さん」
 また好きな人と一緒にいられる一日の始まり。
 自然とにこにこ顔になって、彼を出迎えてしまう。
「おはようさん。昨夜一人で住んでみてどうだった?心細くなっただろ」
「へ、平気だよ。子供じゃないもんね」
 よくわかる見栄。
「お化けとか出なかったか?ここは昔からなぁ・・・」
 からかい口調の彼。
 恐がりの彼女も、こういう冗談にはもう慣れている。
「う〜ん、いま来たのを除けばね」
「・・・帰るぞ」
 邦彦は玄関へ戻るふりをしてみせる。
「あはは、待ってよ。」
 腕に抱きついて鮎は引き留めた。

 本日の予定。
 札幌から届く荷物の受け取りと、家具や家電の購入。そしてその整理。なかなかの肉体労働に
なりそうだ。

 そうこうするうちに、業者がやってきた。作業服姿の2人のスタッフがてきぱきと、トラックの
荷台から鮎自身がガムテープで封じた箱を担いでくる。ベッドのような大きな家具がなかったこと
もあり、搬入には1時間もかからなかった。
 鮎が箱の数と中身に違いがないか確認している間に冴木は自販機で缶コーヒーを2本買って
きておいた。
「これで完了でよろしいですか」
 いくらか息を切らせた業者の男性に、
「はい。ご苦労様でした」
と応じ、ハンコを押した受領証を渡す鮎。
 帰ろうとする男性に冴木が、「これ、車の中で飲んでください」とコーヒーを差し出した。
「あ、これはどうも」

 ベランダから、走り去ってゆくトラックを見送った彼女と彼は、まずは家具を買いに出た。
女の子らしく、機能以上にデザインや色にこだわりたい鮎だったが、予算の範囲もあり平凡な
ものを選ぶしかない。
「このベッドいいなぁ。デンマーク製?わっ!やっぱり高いね」
 座ってそのハイソな感覚を味わってみる鮎。いかにも寝心地のよさそうなクッションはきしりとも
安っぽい音を立てない。
「ね、邦彦さんも座ってみなよ」
 ぱんぱんと隣を叩く。
彼は呆れてため息を洩らす。
「こんなでかいの、置けないだろそもそも。ドアから入らないぞ」
 そして腕時計を見る。
「わかってるよ。ただ、いいなぁって思っただけ」
「ベッドはもうあれに決まったんだから、ライティングデスクと椅子を探すんだろ。1階にあるから
行くぞ」
「うん」
 そしてくすくすと笑う鮎。
「なんだよ」
「なんか、新婚夫婦みたいじゃない?」
「そうかぁ?そんな大人っぽく見えないぞ」
 そう一笑に付して、さっさと階段へ足を向ける彼。
 追いかけて、腕を取る。
「照れたんでしょ」
「知らん」

 続いて家電店へ。国立には安い量販店がないので、電車で一駅の隣の立川市に行く。
炊飯ジャーや電話機から掃除機まで一つの店で揃えてしまう。電子レンジよりオーブンレンジが
いいと言い出す鮎を「どうせ使いこなせない」とあっさり退ける冴木。
 必要な物の手配が一通り終わり、遅い昼食を取ってからマンションに戻る。

 それからが大作業だった。
 荷物が届くたびに梱包や紐を解き、配置して札幌から旅をしてきた物々を並べて片付けてゆく。
いくつかの家具は組立式で、説明書に二人で額を集めドライバーとねじで格闘しなくてはならな
かった。
 大量に出るゴミに閉口しながら、日もすっかり暮れた頃にようやく「空間」が「部屋」へと進化して
きた。
「あっち向いてて」
「なんでさ」
「この箱は駄目なの」
「だからなんでさ」
「・・・下着が入ってるの」
「・・・わかった」
 こんな会話も交じえながら、一つずつ箱が空になり玄関先に畳まれてゆく。ステレオやビデオ
デッキを配線し、時計を合わせ、テレビのチャンネルを設定するのは邦彦の仕事。鮎は限られた
スペースをうまく使おうと収納に頭をひねる。
 最後に新品の掃除機も始動させてお掃除。
「これで、完了だね!」
 まだ飾りっ気もないが、こうして川原鮎は自分の居場所を作り上げた。
 昨日と比べて、想像以上に狭くなってしまっている。
 使い慣れたものと馴染みのないものが、まだぎくしゃくと自己主張している部屋。
 やがては刺激のない、空気のような光景として彼女を包むのだろう。

「ね、疲れた?」
 壁に背と後頭部を預けて座る邦彦に尋ねる。さっきから何度もゴミを捨てるために階段を
往復していたのだ。
「ちょっとだけな。終わったら、力が抜けたよ」
「じゃ、何か飲物買ってこようか?」
「いや、まだいい。それより」
 彼は部屋の角に立てかけられた2つのギターケースを指さした。
「一曲聴かせてくれよ。疲れを忘れるようなのを」
「うん、いいよ。何がいい?」
 椅子から立ち上がり、楽器に手を伸ばす。
「鮎がいま、感じてること。最初に浮かぶ歌。それがいい」
「最初に?それじゃ、やっぱりこの歌かな」
 ケースを取り、蓋を閉じているクリップを外す。
 ベッドに腰掛け、瞼を閉じる鮎。
 邦彦も、緩やかな空気の流れに任せるように暝目する。
 どちらにとっても聴きなれたイントロが奏でられる。

 去年1年、アルバイトして買った新品のギターもある。
 これからのために、プロになった自分のために買ったギター。
 でも、今夜はしまっておこう。
 今はこの、練習用の古いギターが弾きたい。

 真夏の大通り公園で紡がれたメロディ。
 まだあの時は音符にすらなっていなかった。
 歌手になりたい。
 それは、海原の彼方にある新大陸のような夢。
 どこをどうして航海すれば、たどりつけるのかもわからない。
 わかっているのは、海が障害に満ち容赦のないところだということだけ。
 一人だったら、足を踏み入れる勇気なんて出なかった。
 あのコンテストもそう。
 最初は、見に行くだけのつもりだった。

 曲も歌もなかったから?違う。

 恥ずかしかったから?違う。

 自信がなかったから?そうじゃない。

 本当は、夢に挑むことで、現実をあからさまにするのが恐かったから。

 夢が夢のままならば、いつまでも持っていられる。
 いつかきっと。
 そう思い続けていられる。
 無理だよと言われても、やってみなくちゃわかんないと答えられる。

 いじめられ、孤独だった川原鮎にとって唯一の支えだったもの。
 音楽。
 それすらも失ったら、残るのはただの臆病な泣き虫。
 かつていじめられて、今はいじめられていないだけ。
 「誰かにとって価値のある歌なんて歌えない」
 そう現実に宣告されるのが恐ろしくてならなかった。

 そんな時に、鮎は彼と出会った。
 どこか愁いを含んだ容貌が印象的だった。

 高校に入ってからずっと、友達を作ろうと積極的に振る舞った。
 テニス部に入ったのもそんな理由。
 友達の友達にも、明るく話しかけるようにしてた。
 いじめられたくないから。
 グループの一人でいたいから。

 でも、琴梨と一緒にいた彼に声をかけたのは、そんな習慣化された計算があってのことじゃ
なかった。
 最初はもちろん、琴梨の彼氏だとばかり。
 そして、親戚の人だという答えにほっとした自分に気がついた。

 恋に落ちる瞬間。
 それまでに聴いたラブソングの意味が初めてわかった。
 あたしが歌にしたい人が、いまここにいると。

 デートを重ねるほどに、再会のために別れなければならない辛さが胸を灼いた。
 一緒にいられない時間に、琴梨が彼の側にいることに理不尽だとわかっていながらも嫉妬した。
 そして、待ち合わせ場所に立つ彼を見つけると足が勝手に駆け寄っていくようだった。

 そして思った。
 借り物じゃない、川原鮎だけの歌を彼のために作りたいと。

 二人でいた時間を思い出すだけで、覚えたてのギターは鮮やかな記憶にBGMを流してくれた。
苦手な作詞だったのに、ペンがノートから離れる瞬間すらもどかしく感じられるほどに、止めようも
なく言葉が溢れた。

 メッセ・ホールのステージ。
 照明のカーテンで見えない客席に彼がいることを信じて歌った。
 「大好き」と。

 そして、東京にいるこの瞬間も。







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