第2章 セレモニーのない記念日


 この日の鮎と冴木邦彦には、互いの愛情を確認する以上にやらねばならいことが山積していた。
鮎の実家から荷物が届くのは明日の午前。とにかく今夜必要になるものはすべて購入して
おかなくてはならないのだ。布団一式からトイレットペーパーのような細々としたものまで多種
多様、そして膨大になる。
 さらに電気、水道、ガスなどの手続きも。
 のんびりと再会の喜びに浸ってはいられない。
 再び彼女達は街へ出た。

 最初に訪れたのは市役所。
 住民票の移動のためだ。
 さほど待たされることもなく、あっさりと転入届は受理された。
 転出届けを出した時は、母と一緒だった。
 今は彼と。
 これで鮎は、川原家の一人ではなく、自宅の主になった。実感は涌かないが、もう親がかり
じゃないんだという変化だけは理屈でわかった。

 地理に不案内な鮎には地元の邦彦が頼もしい。この国立という街には、よくある大型
ショッピングセンターに該当するものがない。個性的な小売店が放射線状の通りに沿って軒を
連ね、そこには非現代的な趣がある。買い物の楽しいところなのだが、今回の鮎のような
ケースでは必ずしも便利ではないのだ。
 日も暮れかける時間には、狭い歩道を両手に何種類もの袋を持って歩く二人がいた。

 さすがに布団や枕は担いでいない。夜までにお店がすぐに使えるようにして運送してくれる
ことになっている。配達先を伝票に書き込むのに、まだ住所を憶えていない鮎はいちいち手帳を
見なくてはならず、彼にからかわれた。

 ようやく新居に戻ると、冴木はフローリングの床に座って足を投げ出している。
 ひとまず缶コーヒーを開け、彼に差し出す鮎。
「重かったでしょ。ありがとね」
 長距離の移動で疲れているであろう彼女を気遣って、冴木は重い荷物ばかり持っていたのだ。
ごくごくと一気に半分ほど喉に流し込み、
「いいってことよ」
と微笑む彼。
「それより、もう全部揃ったんだろうな」
 鮎は買った物を床に並べ、一つずつ指を差して確認する。
「多分ね。蛍光灯に、歯ブラシに、あれと・・・・・でもなーんか忘れてるような」
と、首を傾げて悩む。
「しっかりしろよ。今日からなんでも自分でやってかないといけないんだからな」
 邦彦は、今は実家で一人暮らしをしている。つきまとう煩わしさはすべて経験済みだ。
「今朝、お父さんに同じこと言われたよ。やっぱ実家って楽だよね」
 彼の側に座り、そう言って鮎はくすっと笑った。
 組んだ両手を枕にごろりと寝転ぶ彼。
「これから毎日そう思うようになるさ。まずは料理を覚えないとな。琴梨にレシピ貰ったんだろ」
「なるべく簡単なのをね。琴梨ん家で練習もしたんだよ。あの子が作ると簡単でおいしくできるん
だけど」
「自分でやると、そうじゃないか」
「・・・残酷なまでに」
 ふと目が合い、同時に吹き出す彼ら。
「楽器と同じ。練習だよ。いくらでも試食係は務めるからさ」
 ひとしきり笑ってから、そう邦彦は慰めた。

 それからは電球を付け替えたりカーテンを張ったり、運ばれてきた布団を運んだりとまた
忙しくなった。とりあえず一晩を過ごせるようになった時にはもう午後7時になりかけていた。
「じゃ、夕飯食べにいこう」

 邦彦が案内したのは、この地域では有名だという小さなレストランだった。こうして食事をする
のも、3ヶ月ぶり。二人きりということになると、去年のクリスマス以来になる。鮎はアパート探し
などで上京もしたが、両親と一緒ということもあって会ってはいられなかった。
 一方冴木は大学の春休みの大部分を利用してアメリカを旅行していたのだ。


「鮎の独立記念日に」
 料理をオーダーすると、冴木はポケットから小箱を取り出して鮎の前に置いた。
 お菓子でも入っていそうなぐらいの大きさ。
 厚い筆箱が連想された。
 包装されてはいるが、なんの飾りもない。
 持ってみて、意外に重たいのがわかる。
「開けていいでしょ」
 頷く彼と小箱にかわるがわる目をやりながら、鮎は爪でセロテープを剥し包みをほどいた。
柔らかい木、ラワン材とかパイン材とかいうのだろうか、それでできた箱には、英語の文字と
簡素な装飾がされていた。
 喉元に好奇心が溢れ、逸る気持ちのまま彼女は蓋を取る。

 テーブルの端で二人を照らす夕日色のキャンドルライトが、箱の中できらりと反射した。

 それはブルースハープ。
 フェルト地の打ち張りのなかにそっと座って、鮎が手に取るのを待っていた。
 しばし柔らかなステンレスの曲線に見とれてしまう彼女。指紋をつけてしまうことにためらいを
抱きながら、両手で端の方をつまんで持ってみた。
「すごく綺麗・・・」
 ため息混じりの言葉が洩れる。
 やっと目を贈物から上げると、ずっと見つめていたらしい彼と視線が通いあった。
「ありがとう、邦彦さん。あたし、すごく気に入ったよ」
 そしてそっと箱に戻す。
 でも、まだ蓋は名残惜しくて閉じられない。
 鮎の喜ぶ姿に満足したように、「旅先で買ってきた」と、説明する彼。
「これって、高いのでしょ。アメリカでも。大事にするね」
 ブルースハープは只のハーモニカとはだいぶ違う。一般的なものは3000円ぐらいだが、良い
ものになると万単位の値段になる。鮎も札幌の楽器店で、ショーケースのガラスに隔てられた
高級品を羨望しながら手ごろなものを買っていたのだ。
「大事にするのはいいけど、いつか聴かせてくれな。演奏をさ」
「うん。約束する。ブルースハープ使う曲ができたら、最初に聴いてもらうから」
 邦彦の記憶が甦る。

 ニューオーリンズの楽器店。
 都会の隅、南部らしい赤土が風に乗って届くような外れ。
 小さい店だった。
 グレイハウンド・バスの待ち時間を潰そうと入った。
 壁には古びたジャズメンのポスターと、サイン入りの写真が壁紙代わりのように何枚も、
煙草の煙で色褪せることなどには無頓着に、無造作に画鋲で留めてあった。
 店の奥には、客からの預かり物だろうか。
 弦楽器を修理している白髪の職人がいる。
 大きなバックパックを背負う東洋人を気にする様子もなく、黙々と弦を張る音が響く。
 店主らしいのは、真っ黒い肌を太鼓の皮のように突っ張らせた巨漢。NBAの中継に釘付けだ。
やがて声をかけてきたのは、CMになったかららしい。
「何か探してるのか」
「いや、バスを待っています」
「そうかい。じゃ好きにしてな」
「ありがとう」
 やがて再びCM。
「ジャズやるのか?」
「僕はやらないです。恋人は、ギターをやるけれど」
「ほう。それじゃギターの一本も土産にどうだ」
「重くて大きいから、持てません」
「じゃ、こいつなんかいいんじゃないか」
 棚から取り出したのが、あのブルースハープ。
 勧められるままに手にして、残り少ない金を払ったのは、ニューオーリンズの魔力だったのかも
しれない。
 ここは、アルコールと紫煙の渦巻く夜にジャズが生まれた都市。
 これを鮎に渡すことで、音楽の原点の空気が伝えられるような気がしたのだ。

「本当は、目覚まし時計にしようかと思ったんだ。誰かさんがデートに遅刻しないように」
 本音を伝えるのは、苦手だ。


 食事を終えると、彼はそのままアルバイトに向かった。
 また明日な、と言い残して。

 部屋に戻った鮎は、初めてこの部屋で一人になったことに気がついた。がらんとした空間は、
孤独感をひたすらに高める。
 防音された窓と壁からは街のノイズも届かない。
 両親以外に家族のなかった鮎にとって、家に一人でいるということは珍しくもなかった。親戚の
不幸などがあると、鮎だけが留守番することもあった。そんな夜に、寂しいと思ったことなど
なかった。
 一人暮らしもその延長に過ぎないはずなのに、
 明日になれば、朝になればまた彼とも会えるのに、
 群れからはぐれた羊になってしまったようだった。

 上着も脱がないまま、取り出したのはPHS。
 布団袋に包まれたままの布団に飛び乗り、うつぶせのまま相手が出るのを待つ。
「はい、川原です」
 やっぱり、最初はここにかけてしまう。今朝見送られて出てきたばかりなのに。
「あ、お母さん。あたし、鮎」
「あらあら、ちょうど今お父さんと話してたとこなんだよ。お父さん。鮎からよ」
 今日は澤登の定休日。仕事以外に趣味の少ない父は、やっぱり家にいた。
「え・・・っとね。とりあえず今日は落ち着いたから、電話してみたんだ」
 寂しくなって、とは言えない。心配をかけるばかりだ。
「東京はどうだい。今は、自分の部屋なんだろう?」
「うん。あたしの部屋。少しこの街のこともわかってきたかな。買い物したりしたから。やっぱり
札幌より、なんか小さくて狭い感じがするよ。どことなくね」
「やっぱりそうなんだねぇ。お母さんは部屋探しにつき合っただけで、くたびれたから。部屋は
狭くないかい?」
 つられて見回してみる鮎。
「まだ家具もないから」
「いろんな手続きとかはきちんとしてきた?」
「電気とかは。ここの電話が使えるようになるのは、来週になるって」
「そうかい。それじゃ、あ、お父さんに代わるよ」
「うん」

 しばしの間。そしてぶっきらぼうな口調が響く。
「鮎か」
「お父さん。無事到着したよ」
「そうか。それならいい。ちゃんと食べて、休む時は休むんだぞ」
「うん」
「夜中にふらふら出歩くんじゃないぞ」
「うん」
「会社に挨拶に行く時は、ちゃんとした格好で行くんだぞ」
「うん」
 今朝も昨日も言われたこと。でも、受話器を通して言葉以上の気持ちが伝わってくる。
きっと、もっと言いたいことがあるんだろう。
 はっきりと言葉にできない不器用さ。
 でも、ちゃんとわかる。
「それと、その、もう・・・」
「ん?」
「い、いや、いいんだ。体に気をつけるんだぞ。俺は、風呂に入るから母さんに代わる」
 なにか慌てたように、そう言いおいて話が途切れた。
「あ、うん」
 首を傾げるうちに、母が出た。
「どうしたの、お父さん。なんかおかしかったよ」
 ふふっと押し殺した声で笑う母。
「あれはね、彼氏に会ったのかどうか気になってるのよ。あたしに、聞いておけ、なんて言って
出ていっちゃったわ。出る前はじりじりして、早く代われって突っついてた癖にね」
 ごろりと仰向けになって、鮎も笑い声をあげた。
「あっははは。そっか。もう会ったよ。な〜んて知ったら、お父さん嫉いちゃうかな。プレゼントまで
貰っちゃった。明日、引っ越し手伝ってくれるって」
「甘えてばっかりじゃだめよ。優しい人だからってね」
「うん」

 それから母が電話代を心配するまで、5分ほど話をして通話は終わった。それからも次々と
高校時代の友達へとダイヤルした。あいにく琴梨だけはつながらなかったが。そうしていくらか
元気を取り戻した鮎は、荷物の整理などをしてから入浴した。
 その前に部屋中の鍵を点検するのを忘れずに。
 ユニットバスなのは、東京の土地事情からはやむをえない。トイレとお風呂が一部屋にあると
いうのにまだ抵抗があるが、こういうことにも慣れていかなくてはならない。
 さっき彼と買ったばかりのボティブラシにボティソープ。
 初めて使うバスカーテン。
 なにもかも包装を破ったばかりの新品。
 「生活」というものの始まりを感じる彼女だった。

 その夜、鮎は部屋の真ん中に布団を敷いて就寝した。
 こんなことができるのは、きっとこの日だけだから。
 枕元に、ブルースハープを置いて。







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