第1章 スタート・ライン


 春は、東京に夢と大きな鞄を抱えた人々が溢れる季節だ。
 4月の風が肩を撫でる駅のホームに、そして空港に。
 川原鮎も、そんな一人。

 高校の卒業式は、ついこの間のこと。
 雪の残る校門で卒業証書を手にして撮った写真は札幌の部屋に残してきた。
 あの日を最後にしまわれた制服と一緒に。

 みんなと遊んだ最後の夜。
 涙は見せないつもりだったけれど、どこかでわかっていたように堪えることはできなかった。
 琴梨や友達と別れるのに、笑顔だけでは足りなかった。

 長い長い説得を重ね、ようやく父に認めてもらった上京。
 もう後戻りはできないけれど、札幌に残してきた思い出はいつか取りに戻ろう。そう彼女は
決めていた。

 羽田空港からモノレールと電車を乗り継ぎ、降りたのは国立の駅。
 この街の小さなマンションに住むことになる。
 契約をしたレコード会社の担当者からは、もっと都心に住んだ方がいいと言われたが、ビルに
よって鋭角に区切られた空には、容易に慣れることができそうもなかった。

 札幌だって大都会だった。
 でも、水も空気もあんなに汚れてはいなかった。
 自分の毎日の置き場所にしたくないとわがままを通した。
 理由は、それだけじゃなかったけれど。

 ひとまず駅前の不動産屋へ行き、鍵を受け取る。
 ステンレススチールに刻まれた不規則な溝。
 これで開くドアの向こうには、なにがあるんだろう。





 札幌の小さなライブハウスで演奏を続けていた鮎に、デビューの声がかけられたのは3年の
夏だった。東京のあるレコード会社の人が、話を持ち込んできた。

 メッセ・ホールでのコンテストではいい結果を出せた。
 踏み出すことすらできないかと思っていた一歩。
 それができたと思った。
 この道を歩き続けていけば、きっとそこに夢があると。

 だからといって、それがすぐ音楽的な成功をもたらすわけではなかった。市内のライブハウスで
演奏を続けていても、客席はなかなか埋まらず空席が目立った。

 まだ新米の鮎は、いつも順番が最初のほう。
 つまりは前座た。
 報酬は時には片手で数えられるほどの観客からの、気のないまばらな拍手だけ。
 自分の演奏が終わってから次第に増えていく聴衆を、ステージの袖から窺うことしかできない
自分が悔しかった。

 いい歌を作れば、いい演奏ができれば。
 そう信じてギターを弾き続けた。
 少しずつリスナーは増え、出番もゆっくりになってはきた。
 とはいえ、時代の流れは派手なビジュアル系やヒップ・ホップであり、ユニットも組まず
アコースティックギター1本で歌う鮎は、聴衆を強く惹きつけることができなかった。

 地元のミニコミ誌に厳しい評価もされた。
 ライブハウスの関係者からも皮肉交じりの言葉をかけられた。
 大切な人からの励ましがなければ、どこかで諦めてしまっていたかもしれない。

 地道な活動が続いた。
 連日の曲作りと練習。
 そして高3の夏。初めて、満席になったメッセ・ホールに立つことができた。
 川原鮎の名前で、観衆を集めることができたのだ。
 もちろん学校の友達も多かった。
 でもそれ以上に、世代も服装もまちまちな男女がそこにいてくれた。
 初めてステージから、ピックを投げた。
 この感激が少しでも届けばと願って。

 そしてある夜、精いっぱいのパフォーマンスをこなした鮎に、1人のスーツ姿の男性が話し
かけてきた。最初はナンパかと思い軽くあしらおうとしたが、出された名刺の肩書きに目が
止まった。
 「M&Cエージェンシー」
 スカウトだった。

 もちろんトントン拍子に契約とはいかなかった。
 両親の反対を、殊に父親の猛反対を説き伏せ、やっと認めてもらったのはもう冬になってから
だった。

 彼は反対しなかった。でも、全面的に賛成してくれなかったことが少しだけ意外だった。
 契約すれば東京に、彼の住む東京に行ける。
 それなのに彼は、「その会社、どういう会社なんだ」とか「契約書、細かいところまで確認して
から決めろよ」とか、どこか消極的のように思えた。
 あたしより年上で、世の中のことをわかっているからそういうことを心配したのだろうか。
 鮎自身、「M&Cエージェンシー」に所属するミュージシャンに好きなタイプの音楽をやっている
人はいないなと思っていた。
 でも、卒業を意識する冬になっても他から声はかからない。
 どこか焦るような気持ちで、仮契約を交わした。


 そして今、桜風の踊る歩道を軽やかに歩いている。
 これからどれだけの日々をこの街で過ごすことになるのだろうか。

 歩くこと十数分で、これからの毎日の起点になるマンションに着く。
 2月上旬に新居探しのために来て以来。
 大学通りの銀杏並木が北風に痩せた体を震わせていた
 あの時とは、空気がすっかり入れ替わっているようだ。
 太陽ですら大きく見え、樹と彼女のシルエットが濃くアスファルトに落ちていて。
 母と店を休みにしてまでついてくるといってきかない父と不動産屋を巡って選んだのが、
そこだった。

 角を曲がれば、もうすぐ。
 そう。ここが・・・・・

 鮎の足が止まった。
 予期していなかった感激が、くすぐったいほどに皮膚のあちこちをくすぐる。
「邦彦さん!」

 マンションの入り口で彼が待っていた。
 はにかむように微笑んで、軽く手を挙げて。

「よっ。鮎」
 かちゃかちゃと荷物につけたキーホルダーを鳴らしながら駆け寄ってきた彼女を、彼、
冴木邦彦は両手でしっかりと捕まえた。
「待っててくれたんだ。バイトは?」
 止めようもなく、鮎の声は弾む。一昨日の電話では、今日は空いてないって聞いていたのに。
「今日は夜からにしてもらった。羽田まで迎えには行けなかったけど、時間どおりに着いて
まっすぐ来たら、今ぐらいの時間に着くだろうなって思って」
 頬を紅潮させ、沸き立つ笑顔で喜びを表現する鮎に照れたように、彼は彼女の鞄を取った。
「貸せよ。重いだろ」
 鮎はちらりと上を見上げた。
 このマンションは3階建て。エレベーターなんてないが、彼女の部屋は3階なのだ。
 担いで階段は、正直辛い。
 こういうときはぶっきらぼうになる彼が、好きだった。
「うん。ありがと」

 カンカンと、コンクリートの階段に靴音が響く。
 午後の風が冬の寒さと春の穏やかさを交えて樹々を揺らしたついでに二人を包む。
「ちゃんと迷わないでこれたか?」
 先をゆく冴木が、振り向かないまま言った。
 からかっているのだ。
「当たり前でしょ。初めてじゃないもん」
 さも当然なように答える鮎。
 実際は間違えて角を曲がっていたらどうしようかと、何度も立ち止まって風景を確認しながら
歩いていた。

 札幌から重さで彼女の手を焼かせながら一緒に旅をしてきた鞄を、軽々と担ぐ背中が
揺れている。スポーツ選手のようには大きくも広くもないけれど、川原鮎のどんな悩みも
厭わない背中。
 始まりの時から、そうだった。

 冴木邦彦は琴梨の従兄妹で、現在21歳の大学生。
 1年前、夏休みにふらりと旅立った北海道。
 滞在費が心細くなり、数日泊めてもらおうと頼った伯母の家で10年ぶりに従兄妹と再会し、
そして親友の鮎に出会った。

 札幌狸小路。
 そこで二人はあまりにもたやすく恋に落ちたのだ。
 それは彼と彼女に共通する鋭敏な感性があったからなのかもしれない。
 音楽を紡ごうとする鮎と、言葉を編もうとする彼と。

「ねぇ、桜ってまだ咲かないの?」
「まだだな。来週ぐらいだろう。いくら東京でもそんなに早くは開花しないよ」
「そっか。ね、覚えてる?桜を見に行く約束」
「そんなのしたか?」
「したした!まさか忘れてないよね」
「わかってるよ。函館のだろ」
 恋人同士になって最初の冬。
 銀白に瞳を灼かれそうな雪の五稜郭公園を歩いて、今度は桜の季節に来ようねと
約束したのだ。
「うん。よろしい。今年は無理だけど来年ぐらいには
一緒に帰って見たいよね。」

 階段を登りきり、303号室の前へと立つ。
 冴木はついてきた彼女を促した。
 ずっと握っていて温まった鍵を鮎が差し込み、回す。
 新しい世界が始まる響きがした。

「ようこそ!川原鮎のパーソナルルームへ!」
 彼女が最初にしたのは、何もない部屋の真ん中で大きく両手を広げそう言うこと。
 鞄を隅へ置き、苦笑するだけの邦彦。
「あ、な〜んか感動がないなぁ。あたしの部屋に最初に入ったお客さんなんだから、もっと
喜んでよね」
 鮎は腰に片手をやり、説教口調になってみる。
 きょろきょろと1DKの部屋を見回し、
「なかなかいい部屋じゃんか。広いし。天井も高いし。収納はどこなんだ?」
と平静きわまりない彼。
「ねぇ、わざと言ってるでしょ。本当は感動してるのに」
「ちょっとだけな」
 燕のようにくるりと身を翻し、鮎は南面しているベランダの窓を全開にした。
 西側にある出窓を彼が開ける。
 とたんに緑の薫る風に部屋が包まれてゆく。
 靴下のまま決して広くないベランダへ出る鮎。
 邦彦も黙って続く。
 大学通りの並木が住宅やビルの間に見え、穏やかな午後の陽差しに屋根がきらめいている。
 彼方の空は黄色く濁っているけれど、この街はそれほどひどくない。国立は高級住宅地でも
あるのだ。
 鮎は両手で手摺を掴み、真っ直ぐにこれから馴染んでゆく土地の肖像を見つめる。
「とうとう来たんだよね。あたし。東京に」
「ああ」
 左隣に立った邦彦は、そっと彼女の肩を抱き同じ光景を眺める。
「歌手になるために」
「ああ」
「でもね、邦彦さんに会うためでもあるんだよ」
「待ってたんだぞ」
「・・・うん」

 ステンレスの手摺に乗っている彼の左手に、鮎はそっと自分の手を重ねた。

 遠距離恋愛も、今日でおしまい。
 さよならという言葉も、ずっと軽い意味になる。
 何日、何時間かで言葉の寿命が尽きて、今のように二人きりになれる。
 それがただ嬉しかった。
 これからのことを思えば、不安になってしまう理由はいっぱいある。
 でも、補って余りある安心が、触れ合っている体から絶えることなく流れこんでくるよう。

 彼女は恋人の顔を見上げ、瞳を閉じた。
 そっとキスをして、彼が言った。
「ようこそ。この街へ」







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