第9章 ありふれた恋の終わり



 一つの年が終わる午後。
 手を繋ぎ、ゆっくりと街を歩く恋人たちがいた。
 札幌にも無数の組み合わせ。
 でも、彼と彼女の影は他の誰とも違っていた。

 二人は北海軒から出てきたところだ。この日も午前中から会っていた二人は、客としてではなく
立ち寄った。葉野香の表情に紅味がさしているのは、出がけに達也に「妹をこれからもよろしく頼む」
と言われた雄吾が、「はい。葉野香は絶対に離しません」と答えたからかもしれない。
 笑顔で応じた言葉だった。でも、それを証明するように鷹条は店を出る時から彼女の手を離そうと
しなかった。

 この日最初のデートコースは、葉野香の部屋だった。
 彼女に恥ずかしさもあったが、やっぱり恋人には普段の自分のことも知って欲しかった。早起き
して、ぱたぱたと部屋中を掃除したので片付きすぎてしまったけれど。
「座ってて。散らかってるけどさ。お茶、いれてくる」
 きょろきょろして所在なげな彼にそう言って、茶の間に降りてゆくと義姉がお茶の道具一揃いと
お茶菓子とを用意してくれていた。
 寝そべって新聞を読んでいる兄。
 清美さんが「持っていきなさい」と言うだけで、達也は何も言わない。
 気を使って無関心なふりでもしてるのかな、と思ってお盆を手に部屋へ戻る彼女。
 階段の上でふと振り返ると、兄夫婦の顔が慌てて引っ込んだ。
 やっぱり。
 そのうちなにか口実にして覗きにくるな。あの調子じゃ。
 まぁ、いいけど。
 くすりと笑って、葉野香は自室へ戻った。

 ちょこんと座っている雄吾。あぐらをかいて、交差した足首をつかんでいる姿は子供みたいだった。
「お待たせ」
 急須に湯を注ぐ葉野香に、感心したように雄吾が言う。
「性格出てるよな。こんなに綺麗にしてるんだ」
「今朝掃除したから。いつもはもっとごちゃごちゃしてるよ。いいから寛いで」
「ああ」
 お茶に手を伸ばす雄吾。
「あれ、編み物の道具だろ」
 目線の先には毛糸玉と編み棒が入れてある篭がある。それで彼女は思い出した。
「雄吾。手出して」
「手? ほら」
 葉野香は差し出された手の平と自分のを重ね合わせている。
「よし、もういいよ」
「なにかの占いか?」
「違うよ。手袋、編もうかと思って」
 テーブルの上空でしばしホバリングする手。
「・・・・・葉野香にはわかんないだろうな」
「え?」
「俺が今、どんなに嬉しいかってことがさ」
 大げさに言っていると思うけれど、期待してくれるのは嬉しい。母さんが教えてくれた編み方には、
真心の込め方もあったのかも。
「まだ完成するかどうかはわかんないぞ」
「何年でも待つ。できるまで手袋は買わない」
「バカ。色はどんなのがいい?」
 中指を額に当てて悩む鷹条。
 それが彼の癖なのは彼女もわかっている。
「そうだな。今度は葉野香の好きな色がいいな」
「じゃ、ピンクにする」
 絶句する雄吾。
 目を丸くする彼がおかしい。
「冗談に決まってるだろ。できてからのお楽しみ」

 話題は、溢れ出てくる。
 たっての鷹条の願いで、中学の卒業アルバムや家のアルバムを二人で見た。
 班の友達と一緒に撮った修学旅行。
 高校の入学式。
 眼帯をしはじめた中学の頃。
 そして家族の写真。
 母の写真を見て雄吾は、彼女にそっくりな面影に納得した。
 一番彼が気に入ったのは、子供の頃の一枚。
 その当時近所で飼われていたという白くて大きな犬に背中を預け、ぺたんと座っている葉野香の
写真だった。
「かわいいなぁ。これ。うん。かわいい」
「そ、そうか」
 実は葉野香も思い出に残っている、好きな写真だった。
「この犬が」
「こら」
 葉野香は雄吾の鼻をつまんで笑った。
 知らず知らずのうちに肩を寄せ合っていた二人だった。

 続いて達也の、今となっては天然記念物ものの写真が飛び出すと、もう揃って爆笑するしか
なかった。ソリコミ・リーゼント・変形学生服or特攻服。見事に暴走族の王道だ。

 一通り左京家の歴史を網羅したところで、葉野香は言ってみた。
「あたし、雄吾のこういう写真とか、見たいな」
「たいして面白くないぞ。でも、葉野香が東京に来た時に見せるよ」
「じゃ約束。決まりね」
「でも恥ずかしいのもあるからなぁ」
「だめ。もう約束したんだから」
 その機会が、一瞬でも早く訪れてほしい彼女だった。

 やがて話題は進学のことに移った。
 雄吾は、医学部を目指していることを話した。
 怪我をして野球を諦めた自分だったが、これからそういう障害に直面する人達がそんな選択を
しなくてもいいように、スポーツ医学をやりたいと。
「まだ全然、成績が追い付いていないんだけどさ」
 医学部となれば、何年も浪人する人が珍しくないことは葉野香も知っている。これまで、鷹条の
高校から医学部に進めた人は少ないという。それでも新しい夢に挑もうとする彼は、格好良かった。
「あたし、応援するよ。あたしが勉強教えたりとかできないけどさ。でも、応援する」
「ありがとう。受かったら、お礼しなきゃな」
「それ逆。お祝いされる方だろ」
「そうじゃなくてさ」
 一旦切って、続けられた言葉はとても真剣なものだった。
「医学部に進みたいなんて考えたのは、葉野香に出会って、東京に戻ってからさ。その時まで、
目標もないままにただ勉強してただけだった」
 言葉を切る。そしてどんな光も届かない世界で蹲っていた自分を回想した。
「葉野香。お前がいたから、俺は前に歩くことができるようになった。そういうお礼をしたいんだ」
 身を乗り出して、葉野香も力説する。
「あたしだって、大学に進もうなんて思ったのは雄吾がいるからだよ。お礼なんて、あたしがしないと
いけないよ」

 雄吾は葉野香の手を取って、言った。
「一緒に、受かろうな」
「うん」

 二人が顔を近づけた時、ドアがノックされた。
 達也の登場。
「よ、ラーメンできたから、昼メシにしようぜ」


 午後からは、札幌の街を散策することにしていた。
 夜のイルミネーション・カウントダウンまでの時間を可能な限り共に過ごすつもりで。

 ある店の前で「ここ寄りたい」と葉野香は彼の袖を引っ張った。
 そこは文具店。ステーショナリー・グッズ・ショップという表現がふさわしいだろう。
「何か買うの?」
「来年の日記」
 しばらく二人で大小各種あるダイアリーを見比べていたが、ふと葉野香の視線が離れたある
一点に止まった。いろいろ選んだ末、ようやくこれから一年間つき合う日記帳を決めた彼女。
 それじゃ、とレジに向かおうとする彼の袖をくい、と引く。
「もう一つ、買いたいのがあった」
 それはフォト・スタンド。
「あたしたち、二人で撮った写真ってないだろ。プリクラでもいいけど、やっぱり写真で持っていた
いんだ」
「それもそうだな。じゃ、あとで撮ろうな」
 使い捨てカメラも、一緒に買うことにした。

 その機会は意外なほどすぐに訪れた。
 大通公園で、葉野香のクラスメートである女の子数人と鉢合わせしたのだ。
 「あれ、左京さんじゃない」という声に驚く葉野香。
 地元ではこういうことも珍しくない。
「デート中? この人が例の東京の彼氏?」
 この友達はみな、修学旅行で同じ班だった。当然あの時のことも覚えている。腕を組んでいる
ところを目撃されていては誤魔化すこともできないけれど、そもそもそんなつもりなどない。
 腕をほどくどころかより一層、しっかりと組んで、
「そう。冬休みでこっちに来てくれたんだ。紹介する?」
と誇らしげに言う葉野香。
「して!」
 揃った声に鷹条は苦笑するしかない。
 とはいえ、こうして「公認カップル」になるというのもいささかむずがゆいが、嬉しいものだ。
「鷹条雄吾っていうの。あたしの彼だよ」
「よろしく」
 すると
「年は?」「どこで知り合ったの?」「つき合ってどれぐらいなの?」などとまるで芸能レポーターの
ように次々と質問が襲いかかってきた。
 やがて立ち話も寒くなってきたのだろう。
「じゃ、あんまり邪魔しちゃ悪いから、行くね」
と、彼女たちは立ち去って行った。
 その前に、噴水をバックに写真を撮ってもらうのは忘れなかった。
 肩を抱いた写真。
 腕を組んだ写真。
 近い将来、それぞれの部屋に飾られる写真。

「あんな風に紹介されて、照れないか?」
 そう葉野香に尋ねられて、雄吾は二つの顔が脳裏に浮かんだ。
「俺はまぁ、平気かな。葉野香はよかったのか。あんなに堂々と話して」
「いいに決まってるだろ。彼氏なんだからさ」
「じゃ、今度俺も葉野香を紹介したい人がいるんだ。いつか先のことだけとさ」

 昨夜、遅くなって春野家に戻った鷹条は、リビングで陽子伯母さんに呼び止められた。どうやら
待っていたらしい。
「雄吾君。聞いておきたいんだけれど、いいかい」
「はい」
 向かい合って座った甥に、普段の明朗さをしまいこみ大人としての態度で彼女は尋ねた。
「まだ、あの事件のことは引きずってるのかい?」
「いいえ」
 もう、きっぱりとそう答えることができた。
「そうかい。安心したよ。琴梨も喜ぶだろうよ」
 聞くと、夏に訪れた時から琴梨ちゃんも事情をわかっていたという。知らずに高校野球の話などを
しないよう、予め話しておいたのだと。
「あんたを歓迎したのは、あんたが傷ついていたからじゃないよ。来てくれて嬉しいから歓迎して
たんだ。でもね。心配だったんだよ。あたしもあの子も」

 このマンション、この部屋で過ごした日々が脳裏に甦る。
 こまやかな配慮。目に見えないいたわり。
 二人の親切があってこそ、葉野香と出会うことができた。
 札幌や小樽へ自分を案内してくれた琴梨ちゃん。
 なにも言わずに俺を元気づけようとしてくれていたのか。
 俺のまわりには、こんなにも優しい人たちがいたんだな。
「もう、大丈夫です。本当に。もう、心配をかけるようなことはありません。それもみんな札幌にこれた
おかげです。どうお礼を言っていいか・・・・・」
「いやだよ、この子は。急にしゃちほこばっちゃって。まぁ、明日もなにかあるんだろ。楽しんできな
さいな」
「はい」

 夏休みのことからこのやりとりまでを、鷹条は詳しく話した。
 葉野香が琴梨に謝ったことを聞いたということも。
「今すぐでなくていい。でも、いつか葉野香を紹介したいんだ」
「うん」
 葉野香も、彼のためになってくれた人たちに、きちんと会いたくなった。
 父親を事故で失ったという従兄妹の子。
 寂しい気持ちの辛さを知っているから、ケンカしたあたしを誘ったりしたんだろう。
 きっと友達になれるはず。
 今度はもっと、素敵な出会いをして。

 やがて眩しい夜が札幌に舞い降りる。
 無数のイルミネーションに祝福され、二人はすべてを超えた誓いを交わした。




 東京に戻った雄吾には、あと一人、会っておかなくてはならない人物がいた。
 山梨県のある寒村。
 そこに、もう監督ではなくなった人がいた。

 新しい希望と、ピリオドを打つペンを持って、鷹条雄吾はその地を訪れる。

 そしてそのペンは、始まりの章を綴る。





<了>




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