第8章 初夏の頃



 雄吾は左手をポケットから抜き、腰の位置で甲を広げた。
 水銀灯に照らされ、白く、火傷の跡のような奇妙な光沢の残る傷。
 自然と葉野香の目線もそこへ向く。
 どれほどの苦しみを、この傷は彼に与えたのだろう。
「この傷を見ながら、いろいろ考えた。俺はなにを間違ったんだろうって。最初の頃は、俺のどこが
悪いんだって腹立だしかった」
 葉野香が手を取る。
「だって、正しいことをしたんだもの。そうでしょ」

 目を伏せ、土と混じって汚れた雪を雄吾は、爪先で軽く蹴った。
「そのうち、わかったよ。俺はあんな揉め事に関わるべきじゃなかったんだってね。自分の立場を
考えて、見ない振りしてさっさと家に帰るべきだったんだって」
「そんなのって・・・・・」
 辛辣に響く彼の言葉。
 きっと、同じことを誰かに言われたのだろう。
「カッコつけて、人のためになろうなんてのが俺の増長だったのさ。正しいことが代償を求めるなんて
考えもしなかった俺が甘かった。そんな俺の愚かさが、たくさんの人を傷つけたんだ。償いきれない
ぐらいにね」
 漆黒の沈黙が空気を粘体のように重くする。

 葉野香の細い指が、雄吾の古傷をなぞる。
「今でも、そう思ってるの?」
 静寂を押し退け、葉野香が尋ねる。
「本当に、そう信じてるの?」
 強く彼の手を握って、瞳を直視して、返事を求めた。

 鷹条は視線を外した。
「葉野香に会った時までは」
 そう短く答えるために。

「あたしと、会った時・・・・・」

「そうだ」
 微かに頷いて、鷹条は言葉を続けた。
「最初に口喧嘩しただろ。あの時はああいう争いごとが恐かった。もし事が大きくなったら、って
思うと。でも、お前が出ていって収まったのに、それでよかったとはどうしても思えなかった」

 表現を模索するように、唇を一旦休める。

「あれは、本当の姿じゃない。俺のように、理由があって自分を偽っているんじゃないか。葉野香の
瞳がそう、俺には見えたんだ。だからあの次の次の日から、俺はあの場所で葉野香が来るのを
待ってた」

「えっ?」
 思いもよらない事実を告げられて、反射的に声を出した葉野香に、鷹条は苦笑いを浮かべて
説明する。
「名前しか知らないから捜しようがないし、ひょっとしたら、って思ってさ」
「待ってたって、毎日? 一日中?」
 あの再会は偶然だとばかり思ってた。
 つまらないことに文句をつけたあたしなんかに会うためにそんなことをしていたなんて。

「そういう日もあったかな。会っても、話しかけたりするつもりじゃなかった。ただ気になって仕方が
なかった今から思えば、無謀だよな」

 ひどく暑かったあの日。
 誤り続けていたあたしが、終わりの始まりを迎えた日。
 雄吾にとっても、そうだったのだろうか。
 あのとき、雄吾は・・・・・

「ひとつ、聞いていい?」

「いいよ」

「どうしてあたしを助けたの」

 過去に人を救おうとしてすべてを失った彼。
 それでも、あたしを助けてくれた。
 そのわけが知りたい。

「助けたかった」
 鷹条は、ゆっくりと口を開いた。

「あの時は、いろんなことを考えたよ。出ていけば自分がどうなるか。また問題になるんじゃない
かって。あんなことはするべきじゃないって、すぐに結論は出た。でも、どうしても助けたかったんだ。
ただ一つ言えるのは、もしあれが葉野香じゃなかったら俺はあの場から立ち去っただろうな」

「もう一つ聞かせて。もし雄吾がヤクザ者と喧嘩したなんてことが学校にわかったら、退学になった
んじゃないのか」

「かもね。あれで済んでよかったよ」

 もしそんなことになっていたら、彼が耐え続けた1年が無駄になるだけじゃない。彼にふさわしい
はずの未来をすべて失ってしまっていただろう。
 それでも自分自身を投げ出して、あたしを守ってくれた。


 この人を好きになって、よかった。


 葉野香は彼の手を離し、腕を組んだ。
 寄り添っていたい。そう感じたから。
 鷹条は手をポケットにしまった。

「それで、野球部はどうなったの」
「新しい監督が来て、活動してる。今年の夏は準々決勝まで行ったよ」
 母校が敗退した日、彼は無人のグラウンドに立っていた。
 全校生徒が応援に向かうバスに、乗り込む勇気がなかった。
 一人、遠く去ったマウンドが陽炎に霞むのを見つめながら、ただひたすらに勝利を願った。

「怪我は、ちゃんと治ったのか。腕と手と」
 そう言ってから、自分がすがっている腕が怪我をした腕だと思い出した。
 心配気に自分を見上げる彼女に、雄吾は笑ってみせた。
「たまに痛んだりはするけどね。普段はもうなんともないよ。動きからはわからないだろ」
「プール行った時、気が付いたけど、怪我したことがあるんだくらいにしか考えなかった・・・・・」
 一緒に泳いだあの時、彼の上手さにばかり驚いていた。
 それは、リハビリで水泳をやっていたからだったんだ。
「意識して傷跡は隠してたから。それが習慣だったんだ。今から振り返ると、あの事件のあと、
自分がどうしていたかをよく思い出せないんだ。ロボットみたいに、ただ間違いを犯さずに延々と
毎日を繰り返していたんだろうな」

「それで両親が心配して、旅行をさせたのか?」

「そうだろうね。でも、俺は心配させたくないから言われるままに札幌に向かっただけだったよ。
あの時は」

「だから、観光もしなかったんだな」

「ああ」

「じゃ、これからは一緒にいろんなところに行こう。あたしが好きな北海道を、もっと知って欲しい
から」

 鷹条が葉野香の腕を振りほどいた。
 一歩後ずさり、距離をおこうとする。
 苦悩の表情を隠すこともなく、かすれた声を絞り出し、聖者の前に伏せる罪人のように言った。

「葉野香、俺はお前みたいに汚れないではいられなかった。そんな俺を許せるのか?」

 彼女はすぐに一歩を踏み出し、靴の爪先が触れ合った。
 両手で、彼の両頬をそっと包む。
 凍てついた皮膚から、注がれてゆく想い。
 ただ雄吾の瞳だけを見つめる。

「さっき言ったでしょ。あたしは雄吾のことが好きだって。
あなたの過去を知らないまま、あたしはあなたが好きだった。
今は、もっとあなたが好き。
大好き」

「俺だって・・・・でも、俺は」
 雄吾は、目を逸らそうとした。
 葉野香は優しく彼を俯かせた。
 手を頬に当てたまま、互いの額を触れ合わせる。
 目を閉じる雄吾。彼女もそうした。
「あなたが考えていることは、あたしにもわかるよ。あなたのことだから。あなたはずっと自分を
責めて、罰を受けようとしてた。まだ償いが終わってないって、そう思っているんでしょ」
 地鳴りのように、雄吾の神経に震えが走る。
「そう・・・・・だ・・・・・。俺には、君の想いを手にする資格がまだ、ないんじゃないかって・・・・・」
 初めて葉野香が耳にする、幼児のようなかそぼい彼の声。
 痛みに苛まれ、傷だらけになり、踏みしだかれ続けていた裸の鷹条雄吾がそこにいた。
 正義に嘲笑され、真実に絶望し、理想を喪った鷹条雄吾が。
「いつか、あなたが過去から自由になる時に、あたしはそこにいたい。
その時まで、それからだって、そばにいる。
償うことが残っていたら、あたしにも分けて。
あなたはもう、ひとりじゃないよ。
あたしがひとりじゃないように」

 葉野香は両手で雄吾の左手を包んだ。
 堅く握られた拳を、ゆっくりと開かせる。
 指を絡め、握り、彼を見つめる。

 右腕で抱き締められた瞬間、彼の涙が葉野香の頬を伝った。

 これから長い時間をかけて、あたしがあなたに出会って間違いに気づいたように、あなたが
間違っていなかったことをわかってもらおう。
 きっと、できる。
 あたしも雄吾も、失ってばかりの日々でからっぽになった心を隠していた。
 あたしは虚勢で、雄吾は沈黙で。
 でももう、あたしの心には雄吾がいる。
 彼の心に、あたしがいる。
 かげかえのない愛で満たされている、あたしたちがいる。


 初夏の街で、彼と彼女は偶然の出会いをした。
 そこで終わらなかったのは、互いを意識させるなにかがあったから。
 鷹条雄吾が歩いてきたすべての昨日。
 左京葉野香が踏みしめてきたあらゆる過去。
 それは、以前どこかで見たことのある風景のように似通っていた。
 デジャ・ヴ。大切なものを欠かしている二人だったからこそ、それを感じた。
 そしてあの出会いは、重なって一つの道となった。
 二人の未来の起点。
 白く輝く里程標、マイルストーンとなった。


 街の灯がつくる、二人の一つの影はいつまでも離れなかった。





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