第7章 静寂を讃えた湖で



 葉野香は夜の勉強時間を増やすことにした。
 兄や清美さんにも進学の希望を伝えた。二人とも、『頑張れよ』『応援するわよ』と、好意的に
受け止めてくれた。お金のことも心配いらないと言ってくれたが、彼女も現実はわかっている。
まだ借金の残る兄夫婦に負担はかけられない。
 自分にできることは、成績を伸ばすこと。
 修さんが言っていた。法則的に、レベルの高い学校ほど学費が安いと。奨学金資格のためにも
学業の実績を残しておかなくてはならない。

 葉野香の通う猪狩商業高校は、進学コースはあっても進学校ではない。
 高校受験の時、葉野香の成績なら進学校にも進めた。しかし、私立高校に通うだけの余裕の
なかった彼女は道立を単願するしかなかった。万が一にも不合格になるわけにはいかないため、
合格が確実だったこの高校を選んだという経緯がある。当然、特別なことをしなくても上位の
成績は取れた。

 でも、これからはそれでは通用しない。すでに出遅れている彼女には、かなりの努力が必要に
なるはずだった。3年生から進学コースと就職コースに別れるが、進学といっても専門学校や
短大が主な進路。葉野香にはそれでは足りない。
 とはいえ、予備校には通えない。
 思いあぐねた挙げ句に担任の教師に話をしたところ、いくらでも補習をすると言われた。科目も
教師もよりどりみどりだと。

 翌週から放課後に時間のある教師が、交代で葉野香の相手をすることになった。口を揃えて
言われたのは、やる気のある生徒の指導は久しぶりで教師冥利に尽きると。彼女のように環境の
厳しい生徒などあまりいないということもあるが、「最近の高校生は」と眉をひそめる教師たちに
とっては珍しく、かつ好ましく映ったのだろう。
 葉野香にとっても、目的のある勉強は辛いだけではなかった。

 ようやく仲が良くなってきたクラスメート達は、一緒に遊んだりできないことは残念がった。しかし
放課後など、教室で騒ぐ男子生徒に「勉強してる人もいるんだから静かにしなよ」とまで言って
くれた。葉野香もできうる限り、彼女たちとの時間を作った。

 店の手伝いはほとんどすることがなくなった。手伝おうとしても止められてしまうのだ。
 これまで以上に集中して授業を受け、放課後には補習。帰宅してからも机に向かうという日々が
続いたが、大切な課題だけは終わらせた。

 雄吾がくれた帽子と同じ色のマフラー。
 思ったよりも早く完成した。
 勉強の息抜きに毎日進めたせいだ。
 毎日のハードスケジュールに疲れを感じることも多くなってきた。
 でも、このマフラーを編んでいるとどこか柔らかな雲に心を預けているような安らぎがある。

 そうだ。明日からは・・・・・
 葉野香はしまってあった黒い毛糸を取り出した。

 ただ事務的に通っていた学校だったが、積極的に教室のドアを開けられるようになってきた。
当たり前に「おはよう」が言え、おしゃべりができる。テレビドラマの内容などはついていけない
ものも多かったが、勉強のわからないところを質問されたり、北海軒の感想を(もちろんおいし
かったと)告げられたりと話題には事欠かなかった。

 忙しい日常に流されたのだろうか。
 環境のせいだろうか。
 雄吾のことを思い浮かべることは減ってきた。
 修学旅行で高まった気持ちが、すとんと落ちてしまったように。


 館林はときどき葉野香を食事に誘うようになった。
 葉野香も大学についての話が聞きたくて、いつも応じていた。
 受験の失敗談や充実していたキャンパスでの日々の話は彼女の笑顔を容易に引き出す。

 何度目かの夕食後、葉野香は休日のドライブの話を持ちかけられた。受験勉強の息抜きにどう
かなと。
 場所は洞爺湖。
 葉野香は子供の頃のことを思い出した。左京家と館林家が揃って、一度遊びに行ったことがある。
懐かしさが胸に溢れ、彼女は喜んで承諾した。

 11月の日曜日。
 北海軒は営業日なので兄夫婦は同行できない。
 二人を乗せた車は道央自動車道を順調に南下し、それほど時間をかけずに太平洋、そして
内浦湾を望む景色に溶け込んでいった。

 遅い紅葉が残る森を抜け、中島の浮かぶ洞爺湖に到着。
 葉野香は机に向かってばかりの日常を忘れ、解放感に包まれてあちこちを見て歩いた。

 風景の中に、ふと父や母、まだ小さい兄、そして館林家の人たちが蘇ってくる。
 札幌にいては、決して思い出せなかった記憶のかけら。
 ここに連れてきてくれた館林さんに心から感謝した。

 夕暮れの湖。
 二人は長い影を落としながら湖面を眺めていた。
「葉野香ちゃん」
「ん?」
「今日は楽しかった?」
「もちろん。気晴らしにもなったし、すごくいい気分」
 ここのところ、休日でも家から一歩も出ない日が多かった。
 こういう形で発散できて、今夜は集中できそうだった。
「良かった」
「館林さんは? あたしといて退屈したんじゃない?」
「まさか」
 強く言われた。
「俺は、最高の一日だったと思ってる。それは・・・・・」
 沈もうとするこの日の太陽を見つめていた彼が、言葉を切って葉野香を凝視する。
「・・・それは?」
 真剣な表情に葉野香も気がつく。

「君が一緒だったからね」

 葉野香には想像外の言い方だった。
 一緒にいてあたしだって楽しかった。
 でも、彼が言っているのはそういうことじゃない。
 まさか、そんな、だってあたしは・・・・・
「冗談ばっかり」
 そう応じることしかできない。
 冗談だったら、それならわかる。
「冗談なんかじゃない。本気さ」
 館林ははっきり否定した。

「これからも、こんなふうに会ってくれないかな。つまりは、俺とつき合ってほしいんだ」

 無言のまま、自分を見ようとしない葉野香。
 彼は言葉を続けた。
「突然で、驚いたかもしれないけど、久しぶりに会った時からずっと思ってたんだ。すごく綺麗に
なった君が、俺の頭から離れないんだ」
 葉野香は黙ったままだ。
 野鳥の囁きや水面を走る秋風が空白をつないでゆく。
「達也には、俺からきちんと話す。だから、君の気持ちを聞かせて欲しい」

 館林修さん。
 子供の頃から、大好きだった。
 今でもとても優しくて、親切で、大人で、あたしのことを大切にしてくれてる。
 すごく嬉しい。
 でも。でも。

「ごめんなさい」

 都合良く、雄吾の顔が浮かんだりはしない。
 雄吾に悪いとか思っているんじゃない。
 もしかすると、一つ一つをとったら雄吾は修さんにかなわないのかもしれない。
 あたしが彼と一緒にいたのは、たった数日のこと。
 お互いのことを理解なんてできていないのかもしれない。
 これからだって、そばにいてほしい時に遥かな街で別れ別れの毎日が続く。

 でも、あたしが好きなのは、鷹条雄吾。

 それは理屈も感情も、時間も距離も越えている。
 北海軒を立ち直らせてくれたからでも、
 あたしを鈴本から守ってくれたからでも、
 あたしを素直にしてくれたからでもない。

 ただ、彼のことが好き。
 こんなことになって、初めて自分の気持ちがわかった。

 もう一度言う。
「ごめんなさい」
 深く頭を下げる。

「やっぱりだめだったか」
 短いため息が聞こえた。
「夏休みに会ったっていう彼のことが好きなんだろ?」
「えっ?」
 驚いて顔を上げる葉野香。
 館林は湖に沿う遊歩道を歩きはじめた。
 葉野香は少し後ろをついていく。
「本当のことを言うと、達也から彼のことは聞いていたんだ」
独 り言のように、ゆっくりとした口調で彼が言う。
「そ、そうなの?」
「それ聞いた途端、なんか君を連れていかれたような感じになってさ。寂しいような辛いような
気分になったんだ」
 彼が足元の小石を拾った。
「それでつい、こんなこと言ったんだよ。ごめんな、変なこと言ってさ」
 そして、湖面に投じた。
 波紋は、すぐに打ち寄せる波にかき消されてゆく。

 どこまでが本当なのかは葉野香にはわからない。
 まったくの真実のはずはないだろうと思う。
 あたしはなんて言えばいいのだろう。
 修さんは誠実な人。
 あたしも誠実に答えなくちゃいけない。

「あたしが好きなのは、兄貴が言ってた人。その通りだよ。
あの人はあたしにとってかけがえのない人なんだ。
だから・・・・・本当にごめんなさい」

「わかったよ。でも、俺たちは友達でいられるよな。これからもさ」

「うん」

「それでいいさ。さっ、そろそろ帰ろう」

 帰りの車中。
 気まずい雰囲気が表に出ないように、二人は話し続けた。

 北海軒の近くで、葉野香は車を降りた。
「今日は、ありがとう」
「どういたしまして。また遊びに行くからさ。達也によろしくな」
「うん」
「じゃ、気をつけて」
「修さんもね。おやすみなさい」

 自室に戻った葉野香が最初にしたのは、引き出しを開けること。
 少し古びてくすんだ色のついた眼帯がある。
 その隣の時計を手に取った。
 彼の時計。
 あの日から変わらず規則的に秒針が刻まれる。
 両手で握り、額に押し当ててみる。
 ほんの僅かに、振動が伝わってくる。
 あとどれだけ時が経てば、彼に逢えるんだろう。





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