第6章 遺跡から歩み出る朝に



 高校生活における最大のイベントが終わり、教室内はまた日常を取り戻した。
 授業開始のベルと教室移動。
 グラウンドから届く歓声と笛。
 次にやってきたのは中間試験。浮かれた気分をいっぺんに消し飛ばす。
 鷹条も葉野香も、机に向かう時間を増やしている。

 鷹条は試験明けまでバイトの出勤日数を減らした。この一年で、成績はかなり上がっている。
もともとの成績がよくなかったからでもあるが。
 両親はバイトに寛容だが、学業に悪影響が出れば考えが変わるかもしれない。しっかりとした
数字を残さなくてはならない。
 それに、行きたい大学の学部は到底現状程度の水準では届きようもない。
 しばらく前までは、点数を良くすることだけを目標にしてきた。脅迫観念にも似た理由で。希望
進路などろくに考えずに、模試の合否判定も適当な学校の名前を並べておいた。
 でも、今は違う。

 左京葉野香。
 彼女との出会いが、それを変えた。
 誰かが言っていた。
「流した涙が、後悔じゃなく、いつか笑って話せる涙になるように祈っている」
彼女がいなかったらきっと、彼はまだ古い記事の捕らわれ人のままだったろう。
 でも、今は過去を糧に歩いていきたい将来がある。

 かつては、理不尽だった現実を憎んだ。
 白い病室の壁に何度も右手を叩きつけようとした。
 だが、後悔が汐のように満ち、諦観となって引いていくのを繰り返すうち、自己を憐れむことも
ない静かな絶望が精神を支配していた。
 夢。希望。将来。
 どれもこれも幻想じゃないか。
 感情という動物的本能を都合よく解釈したにすぎない言葉。
 人は誰も、巨大なシステムに踏み潰されるのを恐れ逃げ惑うだけのちっぽけな存在なのだから。

 時間を戻したいとも思わなくなった。
 あの事件の前に戻って、避けたとしてもどうせ違う形で俺は苦しめられただろうと。

 今でも、やり直したいなどとは考えない。
 それはあのことが、彼女と出会うために必要な試練だったのなら過大な代償ではないはず
だから。
すべてがうまくゆき、札幌を訪れることなく、彼女を知ることすらなく日々を重ねるなんて、恐怖すら
感じる。
 失って手に入れたものすべてを抱えて、彼女に会いに行こう。

 彼女が自分にくれた種。
 それが無駄になってしまわないように、彼女がうれしく感じるくらいに大きくしたい。
 そして、頼れるくらい強くなりたい。

 帽子を受け取った葉野香から、すぐに電話があった。
「とりあえず、もらっとくよ」
 そして付け足すように、
「ありがとうな」
 触れ合うことのできなかった二人の軌跡が、会話を短くさせたのだろうか。
 修学旅行での出来事を話すでもなく、簡単なものだった。
 葉野香は帽子のことを尋ねてきたが、彼ははぐらかした。

 あの帽子は、夏に二人でショーウィンドー越しに見たのとは違う。ただ、あの時から彼は、次に
会う時には帽子をプレゼントしようとよく憶えておいたのだ。
 小樽から札幌へ戻った自由時間の日。彼らは北海軒へ寄った後に買い物をすることにした。
 雄吾はサッポロファクトリーを勧めた。多分に利己的な理由で。
 そこで一旦解散し、見つからないようにあの帽子専門店へ。
 ところが、とっくにショーウィンドーは秋冬モードとなっていて、葉野香の気に入った帽子はなく
なっていた。店内に入り、男性客など彼だけという環境に耐えてなんとか似たものを捜し出した。
 再会を期待して購入したのだが、包んでもらって受け取ると箱の大きさに圧倒された。ベース
ボール・キャップしか買ったことのない雄吾の予想を軽く越えた。これを羽田まで持っていくのも
苦労だが、軽いとはいえ、これを東京から自宅まで運ぶ葉野香のほうが更に難儀だろう。
 そこで、札幌駅のコインロッカーを使った。
 クラスメートは怪訝そうに聞いてきた。
「それ、いつ取りにくるの? 明日はまっすぐ空港だよ」
 誤魔化すのが大変だったが、こうすればキーを渡すだけでいい。
 翌日になり、会えそうもないという辛い判断を受け入れた彼は迷った。
 このキーをあとで郵送するだけでもいい。
 春野家に送って次の機会まで荷物を保管してもらってもいい。
 合理的な手段だ。
 それなのに、雄吾は猛り狂う衝動に支配された。
 どうしても、早く渡したい。
 理屈ではない。沈着と評される彼の姿などそこにはなかった。
 逢えないなら、せめてこれだけでも。一瞬一秒でも早く彼女に渡したくてならない。
 葉野香との電話では、静かに現実を受け入れるように諦めの言葉を発していたが、唇を噛み
切るほどに口惜しかったのだ。
 そこで思い付いたのが、タクシーだった。見知らぬ人に頼むとどうなるかわからない。タクシー
なら、ナンバーさえ控えておけば間違いない。そして彼は走り出した。
 もちろん、あとで教師に叱られたのだが。

 とてもこんな事情を話せるものではない。
 だから、「ちょっと見かけて、似合いそうだなって思った」とだけ答えた。
 電話を切ってから、彼はこれからの時間を数えはじめた。
 再びあの北の街を訪れるまでの日々を。


 中間試験が終わってしばらく経った頃、葉野香は週番の用事があって職員室にいた。
「左京」
 事を済ませ、出ようとしたところで担任の教師に声をかけられた。担任の机には、今回の試験の
成績表らしきものがあった。
「今回は少し下がったな、お前。調子悪かったのか?」
 確かに、彼女自身納得のいく数字ではなかった。これまで5番以下になったことはなかったのに、
いきなり2桁になってしまったのだ。
 原因はわかっている。集中していなかったからだ。
「お前なら、大学だってしっかりしたとこに行けるんだ。そろそろ、進学も範囲に入れて進路を
考えてみろ」
 そう言われて、反射的に心に浮かんだのは『大学なんて行けない』という台詞。
 親が残したお金では高校卒業が限界。そう思っていた。だから、ただ「はい」とだけ答えて職員
室を出た。

 でも、教室へと戻る廊下で立ち止まった。
 大学。
 就職するしかないと思っていた。でも、あのTV放送の効果もあって北海軒は繁盛し続けている。
 学費と生活費を、自分で確保できるなら・・・・・。
 葉野香は首を振った。
 そもそも、大学行ってなにしようっていうんだ。あたしは。
 大学なんて・・・・・

 その日の放課後、葉野香は図書室で進学の資料を手にしていた。学費からカリキュラムまで
親切に説明してあるが、自分に当てはめて考えるとよくわからなくなる。奨学金があるとあちこち
に書いてあるが、容易に貰えるものではないだろうし、具体的な基準などは書いてない。
 誰かに相談したい。
 思い付いたのは館林さんだった。
 あの時以来、しばしば遊びに来る。いつだったか大学時代の話をしていたから、きっと相談に
乗ってくれるだろう。

 すぐにその機会はやってきた。店の定休日に館林さんがふらりと立ち寄ったのだ。達也と清美さん
はラーメン横町の会合で外出中。葉野香が話をすると快く応じてくれた。
「じゃ、外で食事でもしながら話そうか」という彼とレストランへ行くことになった。

「大学に行きたくなったの?」
 館林が興味津々で尋ねる。
「まだ、はっきりしてないけどさ。行けるなら、それも悪くないかな・・・・・とか」
 歯切れが悪いが実際、具体的にやりたいことがあるわけではない。そもそも大学生活という
ものを想像したことがない。あるのは漠然とした憧れだけだ。
 館林は進学を勧めた。遊ぶためにあるといわれる大学だが、それでも得られるものはあると。
「札幌の大学だったら、それほど負担もなくて通えるんじゃないかな。東京だとなにかと高いけど」
 その言葉で食事をする葉野香の手が止まった。
「東京は、無理かな」
 それまで、東京の大学に進もうとは思っていなかった。とてもそんな余裕はないから。でも、
改めて困難を指摘されると少しつらい。
「東京の方がいいの?」
「そうじゃないけど、あっちのほうがたくさんあるから」
 金銭面が確保されても、受からないことには話にならない。受験の幅が広いに越したことはない
のだ。
「方法はあるよ。どこかの寮に入って住居費を抑えて、あとは奨学金をどんどん活用すればね」
「奨学金って、どうすれば貰えるの」
「奨学金は借りるのと貰うのがあって、借りて卒業してから返すのはそれほど審査は厳しくないよ。
貰うのは、成績が良くてあとは家庭環境だね。でも、君なら通るんじゃないかな。親の収入なんか
が基準だから」
 そもそも葉野香のような境遇の人のために設けられた制度である。
「そうか。うちはゼロだから。可能性はあるんだね」
「目指してみるのもいいと思うよ。ま、俺としては札幌にいてほしいけどね」
 穏やかに彼は笑った。
 葉野香も笑った。





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