第5章 Rain.Pain.Gain



 葉野香達の一行はレストランを出た。いやにぎらつく太陽の光を浴びながら、原宿を目指す。
会話と話題が絶えない彼女たちのグループにあって、葉野香は独り最後尾を虚ろに歩いていた。

 どうしようもないこと。
 彼にもあたしにも、今回は好運が足りなかった。
 冬になれば、会えるはず。

 そもそもあの夏の日に別れた時、こんなに早く再会できるなんて思ってなかっただろ。
 4ヶ月、待つつもりだったんだから。
 そこに戻っただけじゃないか。

 地の底からロープを伝って這い登るように、自分を納得させていく葉野香。
 彼のいう通り、東京の自由時間を楽しまなくちゃ。
 でも。

「みんな、ちょっといい?」
 葉野香はみんなを呼び止めた。お喋りを急停止して振り返る彼女たち。
「どうかしたの? 左京さん」
「あたし・・・・・」
 全てが無駄なことかも知れない。理性はそう主張する。それでも、葉野香は決心した。
「あたし、ちょっと用事があるんだ。みんなには悪いけど、一人になっていいかな」
 視線が彼女に集中している。
 わがままなのはわかってる。もしこのことが先生にわかったら、叱られるのは全員なのだから。
 しかし、班長の子があっさりと、「いいんじゃない」と言ってくれた。その自然さに葉野香のほうが
戸惑った。
「いいの? 本当に? もし遅れたら・・・・・」
「いいって。誰かと会うんでしょ」
 どうしてわかったんだろう、と驚きの表情を見せる彼女。
 そんな葉野香を、みんなが応援して送り出そうとする。
「折角のチャンスなんでしょ」
「あたしらのことは気にしないでさ、行きなよ」
「もちろん、先生には内緒にしとくからさ」
「6時までに、○○駅の改札に戻ってくればいいからね」
 これまで、それほど親しくしていた間柄ではない。
 そんな彼女たちの優しさが、落胆した葉野香の心を慰めてくれる。
「ありがとう」
 微かな躊躇いもなく言えた、感謝の言葉。
 また少し、素直になれたように感じた。
「ありがとう。じゃ、行ってくるよ。ごめんね」
 葉野香は最寄りの駅へと急いだ。
 目的地は、羽田空港。


 彼女は空港のロビーで待ち続けた。
 到着予定板の正面の椅子に座り、札幌からの便が着陸する度にゲートへと向かった。
 何度も案内係の人に状況を尋ね、乏しい情報を探った。
 何千という人たちが彼女の前を通り過ぎてゆく。
 でも、どうしても逢いたいあの人はいない。


 もう4時間は待っている。
 まだ雄吾の飛行機はやってこない。
 ここにいられるのもあと5分がせいぜいだ。
 千歳を離陸したとは聞いた。
 到着予定時間はもう過ぎている。
 事故が起こったわけではないだろうが、荒れた天候のせいで遅れているのは間違いない。

 5分経った。
 彼は、いまどこの空にいるのだろう。
 この瞬間に着陸したところで、もう会うことはできない。
 それでも葉野香は、あと5分だけ待つことにした。

 再び5分。
 小走りで空港を後にする。大急ぎで戻らなくてはならない。
 ジェットエンジンの轟音が、少しずつ遠ざかっていく。

 二人の距離が、また、広がる。

 葉野香がみんなと合流し、ホテルに戻ったのは6時の寸前だった。
 友達に会えなかったことを彼女たちに伝えた。
 かけられた「残念だったね」という言葉が、疲れた彼女に安らかさを与えてくれた。
 一つの発見。
 彼に会えなくても、あたしはひとりぼっちじゃないんだ。


 鷹条が東京の土を踏んだのは、もう7時を過ぎてからだった。


 葉野香は翌日、札幌に戻った。
 札幌駅前で解散になって、自宅の方角が同じクラスメートと一緒に帰った。
 幸いにも繁盛を続けている北海軒の扉を開く。
「ただいま」
 兄夫婦が迎えてくれる。
「おう葉野香。帰ったか」
「おかえり、葉野香ちゃん」
 達也が清美に目配せした。
「おい、あれ」
 清美さんが頷き、葉野香を二階に急がせた。

 二人は葉野香の部屋に入った。
「どうしたのさ。なにかあったの?」
 義姉はにこやかに微笑んでいる。
「これこれ。見てごらん」
 手で指し示したのは彼女の机。そこには一つの鍵と畳まれた白い紙片があった。
 手に取る葉野香。意味が解らない。5センチほどのプラスチックの丸いプレートに番号が打って
ある。どこかのコインロッカーの鍵のようだ。
「昨日の夕方なんだけどね、タクシーの運転手さんが来たの」
 清美は説明をする。
その運転手は預かったものがあると言って、この2つを差し出した。
 新千歳空港で客待ちをしていたとき、制服の高校生が息を切らせて彼のタクシーにやってきた。
高校生は「札幌に行きますか? 今日中に」と聞いてきたという。ここから乗るほとんどの客は
札幌に行く。だから行くよ。そう答えると、彼はこの鍵をポケットから出して言った。
「札幌の北海軒という店に、これを届けて欲しいんです。料金は払います。これから飛行機に乗ら
なくちゃいけないんです。お願いできますか」
 妙な話だと思ったが、引き受けることにした。
 手帳のページを破って記された北海軒への地図を渡された。
 料金はいいよという運転手に、高校生は何度も頭を下げ、また大急ぎで空港へ戻って行ったと
いう。

 紙片を見ると、確かにラーメン横町と北海軒が簡略に示されている。その下に「札幌駅南口」と
ある。コインロッカーの場所のことだろうか。その下に「雄吾」とサインがある。

「鷹条君はその前の日に食べに来たんだよ。その時はなにも言ってなかったって」
 友達が何人も一緒だったという。みんな美味しいと言って食べていったと。
「そっか。来たんだ」とだけ葉野香は答えた。
 この鍵を開けると、なにがそこにあるんだろう。
 きっと、彼が言っていたお土産だ。
 用心深い彼らしい方法。
 東京で会えない可能性を考えてこうしたんだろうな。

 疲れている。前頭部に痺れるような睡魔が滞在している。
 それでも葉野香は、すぐに札幌駅に向かった。
 どうせこのままじゃ、落ち着いて眠ったりできない。
 数字を頼りに、家路を辿る人々に溢れるコンコースを探す。

 あった。

 そこは通常のコインロッカーよりも大きめのロッカーだった。もちろん料金も高い。明日の分まで
お金は入っているらしい。もう一度だけ番号を確認する。正確だ。
 キーを差し込み、回す。
 ガチャリという音をたてて、ロックが解除された。

 真っ白い紙袋がある。
 かなりの大きさだ。ともかくロッカーから出そうと引っ張り、思いがけず軽いのに戸惑った。
空っぽのようにすら感じる。
 見ると、樹木の色をした紙製の何かが入っている。
 周囲に目を配ってから、取り出してみる。
 ボール紙でできた平べったい円筒型のケース。
 蓋がついている。
 あの時の記憶が葉野香にふっとよぎった。
 この形のケースに入るものは、きっと・・・・・。
 ほんの少しだけ中身を確認する。やっぱりそうだ。
 彼女は大急ぎで家に帰った。

 自室に戻り、箱を前にしてぺたりと座り込む葉野香。
 両手でそっと蓋を外す。
 詰めものの白い紙を取り出す。
 雨に癒される森のような、深い緑色の帽子がそこにあった。

 手に取ってみる。

 被ってみる。

 鏡の前に立ってみる。

 そして、両手でそっと頭から取る。

 記憶がまざまざと甦る。
 たった一度のデートの日。
 サッポロファクトリーに最後に行った時、葉野香はショーウィンドーに飾られた帽子に視線を
奪われた。
 上品で安らかななグリーン。
 シンプルで壮麗なデザイン。
 立ち止まった葉野香に雄吾が聞いた。
「なにか、いいのがあった?」
「帽子がちょっと。でも、あたしには似合わないよな。あんなお嬢様が使うようなの」
 肩をすくめる。
「そうでもないと思うけどな」
「そう言ってくれるのは雄吾だけだよ。でも、わかってるんだ。あたしも。第一、帽子なんて買った
こともないからな」
 そう言って葉野香はまた歩き出した。
「ま、髪が綺麗だから、隠すこともないよな」
「ば、バカ。そういうことを真顔でいうなよ」

 そんなことがあった。

 夏に見たものとは、少しだけ違っている。同じものではない。
 箱にも紙袋にも、なにも書かれていない。
 まさか東京で買って持ってきはしないだろうから、北海道のどこかで探したのだろう。
 サイズもぴったり合っている。
 使うのがもったいないくらい、丁寧に作られた、綺麗な帽子だ。
 もう一度被る。前から、横から、後ろからの姿を鏡に写す。
 そして、箱にしまう。
 袋に戻す前に、箱を壊れないぎりぎりの強さで抱き締めた。
「ありがとう」

 彼と出会う時にだけ、これで装うことにしよう。
 この想いは、マフラーにして伝えよう。





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