第4章 行方知れずの奇跡



 明日、修学旅行が終わる。夜になってから鷹条は葉野香へ電話をかけた。
 不安になるニュースがあったのだ。
 なかなか出ない。
 ホテルのロビーの外れにある電話ボックスで足踏みすること数回で、彼女が出た。
「もしもし。左京です」

 葉野香は同室の女の子たちに誘われるまま、カードゲームに参加していた。呼出音に、慌てて
電話を握って部屋を飛び出した。出なくても相手がわかったのだ。「ごめん、みんな」と言い残して
ドアを閉める
 その余韻も衰えない直後。
「あれって、彼氏からかな?」
「そうだよ。きっと」
「あんなに焦って出るんだもん。絶対だね」
「例の夏休みに一緒にいたっていう男かな」
「違うかもよ。最近噂聞かないし」
「左京さん綺麗だもんね。彼氏作る気になったらすぐだよ」
「眼帯してた頃はあんまりわかんなかったけど、美人系だよね」
「あたしもあんなルックスだったらな。いい彼どこかにいないかな」
 こんな会話が交わされたのをもちろん葉野香は知らない。

「あ、もしもし、俺、雄吾」
「あ・・・・・明日のことだろ」
「うん、天気予報聞いた?」
「うん」
 どうしても二人の声が灰色の鉛の塊のように沈んでしまう。
 数日前から、東京の南の海上に台風がさまよっている。勢力はかなりのもので、上陸すれば
被害が出るだろうと言われているほどだ。
「明日、東京に上陸すると、困るよね」
 深刻な事態に雄吾の声も湿る。
「そうだ、な」
 葉野香も同様だ。運の悪さが忌々しい。
「こっちも、羽田が使えないと離陸できないっていうんだ。約束の時間に着けるかどうか怪しい
ところでさ」
「来れそうもないのか」
「わからない。本当なら遅くても1時には羽田に降りるから、2時に品川駅ってのは余裕が
あったんだ。台風が逸れてくれたらいいんだけど」
予想進路は千葉県の東部から太平洋となっているのだが。
「直撃するかもしれないよな」
 葉野香も毎日テレビの台風情報を確認していたが、見る度に天気図に引かれる白い点線が
変わっている。

「だから、どうする? 今回は諦めようか? ずっと待たせて、午後が潰れちゃったら悪いからさ」
 葉野香には彼の優しさがわかる。『とにかく待っていろ』なんて言う人ではないのだ。
「・・・・・でも、折角だから、待ってみるよ。もし明日駄目だったら、次は年末になるんだろ」
 今はまだ10月。2ヶ月以上も残っている。どうしようもない現実が雄吾と葉野香の胸に
のしかかる。
「・・・・・うん。そうなると・・・・・思う」
「じゃ、なるべく連絡取り合ってさ。飛行機に乗るまでは携帯使えるだろ。明日の天気次第で
決めようよ」
葉野香が楽観的に言うのを聞いて、少し雄吾も希望を持てるようになった。
「そうだね。俺もお土産渡したいし」
 葉野香はぷっと吹き出した。
「北海道のお土産買ったのか?よせって言ったのに」
 雄吾も辺りの目を意識しながら笑った。
「何かは会ってからのお楽しみ。期待しててよ」
「まったく。しょうがない奴」
「ははは。まあ、明日になったら台風も海側に抜けてるかもしれないし、それを願おうか」
「そうだな。そうなるといいな」
「じゃ、明日行きたいところを考えておいてよ。どこでもつき合うからさ」
「本当だな。実はさ、もう」決めてあるんだ、と彼女が言おうとした時、
「あ、ちょっと待って、カード入れるから」
 テレカが切れるらしい。やはり札幌と東京には遥かな距離がある。
「あ、電話代かかるだろ。あとは明日に会って話そうよ」
「う〜ん、そうだな。じゃ、明日の朝にまた掛けるから。それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」


 葉野香は部屋には戻らず、近くにあった踊り場に出てみた。
 昼間より、心なしか風が強まっている。
 生暖かい、不快な風だ。
 力弱気木の葉がむしり取られて散ってゆく音がする。
 明日1日だけ、せめて雄吾が着くまで台風にはよそへ行っていてほしい。
「左京さん、ここにいたの。早くおいでよ」
 同室の子が誘いに来た。
「うん。ごめん。突然抜けて」
「いいよ。電話終わったんでしょ。続きやろう」
 彼女の後について部屋に戻る前に、葉野香はもう一度だけ灰色の鯨が群れをなして泳いでゆく
夜空を見上げた。

 明日、逢えますように。


 翌日の朝、雄吾は同室の誰よりも早く起きてテレビをつけた。音を小さくしてからNHKの台風
情報にチャンネルを合わせる。
 最悪だった。
 予想進路は西へ移っている。千葉県の中央から茨城、福島と北上し、宮城県付近でやっと
海上に抜けるという。勢力は随分弱まっているが、彼は被害の心配をしているわけではない。
とにかく、よそを通ってほしいのだ。

AM7:00

 全員揃った朝食の席で、担任の教師から説明があった。
 予定より15分早く空港に行くことになった。羽田が閉鎖された場合、再開をそこで待つことに
なる。すべては天候にかかっているが、遅くなってもなんとか今日中には羽田に着けるのでは
ないかと思う。出迎えの家族には学校から連絡が行くが、自分からも電話をしておくようにと。

AM7:30

 鷹条は自宅には電話をしなかった。出迎えの予定などないし、それどころではない。
 すぐに葉野香が出た。
「もしもし、雄吾?」
「うん。俺。まずいな」
「こっちはもう雨になってる。風がごうごう言ってるよ」
「今のところ、今日中に着けるだろうとしかわからない」
「夜中になってから、ってこと?」
「うん。そうなるかも」
「そうか・・・・・こっちでも、交通網がどうなるかわからないから、あまり遠出するなって言われたよ」
「とにかく、あと少ししたら空港に行くから、そこでもっと詳しくわかると思うんだ。また電話するよ」
「わかった。待ってる」

AM8:00

 葉野香たちの朝食が始まった。自由行動になるのは9時半から。どこのテーブルでも、予定と
天候との兼ね合いで困っていた。屋外の施設はコースから外されていく。
 猪狩商業高校では班は男女別々だ。彼女たちのグループはショッピングが主な目的だったので、
それほど影響はないはずだが。
 食事中、ほとんど葉野香は言葉を発しなかった。
 自分に向けられた視線の群れにはまったく気づいていない。

AM9:15

 鷹条たちは数珠つなぎに並ぶ観光バスに乗り込んだ。最後に見た予報では、わずかながら
進路が海寄りにスライドしていた。ひょっとしたら、という砂漠の雨ほどの期待が浮かんでくる。
新千歳空港へ向かう間、外部と遮断された彼は透明な青に澄んだ空ばかり見ていた。

AM9:30

 自由時間になった。
 勢いに弱まりを見せた雨の中、葉野香もホテルを出た。
 のしかかる大理石のような曇天が渦を巻くように蠢く。
 風がまだ剛腕を振りかざしている。
 最初の目的地は青山、表参道。地下鉄でいけばすぐだ。
 葉野香はそのわずかな間にかかってくるかもしれない電話のことばかり考えていた。

AM10:30

 数日前にやってきた空港ロビー。乱れたダイヤを象徴するように待ち人で溢れかえっていた。
運行掲示板は、軒並み出発時間が『ーー:ーー』と未定であることを告知している。雄吾たちが
乗る飛行機はそれでも上の方にあるのが救いなのかもしれないが、このままでは先の予測など
つけようもない。
 携帯を握ったまま、彼は唇を噛むしかなかった。
 台風は確かに進路を変えはじめている。東の海上へ抜けてくれそうだ。だが、それだけでは
足りない。安全が確認されるまで、決して離陸できないだろう。

AM11:30

 ようやく離陸許可が下りはじめたらしい。でも、待たされている飛行機は他にもたくさんある。
実際に鷹条が機上の人となれるのはまだ先のことだ。

PM0:30

 洗練された渋谷のレストランに葉野香たちはいた。彼女は鳴りを潜めたままの電話にやきもき
していた。
 それまでに行った店のことなどすでに忘却されている。みんなが買い集めた物をテーブルに広げ、
軽やかな会話を交わすのも聞かずにいた葉野香の耳に、電子音が響いた。
 席を立ち、出入口の辺りへ走る。
「もしもし、雄吾?」
「もしもし、葉野香。時間がないからよく聞いてくれ。あと少しで搭乗が始まるんだ。乗ったらもう
電話が出来ないから。聞いてる?」
「聞いてるよ。それで?」
「離陸するのがいつだかわからない。滑走路が混み合っているらしいんだ。早くても2時間ぐらい
は中で待たされそうな雰囲気だから」
「2時間だと、3時か4時くらいには着けるんじゃないか。それなら・・・・・」
 期待を込めて言う葉野香。
「いや、これから搭乗手続きが終わるまでに1時間はかかる。全てがうまく運んでも、6時は過ぎる
と思う」
「それじゃ・・・・・」
 葉野香は、6時には班の全員が揃ってホテルに戻っていなくてはならない。だから最寄りの駅に
5時半に待ち合わせをするつもりでいた。

 間に合わない。

 雄吾もそれがわかっていた。
「ついてなかった、ってことかな」
 聞き取れないほど小さな声で、彼が言った。
「そうだな」
「だからさ、今日はみんなと一緒に東京をまわってよ。もうそっちも晴れてきたんじゃない?」
 努めて明るい声を出している雄吾。
 葉野香には、それができない。言葉を詰まった管から押し出すように話す。
「ああ、晴れてるよ」
「せめてもの救いだよね。もう行かなくちゃなんないから、ごめん、切るよ」
「ああ。わかった。じゃ」
「また電話するから」

 切れた携帯を弱々しく握ったまま、葉野香は席に戻った。

 雄吾は猛然と走り出した。
「おい、鷹条! どこに行く! 列に並びなさい!」
 引率の教師が慌てて呼び止めようとする。
「すいません、トイレ行ってきます!」
 そう言い捨てて、空港の人並をすり抜ける。
「トイレなら飛行機の中にも・・・・・」という声が雑踏に紛れていく。
 ラガーマンがタックルをかわすように、人と人の隙間に身を踊らせる彼。
 目的地は、外。





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