第3章 埋もれていた円環



 不景気という言葉がどこか彼方に行ってしまったようだ。TV放映があってからというもの、連日
北海軒をはじめとする半ラーメン参加店は、行列が絶えないほどの盛況ぶりを見せている。味が
比較されるのを嫌がった店舗なども、参加の意向を示すようになった。企画開始時には予想もして
いなかった反響の大きさに、ラーメン横町の組合もこの機会を捉えて活性化を図ろうとしていると
いう。

 葉野香にとっては、店の手伝いに追われて編み棒になかなか触れることができないのが悩みの
種となったが。
 簡単なものなら、そう時間はかからない。
 でも、このマフラーは精一杯凝ったものにしたかった。
 眠る前の僅かな時間、着実に面積を広げていく。
 模様の一つ一つに、一緒に過ごした夏の記憶が織り込まれる。
 修学旅行まで、あと2週間。


 テレビ出演から1週間後のことだった。
 学校から帰った葉野香は、ポロシャツにジーンズ、そして懐かしい顔を、混雑している店の
カウンターに見つけた。達也と談笑していた彼のことは、子供のころから知っていた。

 館林修。兄貴の親友だった人。

 こっちに気がついた彼は、軽く手を挙げた。
「葉野香ちゃんか?久しぶり。俺だよ。わかる?」
「そうそう忘れたりしないよ」
 そう言って、名前を呼ぼうとした。
 なんて呼んでたっけ、子供の頃。確か、『しゅうちゃん』だ。オサムと読むのだが、みんなそう言って
いた。でも、もう今となっては照れくさい。
「修さん。帰って来たの?」
「来月から室蘭に転勤になるんで引っ越ししてるんだ。そしたらテレビでここがやってたからさ、
早速駆けつけたってわけ」
 笑うと、昔の面影がそこかしこから溢れる。
 彼、館林修は幼稚園からの達也の親友だった。
 面倒見がよく、少し年が離れていたせいで妹と遊ぶのを避けがちな達也をなだめて、よく3人で
遊んでくれた。
 兄が非行に走りはじめた中学1年の終わりに、家の都合で札幌を離れ長野へと引っ越して
しまっていた。最後まで達也を心配し、間違った道へ入り込むのを止めようとしてくれていたのを
憶えている。
もし、ずっと彼が兄の近くにいたら、達也もあれほど激しく罪を犯さなかっただろう。親友が隣に
いなくなったことが、彼の寂しさに拍車をかけたのは間違いない。

 最後に会った時はまだ小学生で、布団にくるまって泣いたのを思い出した。
 もちろん今はあの時よりずっと大きく、好感の持てる青年になっていた。再会できたのが嬉しい。
「うちのラーメンも久しぶりだろ。兄貴のラーメンはどう? 合格?」
 どうやら半ラーメンではなく北海軒のだけを頼んだようだ。
「立派なもんだ。これなら繁盛してるのもわかるよ。親父さんもきっと喜んでるだろうな」
 しみじみとスープだけが底に残る器を見る彼。
「親父のこと、聞いた?」
「さっきね。いろいろ大変だったんだって?」
「全部兄貴のせいだよ」
 きっぱりと言い切る葉野香。
「うるせー。もう言うなって」
「でも達也もすごいよ。店に入った途端に『シュウだろ!』だもん。よくわかったよな」
 不機嫌なふりをする達也とフォローする館林。このあたりは昔と同じ役回りのようだ。
「もうピンときたね。やっぱ雰囲気そのまんまだからな」
「それはお互い様だな」
 3人とも朗らかに笑った。
「さて、あまり長居すると待ってるお客さんに悪いから、そろそろ帰るわ」
 そう言って席を立つ館林。
「そうか? ま、それもそうだな。俺も落ち着いて話せないし。今度ゆっくりしていけよ」
「そうするわ。それじゃ・・・・・」
 財布を取り出そうとする彼。それを見て達也が「おおっと、そいつはなしだ」と止めた。
「そうはいかないだろ。こういうのはちゃんとしないと。なあ、葉野香ちゃん」と彼女を振り返る館林。
しかし葉野香は、「修さんからお金取るわけないだろ。いいから」と、達也と同意見。
「でも一応客のつもりなんだけどな」
 他のお客の目が気になるようだ。
「修さんはお客じゃないよ。だからいいの」
「でもさ、やっぱり」
 渋る親友に達也がきっぱりと言う。
「シュウ。お前もうちが頑固者の家系だって知ってるだろ。どうしたって受け取らないぜ。俺も
葉野香も」
「そうだったな。わかった。ご馳走になっておくよ」
 彼は苦笑を浮かべて財布を尻ポケットにしまった。
「それでいいんだ。また来いよ。いつでもな」
「ああ、電話するから。葉野香ちゃんも、また今度な」
「うん。じゃあ、また」
 葉野香が出口まで送る。
 手を振って歩き去る彼。
 再会というシーンはこうして終わった。


 そして一足早く、鷹条が修学旅行の日を迎えた。
 たった一度のことだが、一人旅を経験したことで荷物の優先順位がわかるようになった。使うもの
だけを夏に使った鞄に要領良く詰めてある。母親の「気をつけなさいよ」とのくどいくらいの言葉を
背中に受けて家を出た。
 北海道の空気から離れて2ヶ月。
 北海軒や須貝ビルを見れば懐かしく感じることだろう。
 でも、東京に帰ってきてからの予定の方がよっぽど楽しみなのは皮肉だ。
 明日には彼女が東京にいる。
 自分が旅行をキャンセルしたところで、ずっと会っていられるわけではない。それでも巡り合わせの
悪さに落胆した。なんとか大急ぎで戻って、会える時間を増やしたい。この5日間で最も行きたい
ところが東京にあるというのは学年で彼だけであろう。


 翌日には葉野香も出発した。
 初めての東京行きだ。首都。大都市。中心。流行の発信地。
 そして、雄吾がいない街。
 学校行事である以上、博物館や美術館、史跡に仏閣と、高校生が当然のように無関心な
スポットがコースの大半を占める。奈良や京都に行く学校では、入場した木造建築以外の建物は
ホテルだけだったというのも珍しくない。
 誰もが最終日の自由行動を待ちこがれている。
 移動の飛行機、バスでの話題も当然ここに集中する。
 渋谷、新宿、青山、原宿。
 限られた時間でどれだけ歩きまわるかをガイドブック片手に協議する同じ班のクラスメート。
葉野香は言葉少なに応じながら、どうやって当日に一人になろうかと頭をひねり続けていた。
単独行動は教師たちに厳しく禁止を言い渡されている。自分はともかく、みんなにまで類が及ぶ
のは絶対にまずい。
 それと、理由を知られるのも困る。また噂になる種を蒔くようなものだ。
 窓の外を流れゆく異郷の風景を眺めながら、彼女の思案は続いた。


 札幌付近がコースのメインだった鷹条のクラスは、旧道庁など彼にとっては馴染みのある場所を
多くまわった。かつて二人で歩いたところをバスで通るたびに、ダイヤモンドのような太陽と軽やかな
風、そして律動的な葉野香のステップが思い出された。
 今頃、どうしてるだろう。


 猪狩商業高校のコースは学校の伝統とかで、上野、葛飾といった30年以上も前の感覚で設定
されていた。あたりは同じ修学旅行生と、お年寄りの団体ばかり。ほぼ全員が翌日のディズニー
ランドに関心を向けていた。
 東京と一口にいっても広い。雄吾が暮らしている街はもっと西の方にある。そっちに行く予定は
入っていない。
 つまんないな。
 今頃、どうしてるだろう。


 札幌での自由行動の日。鷹条の班は小樽へ向かった。彼は、最後に北海軒などに寄れれば
それでよかったので、何も不満はなかった。夏に琴梨ちゃんと来たところは、やはり代表的な名所
なのだろう。自然とそこを再確認するようなコースになった。案内板もガイドブックも見ずに歩ける
彼は、いつのまにか班のメンバーを先導するようになっていた。

「ねえ、次はガラス細工のお店に行こうよ」
 8人編成の班は、男女4人が混合されている。こういう時、女の子の方が発言力が強い。
「そんなのあったっけ?」
「本で見たよ。どこだったかなぁ」
市内案内のパンフレットを広げようとする彼女。みんなが集まってのぞき込む。
「運河工芸館ならこっち。すぐ近くだよ」
 一人、輪の外に立って教える彼に訝しげな視線が集まる。
「あっちなの?」
「そう。行こう」
 鷹条が歩き始めると、みんなが彼を囲むように一緒に歩く。
 そのうち一人が、「鷹条って、ここに来たことあんの?」と尋ねた。
「水族館でも、鷹条クン初めてじゃない感じしたよ。ねぇ、来たことあるの?」
「そういや、トイレの場所まで知ってたよな。ガイドブックで調べたわけじゃないんだろ」
 実は学校の誰にも、夏の旅行のことは話していなかった。
 出しゃばると思われるのを避けていたせいだ。
 どうやら黙っていても、振る舞いの端々に経験が染み出していたらしい。ためらいがちに、
「前に一回だけ、観光に来たんだ」と答えた。
「いつのこと?」
「こないだの夏休み」
 すると大きな声で口々に
「だったら、そう言ってくれればいいのに〜。詳しいんでしょ。助かるわ〜」
「んじゃさ、昼飯にうまい店教えてくれよ」
「あたし、デザートがおいしいとこがいいな〜」
「オルゴールホールって、どんな感じ?」
などと質問が相次いだ。戸惑う彼をよそに、この日のホスト役に任命されてしまった。

 小樽から札幌へと戻る電車の車内。無駄のない観光ルートをとれたと、みんなが喜んでくれた。
「やっぱ、わかってる友達がいると助かるよな」という一人の言葉に揃って頷く彼ら。
『友達』という言葉が、鷹条には夜明けを告げる鐘のように響いた。

 今ここにいる彼の友達は、事件の時もずっと彼の正しさを疑わずにいてくれた。
 そんな彼らに失望や悲しみを与えてしまったと、自分を責め続けた鷹条。
 だがようやく、与える慰めも受ける自己嫌悪もないコミュニケーションを取り戻せる日を迎えたの
かもしれなかった。

 彼女と話す時のように。





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