第2章 奇妙で非日常的な日常



 木の葉が舞い落ちるにはまだ少し早すぎる。
 人工的な自然しかない東京の秋は鮮やかではない。
 灰色に濁っていなければ、空もきっと吸い込まれるように高くなっているのだろう。
 あの北の街のように。
 鷹条雄吾は、アルバイトの面接を受けたところだった。

 左の腕に鈍い痛みが走る。
 今夜は秋の冷たい雨が、この街の舗道から夏の名残を追い立てるのだろう。

 そのケーキショップを選んだのは、第一に場所だった。
 自宅から遠くないこと。
 そして、学校から近くないこと。

 あの旅行で、失っていた大切なものを持ち帰った彼。
 そのことが、違う形で彼に苦悩を与えることになっていた。
 自分を隠すことに慣れていた彼と周囲。
 だが、葉野香と出会った彼には、そんな行為が臆病と逃避でしかないことが痛切に胸に響いた。
 もう彼には過去を牽きずるつもりなどない。
 いつか彼女にすべてを打ち明けられるよう、洗い立てのシャツのようになりたかった。

 それでも、事情を知るものはあまりに多い。
 豹変したように己の傘をしまえば、不審と反感を買うだろう。
 それだけのことがあったのだから。
 だから知り合いが立ち寄りがちな街は避けた。

 少しずつ、他人との自然な付き合いができるように、敢えて接客業を選んだ。

 ケーキショップには男性客が少ないことも理由の一つだ。
 別に女性と話がしたいわけではない。
 あの一件への関心は男性の方が高いからだ。

 そして勉学に支障がないように、重労働は避けなくてはならなかった。まだいい成績が彼には
必要だった。

 数日後、採用の電話があった。
 再び彼女と逢うために自分の時間を使えることは、決して苦痛ではなかった。



 それからしばらくして、札幌でちょっとした出来事があった。

 9月の末になり、制服の冬服をクリーニング店の袋から出していた葉野香は、兄がやたらと大きな
声で騒ぐのに閉口していた。
 理由は、その日かかってきたTV局からの電話だ。なんと、地方局の夕方の番組で、北海軒を含む
半ラーメン参加店を取り上げてくれることになったらしい。好評なこの企画を耳にはさんだ関係者が
いたのだろう。もちろん兄貴は二つ返事で承諾した。
 葉野香だって異存はないが、「これで北海軒も全国に有名になる!」と、兄のようにはしゃぎまわる
ことはない。そもそも地方限定の番組だというのに。
 第一、生放送なので失敗をしでかせば逆効果になりかねない。兄貴が出してもらえるかはわから
ないが、今の浮かれた様を見てると不安になる。


 数日後、下見のためにTV局のスタッフが何人もやってきた。
 たまたま葉野香も居合わせた。
 兄貴に質問するスタッフ。店の撮影方法を打ち合わせるスタッフ。何をしているのかわからない
スタッフ。いろいろいた。
 もともと葉野香は、マスコミやメディアに否定的な印象を持っていた。商業主義で動いていながら、
善人ぶって涼しい顔をしているような偽善を感じるのだ。だから端の方で黙って立っていた。

 すると突然、「あなた、妹さんね」と声をかけられた。
 その女性はスタッフの中で一番偉いらしく、てきぱきと指示を出し、メモを取っていた。いかにも
キャリアウーマンという感じだ。
「あなたも、お店を手伝ったりするの?」
 にっこり笑って尋ねてくる。
「時々は」
 清美さんが戻ってからは、だいぶ減ってはいる。二人が気を遣ってくれているようなのだ。
「じゃあ、お店の紹介しない? 北海軒はこれこれこういうお店ですって言うだけでいいから」
 それって、TVに出るってことだよな。
 柄じゃない。

「嫌だよそんなの。兄貴がやればいいよ」
 あっさり断った。普通の女子高生だったら小踊りして喜ぶところだろうが。
 意外な反応にこの女性も残念そうだった。
「う〜ん。もったいないなぁ。北海軒の看板娘って感じで視聴者に受けそうなんだけどねぇ」
「あたし、そういうの駄目なんだ。兄貴か清美さんにやってもらってよ」
 そう言って、階段を登り自室へ向かう葉野香。その背中に、「春野さん。次の店なんです
けど・・・・・」
というスタッフの声が聞こえた。

 少しだけ頭をよぎったこと。
 全国放送だったら、雄吾が見るのにな。


「こちらが北海軒。いま話題の半ラーメンを食べられるお店なんです。入ってみますね」
 葉野香も見たことのある地方局の女性レポーターが声を張って紹介する。
 撮影の日、彼女は収録の様子をカメラの外から眺めていた。
 あからさまに緊張をさらけ出す兄貴と、化粧に気合いの入った清美さん。店の外には観光客や
通りがかりの市民が集まって見物している。完成した半ラーメンを、当日偶然に来店したお客に
味わってもらって感想を尋ねることになっている。選ばれたのは、背の高い、ショートカットの
綺麗な人。最近の常連さんだ。
 なんと半ラーメンではなく、フルサイズのラーメンを注文するというたいした女性なのだ。
 北海軒のラーメンに続き、隣の店からも器が届けられる。
「お味の方はいかがですか?」
 レポーターが質問する。
「おいしいよ。スープにコクがあってさ。ここ、あたしのお気に入りなんだ」
 快活に答える彼女。
「でも、お一人で2杯はすっごいですね〜」
 たいていレポーターとは大げさなものだが、この場合は素のまま驚いているようだ。
 しかし彼女はあっさりと、「え、そーかな。普通だよ」


 なんとか北海軒の出番はつつがなく終わった。それを汐に葉野香は二階に上がった。
続いて隣の店で撮影が始まっている。そこで出るのはまた違う店のラーメンということになっている。
「ふぅ・・・・・。つっかれた〜」
「やっぱり緊張するわね。肩凝っちゃった」
 ほっと一息をつけるところだと思った達也夫婦だったが、撮影終了を待ちかねたようなお客が
続々と入ってくる。まだ夕食には早い時間のはずだが、すでに席を待つ長い列ができていた。
「こりゃ、すごいことになったな。清美、葉野香呼んでこい。とても手が足りねぇや」
 慌てて清美が葉野香の部屋に行くと、彼女は机に向かい、両手で頬杖をついて夕焼けに染まる
空を眺めていた。
 背中が沈んだ愁いを帯びているように映り、一瞬、清美は声を掛けるのを躊躇う。
「ええっと、葉野香ちゃん。ちょっと下、手伝ってくれない。すごく忙しくなったの」
「いま、いく」
 そのままの姿勢でもの憂げに呟く葉野香。
 義姉は気になったが、忙しさを考えなにも言わずに戸を閉めて降りていった。

 明日、学校でいろいろ言われるだろうな。
 「テレビ見たよ」「すごいじゃん」「あたしも行ってみたい」
 なんて返事をしよう。
 「見てくれたんだ。ありがとう」「たいしたことないよ」 「うん、来て。サービスするからさ」
 笑ってそう言えるだろうか。

 言えたなら、あたしは普通の女の子になるのかな。
 テレビに出ていたら、普通の女の子になるのかな。

 自分に正直になると、あたしは癖の強い、ひねくれた17歳。
 素直になると、ぶっきらぼうで淑やかさなんてない。
 仮面で他人の目から隠していた自分の姿。
 いつのまにか、自分でもそれがどんな形なのかを「どうでもいいこと」にしてしまっていた。
 積もった塵を拭って陽光にさらした素顔はいやになる位、かわいげがなかった。
 左京葉野香らしい左京葉野香って、どんな奴なんだろう。
「行かなくちゃ」
 彼女はエプロンを手にして部屋を出た。





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