第1章 古い河から流れゆく砂



 札幌の空を司る神様は、東京より忙しいようだ。
 9月のカレンダーにも見慣れた頃には、そっと、そして確実に青空の色合いを薄めてゆく。
 ひとときの日差しも走り出した風とともに去り、想い出だけを残し帰ってこない。
 まるで、旅人のように。

 ようやく噂が落ち着いたようだ。
 始まった猪狩商業高校の2学期。あちこちのクラスで左京葉野香の名前が囁かれていた。
葉野香自身、こういうこともあるかなと考えてはいたが、甘い予想を嘲るように空虚な会話が
飛び交っていた。

 始業の日、葉野香は眼帯を引き出しにしまったまま家を出た。
 夏の出会いがそうさせた。
 もう必要ないものだったから。
 学校で誰かがこのことに触れたら、なんて答えるかばかり考えていた。突き放すような返事は
したくなかったし、だからといって、急に可愛い気のある女のような振る舞いなんかできるはずも
ない。
 なるべく、遠回しに、曖昧に答えよう。そう決めて学校の門をくぐった彼女を、マイノリティでも
来たかのように好奇の視線が突つき回した。

 窓際の自分の席に座ると、待っていたかのように何人かの女生徒が声をかけてくる。これまで
ろくに口もきいてなかったのに。
「おはよう、左京さん」
 いくらか遠慮がちではある。
「・・・・・おはよう」
「あれ、今日は眼帯してないんだ」
 わざとらしい言い方だが、文句をつけるほどのことではない。
「うん、まあね」
 素っ気なく、でも冷たくないように返事ができる。
 この夏に憶えたことだ。
「それって、彼氏に言われたの?」

 どういうこと?
 驚いて周りを見ると、教室にいるほとんどの生徒が聞き耳を立てている。
「か、彼氏なんていないよ。何の話さ」
「えーっ。だってさぁ、2組の娘が言ってたよ。デートしてるの見たって。なんか・・・・・」
話を聞くと、どうやらサッポロファクトリーでもプールでも、雄吾と一緒にいるところを見かけた生徒が
いたらしい。
 たった一日のはずなのに、その後も何度もデートをしていたという話になっていた。誰が見たとか、
あそこに行っていたとか、作り話か見間違いか知らないが、有りえるはずのないことだった。
とっくに雄吾は東京に帰っていたし、目撃場所も行ったことのない所ばかりだった。
 彼が札幌に残っていて、葉野香に似た女の子と会っていたとすれば噂も事実に近づくが、そんな
ことはありえない。
「・・・・・それはあたしじゃないよ。テキトーな噂。真面目に取り合うなよな」
 それなのに、なぜかどぎまぎとしてしまう。クラスメートは一層疑いを強めたかもしれない。
「そうなのぉ、ほんとに? なんか雰囲気も違うし、いいことあったって感じだよ」
「別に、なんにもないよ。眼帯だって、明日はしてくるかもしれないし。ただの気まぐれだから、気に
すんなよ」

 いいことあった。その言葉で頬が熱くなるのがわかった。
 誤魔化そうと外に顔を向けたが、うまくいっただろうか。

 その場はそれで収まったが、噂は次々と形を変えて唇から耳へと伝染を続けた。
 相手はどこの高校の3年生だとか、ドライブに出かけるところを見たとか。

 最初は、無責任に楽しむ周囲が腹立だしかった。もう一度眼帯をつけようかと、引き出しに手を
かけたこともあった。そうすれば状況は一転するはずだ。
 貼られる「不良」のレッテルは怖くない。
 でも、雄吾の前だけで素顔でいるのは、彼に嘘をつくのと同じことのように思える。
 ここで後戻りしたら、彼と出会ったことが無駄になってしまう。
 彼がしてくれたことも。
 我慢しなきゃならないのは、これまでの自分のせい。
 自分でも変わろうとしているのだから、噂になるのも仕方のないことなんだろう。

 口数少なく応じていると、飽きが来たのだろう。クラスメートの関心は修学旅行や学園祭に移って
いった。実際に会っている男などいないのだから、無根の噂はそう続くものではないようだ。
 よかったのは、周囲と普通にに話ができる環境になったこと。
 脅かしてるつもりはなかったが、周りから「避けた方がいい」相手だと思われていたし、それを
わざわざ修正しようとも思わなかった。
 自分のことを知らせて、その代償に相手のことを知るような人間関係が嫌だった。

 今では、わかってきた。

 それは、私が自分を大嫌いだったから。
 意地っ張りで、粗雑で、冷たくて、感情的で。
 どうしても隠しておきたかった、自分。

 潰れかけた店のことも、両親を亡くしたことも、知られたくなかった。同情されたくなかった。

 まるで、空っぽの巣を守る鳥みたい。
 相手を威嚇して、追い払って。
 怯え、恐れるが故に吠えたてる野良犬。
 そんな自分をマトモだと思っていた。
 雄吾の言葉や、振る舞いに出会うまでは。

 最後のあの夜。別れ際に好きな色を尋ねておいた。
 ダークグリーンと答えた彼。
 次の日にはもう毛糸を買いに走った。

 まだ、自分の気持ちをはっきりとした単語で形作ることができない。グリーンのマフラーを編む夜は
感情が波のように高まり、突然深く沈んでゆく。何時間でも集中できたり、反対に編みかけを胸に
抱えてぼぅっとしてしまったり。

 そんな時、ふと思う。
 こんなのが、普通の女の子なのかな・・・・・

 自然に振る舞うというのは、眼帯を外すようにはいかない。
 わがままな女にも、感情剥き出しの人間にもなりたくない。
 冬が降りてくるまでに、あとどれだけ時間があるだろうか。

 今ごろ、雄吾どうしてるだろう。
 勉強してるかな。
 もう寝たかな。
 あたしのこと、忘れたりしてないよな。


 北海軒の電話が鳴ったのが聞こえた。
 出前の電話は最近絶えない。時には葉野香も手伝っている。清美さんだけでは手が足りない
こともある。繁盛している証拠なので、面倒だとは思わないけれど。
「葉野香ちゃん」
 下から清美さんの声。やっぱり出前かと編みかけを置いた時、
「電話よ。お友達から」
と続いた。
 友達。雄吾かな。
 期待が行動に直結し、大急ぎで階段を駆け下りる。
 義姉から保留メロディが流れる電話を渡され、逸る気持ちを我慢しながら自室へ持っていく。

 北海軒のカウンターの中では、夫婦が顔を見合わせて微笑んでいた。
「あいつだろ」
「そう」

 保留ボタンを押す、つもりが危うく外線ボタンを押しそうになる。
「もしもし、葉野香です」
 雄吾からでありますように。
「もしもし、葉野香? 東京の雄吾だけど」
電気信号に分解され、再び寄せ集めた電話の声。それでも、1ヶ月ぶりの彼の声だった。
「あ、雄吾か。久しぶりだよな」
 しっかり受話器を持たないと滑り落ちてしまいそうになる。水の安らぎと炎の興奮が感情の
過半数を競いあっている。
「えっと、元気だった?」
「あたしはね。ああ、兄貴も清美さんもね。そっちは?」
「元気だよ。調子いいくらい」
「そうか」
 会話が途切れる。次に会ったら話そうと心のメモ帳にストックしてある出来事。それがどこかに
行ってしまった。なにかいわなきゃ。
「・・・・・それでさ。ちょっと聞きたいんだけど、いいかな」
「いいよ。なに?」
 もしかして、ただの用件電話なのかな。
「来月の16日って、予定ある?」
「え、えぇっと・・・・・」
 16日? その頃は確か修学旅行だった。
 そう答えると残念そうな声が響いた。
「そっか、それじゃしょうがないなぁ」
「しょうがないって、なにがさ」
「うちの学校、修学旅行が北海道なんだ。札幌で一日、少しだけ時間ありそうだったんだよ」
 そうだ、東京の高校は北海道コースが多いんだ。
「こっちに寄る・・・・・つもりだったのか?」
「そりゃそうだよ。折角のチャンスだもん。まあ、せいぜい2、3時間ぐらいしか自由にならないけど
ね」
「そうか・・・・・」
 たった2時間でも、学校の友達との時間を割いてくれる彼の気持ちが嬉しい。
「でも、葉野香いないんじゃなぁ」
「あ、あたしも修学旅行は東京だよ。ちょっと待って、あたしも日程見てみる」
 ほとんど目を通していないしおりを探す。あった。自由行動のできるのは・・・・・
「雄吾。17日って、東京に戻ってるのか」
「17は、帰る日だな。午前の飛行機で羽田に着くことになってる」
「あたし、その日が自由行動になってる。自由っていっても、班単位で動かなきゃならないんだけど」
 どうせ渋谷とかに行くことになるだろう。
「一人になれる?」
 彼の言葉に期待を感じた。
「・・・・・無理、じゃないとは思う」
 あたしが少し抜けたぐらいで、問題にはならないはず。わざわざ告げ口する奴もいなそうだし。
それに、叱られるぐらいのことならどうってことない。雄吾に会えるんだから。
「それじゃ、会おうよ。どこかで待ち合わせしてさ」
 会いたい。すごく嬉しい。でも。
「帰ってきてすぐじゃ、疲れてるだろ。帰らなくていいのか」
 無理を強いるようなことはしたくない。しかし彼は、さも嬉しそうに答えた。
「平気平気。あ、北海道のお土産買っていくよ」
「あたしが貰ってどうすんのさ。あたしも『ひよこ』とか買っちゃうぞ」
 二人とも笑った。
 それからいくつかの具体的なことを決めたところで、キャッチホンが入った。
「あ、ごめん雄吾。キャッチ入った。たぶん出前だと思う」
「わかった。じゃ、切るよ。17日楽しみにしてるから」
「うん。それじゃ」

 出前の注文を受けて、下へ行って兄貴へ伝える。
 電話を戻し、部屋に戻った。

 突然、修学旅行が待ち遠しくなった。
 今夜はもう、編み物をしていられない。
 彼が札幌を去る時、見送りに行けなかった。
 ひどいことを言ってしまった彼の従姉妹の子に合わせる顔がなかったから。
 最後に会ったあの夜から2ヶ月。こんなに早く再会できるとは思いもしなかった。

 葉野香は、カレンダーのその日に小さく印をつけた。





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