第9章 We'll meet again



 サッポロファクトリーの店内は冷房が効き、夏休みの混雑でも東京のようなべとつく熱気は
除かれていた。物珍しげに光の差し込む天井を眺める鷹条。
「おい、こっちだよ、こっち」
 葉野香の声に、エスカレーターの前で待つ彼女に早足で追い付く。
「ここ、いいな。広くてきれいで」
「最近できたばかりだしね。あたしもたまに寄るんだ」
 同じ段に並んで乗る。
「で、何か買うの?」
「水着。あたし持ってないからさ。鷹条が選ぶんだぞ」
 悪戯っぼく微笑む。
「えぇ? 俺が? センスないぞ。そもそもわかんないって」
「いいから。あたしが幾つか候補にするから、そこから決めればいいの」

 その時、後ろからエスカレーターを急いで登る男性がいた。
 葉野香は気がつかない。
 その人を通そうと、雄吾は片腕で彼女をそっと引き寄せた。
 二人の顔が思いがけず接近する。
 まず驚き、追い抜いていった人に気づき納得し、恥ずかしさに少し赤くなり、慌てて照れ隠しに
「バカ。くっつくなよ」と文句をいう。
 そんな彼女の表情のすべてが、鷹条にはいとおしい。

 水着売り場に到着。当然ながら、この手のことにまったく疎い鷹条は、場違いな空気に居心地
悪さを堪えながら、葉野香の後ろについてまわるだけ。ショッピングを楽しむ姿はさすが女の子
らしく、彼女は形、色、柄、値段と各点を吟味してピックアップしていく。
 葉野香はワンピースの赤と白。それに黒のセパレーツが気に入った。
 それぞれを試着し、意見を彼に求める。
 彼の方は、どこを見ていればいいのか困りながら、「それもいいな」を繰り返す。そして結局、
黒のセパレーツを選んだ。黒く長く、そして綺麗な髪に似合うように感じたのだ。

 早速、プール「札幌SPAランド」へ向かう。
 受け付けを済ませ、プールサイドに先に出たのは雄吾だった。こういう時男は手軽でいい。軽く
体をほぐしておく。準備運動の大切さは身に染みている。両手を頭の後ろで組み、背筋を伸ばして
いると、「ぱちん」と軽く背中を叩かれた。
「お待たせ。じゃ、泳ごうか」
 葉野香はそう言って、さっさと手近なプールに入ろうとする。
「駄目だよ。いきなり水に入ったら。ちゃんとストレッチしないと」と呼び止める鷹条。しかし彼女は
なかなか彼の方を向かない。「そ、そうだな」と答えるものの、腕を組んで立ったままだ。
「どうしたの?」
 不自然さに尋ねてみる。
「あのさ・・・・・」
「?」
「あんまり、見るなよな。恥ずかしいからさ」
 そういうことかと、やっと彼も納得した。さっき水着を選んでいた時には平気そうだったのに。
 微妙な女心なんだろうな。
 結局、彼と彼女は背中合わせでストレッチをした。

 葉野香は、子供の頃から水泳は好きだった。もともと運動神経が良かったのか、スピードのある
フォームが自然に身についていた。ただ、遊ぶためにプールに来たことはなく、どうしたらいいか
よくわからない。ボール遊びをしているカップルもいるが、ボールもないし、第一どうも照れくさい。
 困った挙げ句に言い出したのは
「競争だ!負けた方がジュースおごるんだぞ」
というデートらしからぬ宣戦布告。非常に彼女らしい。

 結果は、葉野香の負け。
 差は少なかったものの、まだ鷹条には余裕があるようだった。男だからそもそもの体力が違う
のはわかるのだが。
 改めて彼の体を見ると、均整がとれていて無駄な脂肪がないように思える。まるで盛り上がる
ように筋肉がついているのだ。
「鷹条って、なにかやってるのか? 部活とかでさ」
 聞いてみた。するとあっさりと否定された。
「部活やってたら、旅行にはこれないよ。運動は、通学で自転車に乗ってるくらいかな」
 自転車か。あれも毎日使っていると運動になるのかな。
 そんな風にしか思わなかった。左腕にある白く長い傷のことも、目には付いたが訊ねてみようと
まではする気にならずに。

 ウォータースライダーや各種の個性的なプールを巡り、ひとしきり楽しんでから昼食で一休みする。
鷹条が二人分のテーブルを確保し、葉野香がスタンド型の売店へ行く。
「買ってきたよ。鷹条はコーラだよな」
 ジャンクフードとソフトドリンクをトレイに乗せて戻ってきた彼女。
「けっこう並んでるから、時間かかっちゃった。じゃ、食べよ」
「あ、あのさ」
 ドリンクを手にしたままの鷹条が、落ち着かない様子で話しかける。
「なに?」
「あの、さ・・・・・」
「なんだよ。言いなって」
 もどかしげに応える葉野香。もう水着でいることにも慣れて自然にしていられる。
「俺のことさ、これからは鷹条じゃなくてさ、名前の方で呼んでくれないか」
 彼が人見知りをしている子供のように照れているのがわかった。
 時を置かずして彼女にも伝染する。
 言葉のことだけなのに、急に親密になったように感じる。
「いい、けどさ。あの、ゆ、雄吾はさ」
 実際に口にしてみると更に照れてしまう。
「あたしのことなんて呼んでたっけ」
 虚を突かれたように、雄吾が額に指を当て考える。
「俺は、名字とか名前とかで呼んだことないのかな。左京さんとかって、言った記憶ないから」
「じゃあ、あたしのことも名前で呼んでいいよ。そうじゃないとおかしいだろ。不公平で」
「わかった。そうするよ」
 ふと顔を見合わせて、妙に真剣だった会話に吹き出す。
「あ、でも『ちゃん』とかつけるなよ。あたし、そういうの似合わないんだから」
 柔らかく和んだ空気の中、「雄吾」と「葉野香」は食事にとりかかった。

 屋外プールからサウナまで堪能した二人が、心地よい疲労を感じながら札幌SPAランドを出た
のはもう夕方だった。
 それから雄吾の希望でサッポロファクトリーへ戻った。
 買い物をしたいという。
 葉野香も女の子。ウィンドーショッピングが楽しくないはずがない。はずむ会話に任せてあちこちの
店舗に立ち寄る。洋服。インテリア。CDショップ。鞄。そして帽子。
 一角にある時計店で、彼が葉野香に尋ねた。
「葉野香はさ、このなかでどれがいいと思う?」
 指し示すのは並べられたスウォッチの一群。カラフルなものからシックなものまでかなりの数が
ある。
「へぇ、スウォッチ好きなのか?集めてたり?」
 意外とは思わなかった。そういうのが好きそうな印象。
「集めてはいないけど、ほら」
 そう言って左手首を出す。手の甲を右手で覆うように。
「これもそうだよ。こないだ見つけてさ。けっこういいだろ」
 地味なデザインみたいだが、細かく細工がしてある。
「気に入ってるな、それ。あたしもいいと思うよ」
「だろ? でも、同じようなのが二つあってもしょうがないから、どれか選んでよ」
「あたしが? 雄吾が使うんだろ。難しいよ」
 そう逃げると、「水着選ばせたくせに」と笑う彼。
「わかったよ、もう」
 ちょっとだけ拗ねてみせる。
「じゃあ、えっと・・・・・」
 葉野香が選んだのは、ライトブルーの鮮やかな夏らしい時計だった。満足そうに雄吾はそれを
レジへ持っていった。

 夕食をスペイン料理店。あらかじめ昨日のうちに鷹条がガイドブックで探しておいた店だ。
 料理が届く前に、葉野香が北海軒に電話を入れた。うまくいっているとの返事に、二人は
ジュースで乾杯した。
 再び路上に戻った時には、札幌全体がクリスマス・ツリーのように夜の闇に輝いていた。

 葉野香は、彼を丘の上にある公園へと誘った。
 意図的に忘れようとしていた、残された刻の少なさが冬の氷雨のように彼女を痛めつける。

 水銀灯に照らされたスロープ。
 蝉の独り語りが鳴りを潜めると、草むらのなかからの鈴のような囁きが二人の足音とハーモニーを
奏でる。

 どちらも、夕食を終えたとたんに無口になった。
 いま向かっているところがこの夏の終点。

 葉野香は今日のことを思い返していた。
 もっと素直になろう。
 そう思って過ごした初めての日。
 もう硬く冷たい仮面は捨てることができた。
 悩むのだって、つらくない。
 でも、まだまだつまらない意地を張っている。

 もし明日も雄吾と一緒にいられたら、もっと変わっていけるのに。
 もしもっと前に雄吾に出会っていたら、もっといい時間を二人で過ごしていられたのに。
 どうしてこの丘はこんなに低いんだろう。
 もっともっと高かったら、ずっと登っていられるのに。

 丘の頂上にある、札幌を一望できる展望台。
 まるで彼らのためだけに用意されたかのように、人影はなかった。
 欄干の上に両腕を預け、荒れる海のように打ちつける思惟の波を静めようとする。
 静寂の音を紡ぎながら風が葉野香の髪をなびかせる。
 鷹条は、同じようにして隣に立った。


 雄吾は街の輝きなどまるで視界に入っていなかった。
 ここまでの日々を撮影したフィルムをひとつひとつ思い出す。
 つぎはぎだらけの心を引きずってやってきた札幌。
 霧のかかった迷路で立ちつくしていた夜。
 雨のひと滴のように流れ落ち、消えてしまいたかった。
 それが傷つけ悲しませたすべてに償うための唯一の術だと。
 でも、彼女が教えてくれた。
 なくしてしまうことは、涙と傷だけを残すわけじゃないことを。

「あ〜あ。結局今日は2本もジュースおごらされちまった」
 そう呟いてみる葉野香。
 雄吾も同じ方向を向いたまま声をたてずに笑う。
「ごちそうさま。こういう日もあるよ」
「今度は負けないからな。絶対」
 でも、次の言葉は瞳を開けたままでは口にできなかった。
「・・・・・今度が、あればだけど」

 ある、と答えてほしかった。嘘でも曖昧な可能性でもいい。


 返事はなかった。


 狂おしいほどの沈黙。
 葉野香は目を伏せたまま、地面に視線を落とす。
 崩れてゆく想いが彼女の全身を縛る。

「葉野香」

 雄吾が呼ぶ。しかし宣告を突き付けられるのが恐い。
 冷たくされても、謝られても、もう終わりだという意味が形を変えるだけ。
 顔を上げられない。

「葉野香」

 彼がもう一度呼んだ。
 これからは名前で呼び合おう。そう言ったのに。
 これからって今日だけのことだったの。

 不意に、腕を掴まれた。
 強く引っ張られ、上体が起きてしまう。

「葉野香」

 そう言って雄吾は、必死で顔を背ける葉野香の右手に何かを包ませた。
「これを受け取ってくれ」

 わけもわからず、右手を開く。
 それは、彼の腕時計。
 ついさっきまで腕にはめていた時計だった。

「本で読んだことがある。外国では、大切な人と別れる時こうして時計を贈るって」
 呆然として葉野香は右手の時計と、ネオンの反射で陰る彼の顔を見比べる。
「それを持っていてくれれば、きっとまた逢える。そういう意味が込められた古い習慣なんだ」

 やっと葉野香にも彼の言葉の意味が飲みこめた。
 雄吾は、彼女に会うために札幌に来ると約束をしたんだと。
 まだ温もりの残る彼の腕時計。
 それを葉野香は彼そのもののように両手で包み込んだ。
 潤んだ瞳に、札幌の夜空が万華鏡のように輝いた。

 自分からは伝えられそうもなかった想い。
 でも、今ならちゃんと言えるはず。

「また、来てくれよ。札幌へ。あたし、待ってるからさ。この街で」







夏編 了



トップへ
戻る