第8章 さよならの岸辺で



 札幌の地を踏んで9日目の朝が、雄吾に訪れた。もともと朝は強い彼だが、今日の目覚めは
格別にいい。陽子伯母さんと琴梨ちゃんへする「おはよう」も必要以上に力がこもってしまい二人を
びっくりさせた。
 朝食の前に念入りに髭を剃り、髪を整える。
 左目の傷はほぼ完治。もうなにもしなくていいだろう。
 朝食の席でもいつになく多弁になり、会話がはずんだ。

 彼が部屋に戻ったあと、洗い物をする春野親子は小さな声で言葉を交わした。
「雄吾君、元気になってきたみたいじゃないか」
「うん、来た時とは別人みたい」
「怪我して帰ってきた時はどうなることかと思ったけどねぇ」
「あたし、喧嘩とかしちゃったのかと思った」
「ああいうことがあったから、ヤケになったりしてもおかしくないからね。でも、そうじゃないみたい
だね」
「札幌に、来てよかったって思ってくれたらいいな」
「今日もなにか予定があるみたいだから、けっこう楽しくやってるんでないかい」

 雄吾は自分の変化がそれほどあからさまなものだとは考えていない。初日に琴梨ちゃんと会って
から、これまで一つの固定したイメージのまま周囲と接してきたつもりだ。
 しかしそれも、事情を知る人ならば看取できる。
 二人はずっと彼のことを心配し、気遣ってきた。
 後に彼もそのことがわかる。

 だが、この朝では雄吾の思考は左京葉野香とのことに集中しており、待ち合わせの時間を
じりじりしながら待つだけだった。
 ぽつりと呟く。
「今日はいい日にしないとな」


 一方、葉野香の精神状態も同様のものだった。
 まだ時間はあるというのにすっかり準備は整い、姿見の前に何度も足を運ぶ。
 どこかおかしいところがないかをチェックしては、時計を見る。
 仕込を手伝おうかと下に行ったら、清美さんに「いいから、支度しなさいよ」と優しく言われた。
 今出たらゆうに30分は早く待ち合わせ場所に着く。それでも無為に耐え切れず、彼女は家を
出た。

 最後まで迷っていたのは、眼帯のこと。
 何年も外したことがない。
 今ははっきりと、外したい理由がある。
 でも、心のどこかに脅えに似た抵抗がしこりのように残っている。昨日までの自分を変えるのに
不安を覚えるのだ。


 葉野香は札幌の駅前で、40分も待つことになりそうだった。
 いつもより、歩くリズムが軽快だったせいだろう。
 もちろん彼の姿はまだない。
 植え込みの近くにあるベンチに座って待つことにした。

 行き交う人の波。
 交差点と横断歩道。
 遥か上空にひとすじの雲。
 夏の花が彩る札幌は、昨日よりも夏らしい気がする。

 最後に両目でこの街を眺めたのはいつのことだろう。
 もうずっと前。
 外す日がくるなんて思いもしなかった。

 知り合いに出会ったらなんと言われるだろう。
 いちいち気にしないかな。
 でも、彼はなんて言うだろう。

 次第に強まる陽差しに、ハンカチで汗を拭うサラリーマン。
 チラシやティッシュを配るアルバイトの女性。
 客待ちのタクシー。
 この都市で生きる人々。
 そして待ち人になった左京葉野香。

 不意に、彼女のなかで覚醒が起こった。
 昨日の雄吾の言葉がリフレインする。
 どうして彼が好きなミュージシャンの話をしたのか、わかったような気がした。

 自分と他人との違いがどこにあるのか。
 あたしは、他人の方にこそ間違いがあると信じていた。
 相手のせいにしていた。
 なにもわかっていない連中に、あたしを理解しようなどとされたくなかった。
 あたしの内側に触れられたくなかった。

 でもそれは、アーティストがステージを放棄するようなもの。
 批判を恐れ、作ったアルバムを自分一人だけで聴いている。
 それでいいものができたと思っている姿。
 滑稽だ。
 それは自信がないからだろう。
 最初は素顔を隠していてもいい。
 だけど、わかってもらう努力を続けなくちゃいけない。
 そしていつかサングラスを外せる時が来たらそこでためらったりしない。

 のしかかる仕事や問題を背負いながら、それを分けあい、そして誰かの荷物を代わりに背負う。
 そうしてつながっていく世界。
 あたしは自分の荷物を背負うだけで、誰の荷物にも関心さえ示さなかった。

 あたしだけが逃げていた。
 わかってもらう努力なんて、馬鹿らしいと。
 弱さの裏返しに過ぎないのを、認めることもできずに。

 それでもあたしは、今こうして、素顔に戻ることができた。
 まだ弱いままの、子供なのに。
 それは、彼がいたから。

 今までの自分が恥ずかしい。
 雄吾はずっとあたしの荷物を肩代わりしてくれた。
 鈴本から助けてくれた時、彼はあたしの名前を知っていた。きっと、須貝ビルで一緒にいた
女の子に聞いたんだろう。あんなことをしたんだ。あたしの悪い噂だって耳に入ったはずだ。
 それでも、あたしをかばって殴られた。
 いきなり怒鳴りつけたようなあたしを。
 またひどいことを言うかもしれないあたしを。
 それからもずっと助けてくれて、そばにいてくれる。

 あたしより優しいから、あたしより勇気があるからだろうな。

 あたしはどうしたらいいだろう。
 彼のために、なにができるだろう。

 葉野香がうつむいていた顔を上げると、歩いてくる彼の姿を見つけた。
 すぐに立ち上がり、まっすぐに近づいていく。


 約束の時間まであと10分という時、雄吾は立ち読みしていた
 雑誌を戻し、コンビニを出た。時間ぴったりに着くための調整だ。
 駅前で彼女の姿を探すと、向こうから歩いてくる純白のワンピースの女性がいる。
 ジャスミンのように鮮やかな彼女。

 葉野香は雄吾のもとへ走り出したいのをこらえてしまっていた。
 どうして、こうなんだろう。急ぎたいなら急げばいいじゃないか。
 自分にもどかしさを感じる。
「おはよう」
 声が乾燥したようにこわばる。
 思っているような笑顔になれない。
 もっと気持ちをありのままに伝えたい。
 雄吾には。

 そんな葉野香の煩悶を知ってか知らずか、鷹条は上機嫌を維持していた。
「おはよう。待ってた?」
 そういう口調も陽気さがこぼれている。
 葉野香は40分も待っていたと冗談めかして言いたかった。でも、うまくいかない。
「待ってないよ。今さっき着いたから」
 ついつまらない見栄を張ってしまう。
「そっか。よかった。じゃ行こうか」
 いつになく積極的な雄吾と並んで歩き出す。こういう彼も頼もしく感じる。
 頭の中で悩むより、二人で一緒にいる方が素直になれるように思う。
「今日は眼帯してないんだね」
 彼がやはり話題にしてきた。
 ほんの少し躊躇したが、できるだけ本当のことを答えようとした。
「前に、言ったっけ。眼帯の理由」
「うん。聞いたよ」
「世間を両目で見たくなかった。でも、見てもいいかな、ってのを見つけたんだ」
 精一杯、冷静に言葉にしたつもりだった。
 でも、「それって、なに?」とあっさり尋ねられると冷静さは吹き飛んでしまう。
 慌てて誤魔化す。
「あ、あのバスに乗るよ。急ごう」
 彼を置いて駆け出す。
 まったく、こういうところは鈍感なんだから。

 かなり浮かれ気味の鷹条は、その言葉の意味するところを飲み込んでいなかった。北海軒を
周りの人が支援してくれることで、世の中への見方が変わったのかな、と受け取っていた。

 バスは混んでいた。空いている席は一人掛けがひとつだけ。
 葉野香を座らせ、雄吾がその隣で吊り皮を使う。
「あのさ」
 葉野香が周囲に聞こえない小声で話しかける。
 雄吾が身をかがめ耳を寄せる。
「さっきのは嘘。本当は、プール行くから外したんだ」
 そしてくすりと笑う。さすがに彼も本意ではないことがわかった。
「そっちのほうがずっといいよ」
 彼も耳元で囁く。彼もさすがに他人に聞かれると恥ずかしい。
 うっすらと頬を桜色にして、「そ、そうか・・・・・。ありがと」とうつむく葉野香。
 不器用で、相手の気持ちがさっぱりわかっていない二人。
 始まったばかりの二人。
 そしてこれからの二人。

 サッポロファクトリー前でバスを降りる。
 どうしても雄吾は彼女に言っておかねぱならないことがあった。
「あのさ」
 言いづらい。言いたくないことだ。
「今日、何時ぐらいまで大丈夫?」
「時間?」
 ちょっとだけ考えて答える葉野香。
「遅くなりすぎなければ平気だけど。帰るだけだから」
「それなら、一日ずっとつき合ってほしいんだ」
「いいよ」
 もともとそのつもりだった。でも、まさか『ずっと』っていうのは変な意味じゃないよな。
「俺、明日東京に戻らなくちゃならないんだ」

 真夏の舗道に陽炎がゆらめく。それなのに皮膚を引き裂くドライアイスのような冷気が葉野香の
背を貫いた。
「明日?」
 どうして、急に・・・・・
 想像外の事態に言葉が詰まる。
 辛辣な沈黙。
「何か、あったのか?」
 ようやく葉野香が声を絞り出す。
「家の人が倒れたとか・・・・・」
「そういうのじゃないんだ。最初から、明日帰ることになってたんだ。そういう予定の旅行だったから」
 嘆々と語る彼。
 今更ながらに葉野香に染み込むものがあった。
 予定。
 旅行。
 そうだよな。
 雄吾は遠く離れた東京の人。旅行者。
 いつかはこの街ではない戻るべき家へ帰っていく。
 わかっていたことのはずだった。
 わかっていなくちゃならなかった。
「・・・・・そうか。そういうことか」
 精一杯の無理をして、平静を装う。
 横目で彼の表情を探る。普通の冷静な彼みたいだ。
 実際は、雄吾もありったけの意志力で感情を抑えている。
「ごめん。もっと早く言っておけばよかったんだけど」
「予定がそうなら仕方ないだろ。謝ったりすることじゃないよ」
 互いに相手のぎごちなさを感じ取る。
 そして本当に思っていることが、まるでテレパシーのように胸に届く。
「それで、だからさ、今日はできるだけ長く、その・・・・・」
 雄吾は照れをポケットに押し込む。
「一緒にいたいんだ」
 そう言って、ほっと息をつく。これだけ口にするのに緊張で顎が痺れたように震える。

 なんて答えよう。
 葉野香の言いたいことは彼と同じ。一緒にいたい。
 別れたくない。
 でも。でも。
 そう言ってしまったら、きっとどこかで、涙をこらえきれなくなってしまう。
 悲しむあたしを見れば、彼も辛くなるだろう。そういう人だ。
 また逢う時のために、笑顔で別れたい。
 だから。
 「そういうことなら、一日つきあうよ。せっかくだからさ」とだけ答えた。

 残された砂時計の砂はほんの僅か。
 せめて、忘れられないような思い出にしておこう。
 二人は言葉にならない誓いを立てた。





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