第7章 ブルー・オン・グリーン



 深夜0時過ぎ。
 スタンドライトに照らされる、日記をつける葉野香の影が部屋に細長く伸びている。いつもより
遅い時間なのは、新企画「半ラーメン」の準備が予想以上に手間取ったからだ。

 参加店どうしの連絡方法を決め、リハーサルを行った。
 一つの注文で2つの店に注文が出る。可能な限り同時に提供しなくてはならない。店が隣り
合っていても、結局は電話に頼ることになる。単純な連絡だが、人手を取る。繁忙する時間帯に
どれだけ対応できるかは未知数だった。それでも、関係者は悲観することなく対策を練った。
 左京葉野香も、もちろんその一人。
 店の手伝いをしていて高揚感を抱くのはついぞないこと。
 それが、疲れを忘れさせた。

 彼女のペンが軽やかなワルツを踊る。
 次々と脳裏のスクリーンにシーンが展開し、文字にされるのを待っている。
 ほとんどが、鷹条雄吾とのこと。

 ふとペンを置き、日記帳の平行線から目を離す。
 あの時、彼はなんて答えただろう。

 ビートルバムをそろそろ出ようかと思った時。
 あたしが、なにしに札幌に来たのかを尋ねた。

 昨日から疑問として胸の奥を漂っていたことだ。
 観光客なのに、それらしい行動をしている様子がない。札幌の名所はいくつか回ったらしい
けれど、それにしてもおかしい。一人旅で自由なのかもしれないが、広い北海道を旅するんだ。
予定をたてて、牧場や温泉、史跡といったスポットに足を向けるものだろう。ゲームセンターや
ラーメン屋というのは、何度も行くところではなさそうに思える。

 彼は、口を濁した。不器用な迄に、誤魔化した。
「目的があって来たわけじゃないんだ。たまたま航空券が手に入って、たまたま親戚が札幌に
いたってだけさ」
 はっきりとした口調が、むしろ不自然だ。こう尋ねられた時のために用意しておいた模範解答
みたい。
「でも、観光しないのか?なにも関心ないのか?」
「関心はなくはないけど、ただ東京を離れようっていうだけなんだ」
 嘘をついているようには感じない。
 でも、本当のことをどうにかして口にするのを避けている。
 体がバラバラになるのを恐れているかのように腕を堅く組んで。
 両手を長袖のシャツの下に押し込んで。
「家にいたくなかったとか、そういうことなのか?」
「いや、家にいるのはなんともない」
 言い終えて、しまったという表情になった。
 それで葉野香も気付いた。
「なにか、向こうで・・・・・」
 あったのか。そう聞こうとした時、彼の目に浮かぶ苦悶、ギシギシと音を立てて押し殺されている
過去の塊を葉野香は敏感に感じた。
 知らず知らずのうちに、踏み込みすぎていた。
 鉛を溶かしたような重い沈黙が二人を覆う。

「なにもないよ。ちょっと失くしたものがあるだけ。それだけ。気にするほどのことはないよ」
 明朗ないつもの笑顔ではない、まるで美術室の石膏像のような硬くひび割れた笑顔で、雄吾が
答えた。
 葉野香がその隙間の下に受けた印象。それは、悲しみだった。
「そんなことより、俺、前から聞きたかったことがあるんだ」
 声調をいつもの彼に戻して、鷹条が話題を変える。
「あたしに? ・・・・・なんだよ」
 話題が変わって、よりほっとしたのは葉野香の方だったかもしれない。雄吾と気まずい雰囲気に
なったのは初めてだった。言い知れぬ不安が背中を走っていた。

「なんでいつも眼帯してるの」
 今度は彼が彼女の瞳を真っ直ぐ見つめてきた。
「病気とか怪我じゃないんだろ」
 その通りだけど、どうしてわかったんだろう。兄貴に聞いたのか。いや、そんな機会はなかった
はず。
「世間を両目で見たくないからだよ」
 しばらくためらった後、そう呟くように答える。
 誰にも言ったことはない理由。
 兄に聞かれた時も、「あたしの勝手だろ」としか応じなかった。
 学校ではまともに口をきく相手なんかずっといない。
 誰にも理解されない理由。
「そんなの、ひがみだよ」
「そんなの、無意味だよ」
「そんなの、独善だよ」
「そんなの、間違ってるよ」
「そんなの、おかしいよ」
 嘲笑や冷笑が付属する否定。腐った社会で死んだように生きている連中に似合いの反応だ。

 あたしは汚れた世界を見て見ぬ振りなんかしたくない。
 逃げて、取り繕って、曖昧にできるほど器用じゃないんだ。
 ただ、あまりにも現実ってのが落ちぶれていて、とても両目で正視できないだけなんだ。

 答えてから、どう受け取られたかが気になった。
 ちらりと視線を送ると、彼は口元だけで笑っていた。
 でも、バカにしている表情じゃない。
 瞳には真剣さがある。

 あのあと、彼はどんな話をしたろうか。
 そうだ、ミュージシャンのことだ。

「俺の好きなアーティストに、こういう人がいるんだ」
 そういって、ゆっくり解説するように話し始めた彼。
 いつも前衛的な作品を創作するミュージシャン。
 アルバムを出す度に新しい表現に挑戦する。
 時には、そのせいで厳しい批判や酷評にさらされる。
 ミュージシャンにとって、発表した音楽を評価するのはいつでもリスナー。セールスは問題じゃ
ない。だからこそ、ライブ・ツアーでの観客の反応に一喜一憂する。
 彼は、ツアーが始まった頃はステージでサングラスをかけたままライヴをする。
 オーディエンスの視線が怖いのだという。
 自分の伝えたいメッセージが、どんな形で受け止められたのか。この演奏で表現したいことが
曲解されていないだろうか。ファンは、変わっていく自分を受け入れてくれるだろうかと。
 手探りで続くツアー。
 あちこちの街でショウを続けるうちに、少しずつ手応えを感じる。
 そして、このコンサートの意図を観客が理解してくれたと感じた時、彼はサングラスを外して、
歌う。
 そしていつもその時思うのは、「最初から、みんなわかってくれていたんだ」

 葉野香には、ピンとこなかった。
 いい話みたいだけど、そのアーティストのことはよく知らないし、あたしとは繋がりがない。

 そのあと、二人は札幌プリンスホテルへ向かった。
 ここまで回想して、ペンが全く進んでいないことに葉野香は思い至った。もう30分も経過している
のに。これ以上の夜更かしはまずい。順を追って出来事を簡潔に記していった。
 書き終え、机の上を整理する。

 明日は、彼とプールに行く。
 水着もないので、買い物をしてからだ。
 折角だから、選んでもらってもいいかな。
 そうだ、何着ていったらいいだろう。
 今日は時間がなくて制服にした。でも明日はそんなことはしたくない。

 ドレッサーを開けてみる。特に気に入っている白いワンピースがある。これにしよう。





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