第6章 午前4時の螺旋階段



 喫茶店から出ると、札幌とはいえ処熱が蜘蛛の巣のように二人を捕らえる。まだ太陽は西日と
いうほど変色していないが、じりじりと肌を焼かれる感触がある。
 先に出た雄吾が尋ねる。
 「どこのホ・・・・」
『どこのホテルに行く?』などと言うのを誰かに聞かれたらそれこそ誤解を招く。あわてて言い直す。
「どこで食事する?」
 だが、葉野香も高級ホテルには縁遠い。思い付くのは札幌駅前に林立するホテルだ。
「そうだな・・・」
 ただ、駅前では自分を知っている人に見られる可能性がある。制服姿でホテルに入るのを見ら
れれば面倒なことになるかもしれない。
 そうだ。
「決めた。こっち。札幌プリンスホテルってのがあるからさ、そこにしよう」
 ここからは札幌駅より近いし、それほど目立たない。

 二人は地下鉄で中央区役所前へ。そこから少し歩くと堂々たる高層ホテルが壁のように佇立して
いた。

「なんだか高級そうなホテルだな。まあいいか、入るよ」
 平気でロビーへと足を進める葉野香。ラフな格好の鷹条のほうがおどおどしてしまう。

 さすが名の通った一流ホテル。内装からホテルマンの振る舞いまで隙がない。案内されるまま
レストランのテーブルに腰を下ろす。何を説明されても頷くだけの二人。

 午後3時過ぎという時間が時間だけに、店内はかなり空いていた。外国にぽつんと取り残された
ように感じるのはやはり不慣れなせいだろう。
 囁くように葉野香が雄吾に聞いた。
「・・・・・こういうところの、作法って、わかるか?」
「作法?」
 もどかしそうに繰り返す葉野香。
「作法って、ほら、いろいろナイフとか、決まった使い方があったりするだろ。こういうとこは。あたし、
そういうのだめだからさ。あんた、家族でこういうとこに行ったりしてるだろう」
「ああ、そういうのか」
 雄吾は得心がいったものの、彼だって得意なことではない。
「うちだって滅多にこないからなぁ。わからなけれは、俺、その時に聞くよ。それでいいって」
 なるべく気楽に答える。
 やっぱり、彼女も緊張してるみたい。でも、それほど複雑なものはバイキングにはないだろう。
「・・・・・そうだな」
 ほっとして葉野香は答えた。冷水のグラスを手にする。
「あたし、こういうちゃんとしたレストランって、全然来たことないんだ。親父が、けっこう頑固でさ。
洋食嫌いだったみたい。たまに外食ってときは、近所の寿司屋か定食屋でさ・・・」
 葉野香はいくらかの解放感のせいだろうか、父親や兄のことを話題にした。
 一人で店を切り盛りしていた父。
 孤独から非行に走った兄。
 繰り返された親子喧嘩。逮捕。少年院送致。
 必ず面会の機会ある毎に足を運んだ父。
 退院して、父のラーメンで涙を流した兄。

 葉野香は、自分の家庭環境を言葉にするのを避けてきた。
 嘲笑されるのも同情されるのも、許容できなかった。
 中学の頃、口さがない連中が聞こえよがしにいろいろ言ったものだ。
 「貧乏」「不良」「片親」
 教師も似たようなもの。
 「協調性に欠ける」「親の教育が」「周囲の環境が」云々。

 悔しかった。

 彼女自身は、なにも悪いことなんてしていない。なのに、万引きを笑いながらする女生徒より
風当たりが強かった。家のことをこなしながら中の上程度の成績は維持した。欠席もほとんど
しなかった。
 それでも、貼られた黒いレッテルは剥がれなかった。
 家族の話をすれば、他人との関わりを阻害するか、哀れみを誘うか、どちらかの結果にしか
ならない。だから、誰にも話さなかった。

 でも、今は聞いてほしい。話すことで、彼が自分を避けるかもという不安はまったくよぎらなかった。
 そういうひとじゃない。
 根拠もないはずなのに、そう思った。
 あたしは、あたしの辛さをわかってほしいんじゃない。
 慰めも同意もいらない。
 ありのままの左京葉野香を教えたくなった。
 知らせたくなった。
 憶えていてほしくなった。


 黙って、雄吾は彼女の話を聞いていた。


 ふと思い出のストーリーが途切れ、葉野香は我に返るようにテーブルを見て、メニューすら届いて
いないことに気がついた。そのことを雄吾に指摘して文句を言おうとしたところで、ここがバイキング
形式であることをウェイターに教えられた。高級な雰囲気に呑まれ、説明をよく聞いていなかった
のだ。
「じゃ、早速取りにいくか。いつまでも座ったままだから、変な客だと思われてるだろうし」
 皿を手に笑う鷹条。
「そうかもね。でも時間制限はないから、長居するお客は珍しくないかもよ」
 時間制限? 彼女は意味がつかめなかった。
「時間制限なんてあるのか? レストランに」
「あるよ。こういうバイキング形式のところは。だって、それがなかったら一日中居座って3食済ます
奴が絶対いるって。俺だってするもん」
「そっか。そうだよな。あたしもするかも」
 料理の並ぶカウンターへ歩きながら、二人は笑顔をパスを交わした。

 素人目に見ても、品質の良い材料を丁寧に作り込んだコックたちの成果が列をなしている。
砂浜で綺麗な石を集める子供のように、葉野香はあちこちの料理を巡り皿の上を賑やかにして
いった。
 鷹条にとってその姿は、つい数日前に自分を怒鳴りつけた左京葉野香と寸分も違わず一致する。
 どちらが本当とか、偽物とかじゃない。
 彼女の在り様のすべてが、彼を魅惑するのだ。

 一緒に席に戻り、食事にとりかかろうとする。
 フォークとナイフを手に、葉野香が話しかける。
「バイキングって、あたし初めてだけど、なんかいいよな。なんていうかさ・・・・・」
 えっと、どう言ったらいいかな・・・・・
「いろいろなものが好きに食べられるから?」
 そう、それだ。
「うん、そういうこと。自分の好きなものを自由に組み合わせてさ、それって・・・・・」

 組み合わせ?

 葉野香のなかでなにかが通り過ぎるのを止めた。
 さっきも聞いた。
 あれは、どこでだったろう。
 ビートルバムだ。鷹条が、『ラーメンと食べ物を組み合わせることが目的になってきてる』って
言ったんだ。
 それじゃ駄目なんだ。
 じゃ、料理と料理なら?

 唐突に言葉を封じられたように黙り込む葉野香を、
 いぶかしげに窺う雄吾。
「どうか、した?」
「・・・・・」
 返事がない。視点もテーブルの端で固定されて動かない。声が小さかったか? もう一度・・・・・
 そう思い、口を開こうとした矢先に、「雄吾!」と大きな声で呼ばれた。
 反射的にのけぞってしまい、応じる言葉を無くす。
「なあ、これを、ラーメンに応用できないかな?」
 興奮した口調で話す葉野香。戸惑う鷹条と好対称。
「これ・・・・・って、バイキングのこと? 北海軒のラーメンをいろいろ食べられるようにする?」
「そう。あと、うちのラーメンと隣の店のラーメンを半分づつ食べられるとか、そういうこと!」

 雄吾の頭脳が少しずつ回転を増していく。
 バイキングとラーメン。
 ただコーンやチャーシューを選ぶのなら珍しくはない。
 一つの店で2種類のラーメンを半分づつ食べられたところで、それを喜ぶ客は多いだろうか。
 それより、他の店と半分づつというアイディアの方がいい。
 観光地なのだから、そう何度も足を運べない客が多いはず。
 あれだけの店の中から一店しか試せないのは、残念に感じることだろう。
 問題は、他店の協力が得られるかどうかだ。現在売り上げ好調な店は、反発するだろう。

 雄吾は、これらの判断をはっきりと伝えた。
 彼にはラーメン横町における近隣関係などわからない。ただ、これをクリアすれば、うまくいく
ように思える。

「どうかな。一緒にやってくれそうな店はある?」
 そう聞かれても、はっきりしたことは葉野香にもわからない。とくに付き合いの悪い店はない
けれど・・・・・。
 彼女は立ち上がった。
「ごめん。あたし店に戻る。兄貴が帰ってたら、隣の店とかに頼みに行くよ。きちんと説明して
協力してもらえるようにするから」
 少し前までは、いくらか覇気を失っていた瞳に輝きが戻った。
 そう雄吾には見えた。
 やっぱり、こういう彼女は素敵だな。
「うまくいったら、連絡するから」と、お互いの携帯の番号を交換すると、彼女はレストランから
走り去っていった。

 端から見たらまるで別れ話をしていたカップルだな。俺たちは。
 ・・・・・さて、この残った料理をどうするか。

 今すぐ北海軒に行ったところで、何ができるわけでもない。ということで、彼はウェイターの不審げ

視線を背中に感じながら、食事を続けた。

 陽が陰り、黒い夜の風が街角に涼しさをもたらす頃、鷹条は北海軒の前に立った。「本日休業」の
札の下がるガラス越しに覗くと、左京兄妹がカウンターを挟んで言葉を交わしているようだ。
 つい、と、達也が彼の姿を認めた。
 兄に何か言われて、彼女が振り向いた。笑顔だ。うまくいったのだろうか。


「おい、来てるぞ」
 突然兄貴が言った。入り口を見ている。
 葉野香の心に最初に浮かんだ顔は、雄吾だった。
 振り返って、所在なげな彼の表情がなぜかおかしかった。
 すぐに腕を伸ばして扉を開ける。
「入んなよ。せっかく来たんだから。話もあるからさ」
 電話よりも、直接伝えたいことがたくさんある。

 左京葉野香は、あれからのことを細かく説明した。
 義姉の清美さんが戻ってくれていたこと。
 それから3人で、近隣の店に半ラーメンの企画を売りこんだこと。
 意外なほど反応がよかった。頭ごなしに反対する店がほとんどなかったのだ。不況が直撃する
北海道で苦しんでるのはどこも同じ。ラーメン横町自体の集客力が落ちている今、変化の必要性は
誰もが実感していた。
 何よりも、同業者のおじさん達は、うちの店のことをずっと心配してくれていたことがわかって
嬉しかった。
 急な話なので、とりあえず4店舗で試験的な実施が決まり、既にメニューの印刷も始まった。

「それで、いつから始まるの?」
 ひと区切りついたところで雄吾が聞いた。
 達也は途中から奥で仕込みをしている清美の手伝いに行っていた。気を使ってくれたのかなと
いう考えは、葉野香にも雄吾にもまるで浮かばなかった。
「明日からもうやるって。けっこうみんなその気になってる。うまくいきそうだよ。・・・・・どうかした?」
 彼の表情に陰りがある。霞むくらいに薄い灰色の霧が漂うように。喜んでくれているけど、なにか
変だ。
「いや、何もないよ。これで一安心だね」
「あとはやってみて、お客さんの反応次第かな。それでさ」
 言葉を切る。ちゃんと言いたい。
「それでさ、何か今日のお礼したいんだ。今日だけじゃなく、いろいろしてもらったし。なにがいいか
な」
 たいしたことはできないが、と葉野香は思う。自分ではいいのが思い付かなかった。でも、彼の
ためになにかがしたい。

 声が震えないように、ゆっくり雄吾は答えた。
「じゃ、デートしてくれないか」
 語尾の余韻が無くなったとたんに彼女の顔が耳朶まで紅に染まる。
 ふざけるなって怒られるだろうか。
 誰にでもこういうことを言う軽い奴だと軽蔑されるだろうか。
 誘う勇気は出たけれど、拒絶を受け容れる勇気が自分にあるだろうか。

「・・・・・二人で会えばデートになるのか? じゃ、いいよ」
 彼女が躊躇した一瞬の前半は、断る理由を探すための時間だった。
 デートなんて柄じゃない。
 男と二人で遊びに行くなんて、したこともないし。
 楽しく過ごすなんてできなくて、嫌な気分にさせてしまうかもしれない。
 これから店のためにやらなくちゃならないこともたくさんあるはずだし。

 後半には、断りたくない理由が溢れてきた。
 お礼がしたい。
 夏休みだから遊びにだって行きたい。
 それに・・・・・

「明日でも?」
 緊張が音をたてて響かないのが異様だと思う鷹条。
「・・・・・いいよ。今日のうちに明日の仕込するから、多分」
 よかった。
 返事を聞くという行動がこれほど精力を使うとは。
 雄吾の新しい発見だった。

 プールが、走り去る二人の夏を少しだけ引き留めることになった。





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