第5章 夏風の吹く迷路



 雄吾は約束の時間より早めに着くつもりでマンションを出た。一週間という期限で縛られて余裕の
ない彼女を待たせたくない。朝には瞼の腫れはほとんど引き、傷を絆創膏で押さえるだけで
よかった。

 これから難題が待っている。高校生の分際で一つの店の経営状態を改善しようというのだ。
専門のコンサルタントがすることだ。いったいなにができるのか。

 なにかは、きっとできるさ。

 東京にいた頃は、いや、札幌に来てからも心の深海に沈められていた楽観。積極。
We can work it out.
 いつまでも監視を怠らない執行官が宿る腕。そして拳。
 ニヒリズム。アイロニー。そして無関心が、谷間の霧のように漂っていた日々。
 俺は何か変わったのか。
 変わることができたのだろうか。
 
 違うだろうな。
 この街を離れ、日常に戻ればきっと思い知るだろう。
 砂岩は必ず砂に還ることを。

 いずれ脆く散ってゆくにしても、今だけは信じる強さが欲しかった。

 窓を開ける。
 遠くに、テレビ塔が見える。
 彼は初めて、札幌から帰りたくないと思った。


 北海軒では、葉野香が自室の鏡の前で考え込んでいた。
 最初は、何を着て行こうか、制服か私服かで迷っただけだったのだが、すぐに考えは新メニューの
ことへ移ってしまう。
 時計を見て、明け方に止めていたことを思い出した。慌ててデジタルの目覚まし時計を確かめる
と、もう約束の時間が迫っている。ぐずぐずしていたら遅刻だと、大急ぎで制服を手にした。
 袖を通しながら、ふと思う。
 あいつ、来るかな。

 昼間の狸小路は賑わっていた。行き交う人影に時々目をやりながら、雄吾は壁に背を預け立って
いた。まだ時間はある。彼女が来れば、眼帯をしているから遠くからでもすぐわかるはず。
それでも、遠くから向かってくる同年代の女の子が彼女ではないかと、姿を目で追っていた。
 約束の時間まであと3分程。路地から長い髪の、もう見慣れた制服姿が出てきた。
 彼女だ。

「やぁ、ちゃんと来たね」
 自分から一緒に来るって言ったのだから当然とは思うけれど、これまでのことを思い出すと、少し
だけ不安になっていた。とにかく今は、誰の協力でも欲しい。
「じゃ、行こうか。二条市場っていう市場が近くにあるんだ。まずはそこに」

 並んで歩き出して、葉野香は彼の怪我が良くなってきているのに気づいた。
「まだ、痛いか。それ」
「全然」笑って答える。「もう放っておいてもいいくらいさ。なんともないよ」
「そうか。それならいいんだ」

 それっきり、彼女は黙ったままだ。眉をひそめているような表情が堅い。歩調も不自然なほどに
速くて。人混みの中でも聞こえるほどに革靴の底がタップを奏でる。
 鷹条も口を開かなかった。彼女の心にあるのは不機嫌や苛立ちではなく、出口を求めている
真剣さと焦燥感だということがわかったから。
 ほどなくして、市場が見えた。商いに励む声が外通りにまで届いてくる。

「あれが二条市場。今じゃ、観光客向けになってるけどね。でも、品揃えはいいから」
「そうみたいだね。何か目当ての食材はある?」
 力なく首を振る葉野香。
「ゆうべから考えてるけど、いいのは思い付かなかった」
 答の最後に深く長いため息が続いた。
「・・・・・で、あんたは?」
「俺も駄目だったよ。どうやら頼りはここだけみたいだね」
 葉野香の横顔に失望の影がちらりと浮かんだ。そうすることで忌むべきものを振り払えるように、
髪を揺らしてから言った。
「じゃあ、海産物から見てみるか」

 確かに品揃えに関しては充実の一言だった。それでも二人の問題の解決にはならなかった。
奇抜なラーメンを発想するのは簡単だ。だが現行の北海軒の味に劣らず、さらに価格を抑え、他店
との差別化を図らなければならない。
 広い市場を端から端まで歩き、何語で書かれているのかわからない輸入ものの缶詰まで調べた
が、これはという食材にはたどり着かなかった。
 疲れが苛立ちを促進したのだろう。青果店の呼び込みに葉野香がきつく当たり、雄吾がとりなす
一幕もあった。

 大きな袋を手に行き交う人々の流れから逃れ、廃棄される段ボールが重ねてある一隅で立ち
止まる葉野香。疲れていないはずの腕なのに重い腕を持ち上げて組み、考え込む。

 もう、ここでできることはないようだった。
 かといって、他にあてがあっただろうか。
 これからどうしよう。

 ふと気が付いて、きょろきょろと辺りを見回す葉野香。
 いつの間にか鷹条の姿がない。
 どこ・・・・・?
 まさか、帰っちまったのか?
 
 そういえば、さっきから黙ったまんまだったし、なにかやりきれないような態度を取ってた。
 もう諦めて、帰ったんじゃ・・・・・
 なんだよ。勝手にいなくなることはないだろ。

 その時。
 レストランなどで使う業務用食材の店の棚の陰。
 そこに彼が着ていたような服がちらりとかいま見えた。
 盛夏に長袖のシャツは札幌でも目立つ。
 走り寄ると、陳列棚の低い位置のさらに奥、店員からも忘れ去られたような調味料の瓶を、
体を無理に傾けて彼が取り出そうとしていた。
 掴んだ瓶は湿って灰色の埃でべっとりと汚れていた。
「なに見てるんだ」
 走り寄って、背中に声をかけた。
 彼は振り向かない。指先でラベルをこすり、小さなアルファベットを判読しているようだ。
「・・・・・リンゴを使ったソースのベースみたい。デザートとかの。これも使うのは無理っぽいな」
 棚の空いている場所にそっと置いて、左手でジーンズのポケットからハンカチを取り出して指を
拭う。

 葉野香のどこかで、うねりのような感情の起伏があった。
 ほっとした。帰ったりしてなかったから。
 驚いた。まだ諦めてなかったから。
 すまないと思った。指も手も腕も埃で汚れているから。
 不思議だった。どうしてここまでしてくれるのか。

 名前のない気持ちがそのすべてを包んでいく。
 息苦しい。胸もとに痛みのようななにかが走る。
 視点が彼の背中から離れない。
 暑い。ちがう。火照るように、体の中心が、頬が熱いのだ。
 ざわめく市場の片隅で、ひとり彼女は永遠の瞬間を漂う。



 鷹条が突然振り向いた。もちろん彼にとっては「突然」ではない。びくりとする葉野香に、驚くのは
むしろ彼の方だった。
「どうかした?」
「な、な、なんでもない。なんでもないよ」
 強い口調で叱責するように言われ、当惑する。
 ふらふら一人で歩いたから、怒ったのかな。
 そっぽを向いてしまっていて右の横顔しか見えない。
 くるりと背中を見せ、腕を組む彼女。
 本格的に怒らせたか? 
 なんと言うべきかわからないままでいると、先に葉野香が唇を開く。
「な、なあ」
 一転して、さっきより柔らかくなったような声と言葉の響き。半ば狼狽えながら「ん?」と芸のない
返事をする自分が間抜けに感じる。
「そろそろ、ここは出るか」と彼女。機嫌が悪くなったわけじゃなさそうだ。
「えっと、そうだね。もう一通り見たと思うし」
「じゃ、出よう」
 そのまま彼女はすたすたと出口へ歩いていく。置いていかんばかりの勢いだ。
 やっぱり怒ってるのか?
 なにがまずかったかな。

 舗道に出たところで追い付いて、横に並ぶ。
「えっと、これからどうするかだけど・・・・・」
「疲れたから、喫茶店にでも入るさ」
「あ、ああ」
 弱ったな。会話というより宣告だ。下手に話題を振ったら叱りつけられそうな雰囲気がある。

 群からはぐれた雲が、時折街に薄いカーテンを降ろす。
 アスファルトの照り返しがなくなって視界が穏やかに移ろっていく。
 
 よし、落ち着いた。どうかしてたんだ。あたし。
 さっきから小さく深呼吸を繰り返して、ようやく平静を取り戻した。
 もう、顔も赤くないよな。
 まったく、なにやってたんだろ。


「ここ、ビートルバムっていうんだ。あたしはよく来る。入ろ」
 あれ、鷹条がきょとんとした顔してる。
 何か変なこと言ったか?
「あ、ああ」
 生返事だ。まだラーメンのこと考えてくれてたのかな。

 そんなことはなかった。彼はただ笑顔で話しかけてきた彼女に驚いたのだ。
 怒ってない、みたいだけど・・・・・さっきのは何だったんだろう。

 薄暗く、上品にライトアップされた店内。
 アナログ的なBGM。グレーと黒で統一された調度品。
 寛ぎの時間が必要な時、いつも葉野香はここを利用している。
 一人でコーヒーを頼み、長い時は2時間近くも。
 粘る、という意識はない。ただ、ここが好きなのだ。
 数少ない、大切な場所。今日までは、自分だけの聖域だった。

 珍しく空いていた。二人は申し合わせることもなく一番奥のテーブルを選んだ。
「ここはコーヒーだけじゃなくて、カレーとかも美味しいんだ。今度頼んでみるといいよ」
「そうなんだ。お昼食べないでおけばよかった。とりあえずコーヒーでいいや」
 葉野香は一瞬、カレーとラーメンの組み合わせを考えた。駄目だ。どうしたってものになりそうも
ない。なによりこの問題をなんとかしなくちゃ。
「・・・・・なに、頼むの?」
 見ると彼はすでにメニューを畳み、テーブルの端に置いていた。ウェイトレスがカウンターで様子を
伺っている。
「あ、ああ、じゃ、ええと、決まった」
 鷹条が小さく手を挙げてウェイトレスを呼ぶ。
「コーヒーと・・・・・」
「あたしは、チョコレートパフェ」
 実は前から頼んでみたかった。でも、一人でこんなのを注文して食べるというのは抵抗があった。
こういう機会に試しておこう。
「それで、どうしようか」
 彼が尋ねてきた。しかし、手詰りもいいところだ。
「いいアイディアなんて、簡単に浮かぶものじゃないってことしか、わからなかったな」
「あと、デパートの輸入品売り場に行くか、他のラーメン屋に偵察にいくとか、そんなところかなぁ」
 新メニューのためにできることといえば、それくらいしか残っていない。
 手詰りなのは雄吾も同じだった。
「・・・・・これからか。店休みだし、まだ時間はあるけど」
 彼女の語尾が呟きに近づく。
「休みなんだ。北海軒。お兄さんはどうしてる?」
 あの人も昨日、俺をかばってくれた。お兄さんためにも、なんとかしたいけど。

 葉野香は実家に行ったことを詳しく話した。そうこうするうちにコーヒーとパフェが届く。
 開口一番。葉野香が、「パフェラーメンか。絶対にまずいだろうな」と真剣に言った。

 雄吾は苦笑いを抑制しきれなかった。
「ひとまず、ラーメンのことから離れようよ。なんか、ラーメンと別の食べ物を組み合わせることが
目的になってきてるから。北海軒にお客を呼ぶってのが目標なんだし」
さすがに彼女も、考えが乱雑になってたと思ったらしい。
「そうだな。考えすぎると、うまくいかないことってあるし。気持ち切り替えよう」
と、あっさり頷いた。
 彼女がそびえ立つパフェを切り崩していくのを、じろじろ見ないようにして、コーヒーを飲む雄吾。
暫くは会話のない、それでいてほぐれた時間を過ごす。
 
 こうしてると、デートみたいだな。
 以前にしたデートとは、まったく違う。
 あれはもう1年以上前かな。
 なんとか女の子の気を引こうと、思い付く冗談を飛ばし、いい印象を持たれようと格好をつけた。
 そんなデート。
 でも、彼女の前では無防備なほどに自分を飾れない。
 飾りたくない。
 こうして座っている自分に、何か意味があるような気分にさえなる。

 誰かといることに苦痛を感じない。
 彼女といることに特別な何かを感じる。
 もう否定できない。
 彼女は、俺を変えている。

 突然、彼女が言った。
「なんか、煮詰まっちゃったな。気分換えて、ホテルにでも行くか」
 あまりに刺激的な言葉に、心底驚いて顔を見る彼。

 彼の反応で、葉野香は不用意な言い方だったことにすぐ気づいた。
「あ、ホテルってのは、ほら、一流の料理人がいるから、そういう立派な食事を参考にできない
かって、その、ちゃんとしたホテルのことを言って・・・・・」
 恥ずかしさで真っ赤になって力説する。
「あ・・・・・そうだね」
 彼が目を逸らす。それが一層恥ずかしさを募らせた。
「変な誤解すんなよな。まったく」
 頭をかいて、そういうつもりじゃなかったと口ごもる彼。
 まったく、男ってのは。
「ばーか」





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