第4章 舗道の向こうがわ



「やめろ!鈴本!」
 突然の声に、そこにいた全員が振り返った。視線の収束した先には、モスグリーンの背広を着た
中年の男性が立っている。

 誰だろう。お客・・・・・じゃないよな。

 ちらりと眼帯で隠していない目で見やると、鈴本も子分も表情が驚いたまま凍りついている。
「お、オヤっさん・・・」
 ひくついた声。

 え? じゃ、こいつらの親分か?

「社長って呼べ! いつも言ってるだろう!」
 男は一喝して、達也の方に歩み寄る。
 カウンターの中に入る時、横目で葉野香と鷹条を見たような気がした。

 寿商事の社長。職種や呼称はともかく、つまりはヤクザの組長だ。
 子分に任せておけずに取り立てに来たんだろうか。
 もう、おしまいなのかな。うちは。
 親玉が出てくるのって、もうどうしようもないピンチな時だってのが相場だもんな・・・・・

 だが事態は、彼女の予想とはいくらか違った展開をした。風祭と名乗った社長が頭を下げ、鈴本
の非礼を詫びたのだ。出向いてきた用件の主旨は、結局のところ貸し手としては店を潰すのが
本意ではなく、きちんと利息を支払える相手になれということ。
 それを一週間で証明せよ。一週間で店を繁盛させれば、支払いの猶予も考慮する。しかし
できなければ全額を契約通り弁済してもらう。現金がなければ無論、担保となっている店の土地
建物で。

「では、一週間後を楽しみにしていますよ」
 踵を返す風祭に当惑し、ただ頷くだけの達也。
「行くぞ、てめえら! まったく、その格好もなんとかしろい!
いつまでも昔のまんまで、だらしねえ!」
 すっかりしょぼくれて、3人は社長について出ていった。

「ふぅ・・・」
 鷹条がゆっくりと床から腰を上げた。倒れた椅子を直し、座る。
「あんた、平気かい? 頭ぶつけたろ?」
 けっこう大きな音がした。昨日といい今日といい、ついてない奴。
 鷹条は右手を後頭部の短い髪に差し入れ、撫で上げた。
「ん、大丈夫。こぶもできてないよ。お兄さんのおかげだ」
 まだ4人が出ていった扉を呆然と見ている達也の耳には入らなかったようだ。
 首をすくめて、笑いきれない苦さを表情に浮かべる彼女。
「あ、まあ、それもあるかもな。でも、あの社長が来なかったらやっぱり殴られたろうな」
「そうかもね」
「社員はバカだけど、社長はけっこうマトモなんだな」
「うん、でもさ・・・・・」

 その時。
「あああ〜っ!」
 達也の苦悶が始まった。
「どうすりゃいいんだよ。一週間かよ。どうすりゃいいんだ。いったいよぉ」
「店を繁盛させるしかねーだろ、この際」
 しっかりしろよ、と尻を叩かんばかりの口調で葉野香が言う。
「それができてりゃ、借金なんてとっくに返してるよ」
「まあ、それもそうだけどさ。でも、繁盛しなきゃ潰れるのは同じ事だろ。うまくいけば、返済も楽に
なるかもしれないし」
「結局、店を明け渡せってことだろ。鈴本と言ってることは同じだよ」
 頭を両手で抱え、しゃがみこむ達也。さっきのタンカもかたなしだ。
「あ〜っ! もう今日は店じまいだ! 兄ちゃんも、もう帰ってくれ!」
 帽子を調理場に投げ出し、裏へ引っ込んでしまった。
 鷹条は右手の指を額に押し当て、何か考えている。
「・・・だってさ。鷹城、悪いけど、今日はラーメン出せないよ」
「みたいだね」
 姿勢を変えずに、ぽつりと呟く。
 また、迷惑かけちまったな。
 客で来て、脅されて、何も食べられずに帰らされる。
 これじゃボッタクリバーだ。
 ま、金は取らないけどさ。
「じゃ、駅まで送るよ」
 せめてこれぐらいはしないと、気が済まない。


 二人が歩くすすきのの繁華街は、既におじさんたちの時間帯になっていた。きらびやか、と表現
するには毒々しい原色のネオン。威勢のよい呼び込みが路上の主旋律となって喧騒を高めている。

 葉野香は伸びをして、両手を頭の後ろで組んだ。
「あ〜あ、確かに兄貴の言う通りだよなぁ。たった一週間で店が繁盛するなんて、虫のいい話だし」
 鷹条からの返事はない。まあ、ごもっともだとも言えないか。
「・・・そうでもない、かも」
「え?」
 思いがけない言葉に、足が止まってしまった。
「どういうことさ?なにかいい手があるってこと?」
 半歩先で、鷹条が振り返る。
「君の店のラーメンは、お世辞抜きで美味しい。東京でも、なかなか食べられないよ」

 なんだ。
 簡単に名案卓説といかないのはわかっているけど、つい期待してしまった。
 また歩き出すと、彼も歩調を合わせて並ぶ。
「そんなのは、わかってる。でも、客がこなきゃ意味がないだろ」
「そんなことはないよ。言ってたろ。ラーメン横町は観光地だから、味より店の名前で客の入りが
決まるって」
「そうだよ。だからうちは苦しいんじゃないか」
「ということはさ、なにかきっかけがあって客が入れば、それを逃がすことはないだろうってことさ」
「きっかけって、宣伝か? そんな金、ないよ」
 苦笑して鷹条が答える。
「宣伝に限らないさ。一週間ってのは短いけど、いいものを出せば、口コミで広がったりするもの
だし」
「いいものって・・・・・そうだ、新メニューとか、どうだろう」
「・・・・・それも、一つの策だよね」
「なにかいいアイディアが出れば・・・・・
そうだ、市場に行って、食材をいろいろ研究すればいいかも」
「うん、いいね」
「明日にでも、行ってみるかな。期限まですぐだし」
 街の灯りが星を曇らせる夜空を見上げて呟いた。

 葉野香は、独り言のつもりだった。
 だから、「俺も、つき合おうか」という台詞を聞き逃すところだった。
 え?
 慌てて葉野香が顔を見ると、何かを持て余したような笑顔の彼。
「俺、明日も予定ないからさ。よかったら。一人より二人の方が、いい考えが浮かぶかもしれない
だろ」
「ま、まぁ、そういうこともあるかも・・・」
「君さえ迷惑じゃなければ」
「迷惑・・・ってことは、ないよ。いいよ、別に」
「じゃあ、何時に・・・・・」

 待ち合わせの時間と場所を決めた頃には、とっくに駅についていた。
「じゃ、明日」
 そう言い残して、鷹条はコンコースに降りていった。

 店に戻る前に、葉野香は近くの書店に入った。まっしぐらに料理本の棚へを探す。どんなものでも
いい。アイディアが必要だ。
 自分が食べる料理くらいは普段から作っているが、客に出すものとしてメニューを考えるには、
自己流だけでは無理だ。
 イタリア料理の本。使ったことのない食材や調味料が並ぶ。 ズッキーニ、ケイパー、ワイン
ビネガー。
「パスタは麺類だから、参考になるかと思ったけどな・・・」
 ズーゴ・ディ・カルネ?・・・・・フォン・ド・ヴォーのこと? じゃ、要はだしのことか。だったらそう
書けよ。棚に戻し、また別の本を手に取る。中華料理だ。
 こうして次々と資料を当たったが、収穫らしいものは得られなかった。閉店時間を知らせるチャイ
ムに背を押され、彼女は家路を辿った。

 賑わうラーメン横町にあって、明かり一つついてない店。
 北海軒。
 親父が母さんと、何もないところから始めた店。
 精進して、頑張って、ようやく軌道に乗った頃、母さんはいなくなった。
 墓参りの度、親父は黒い墓石にこう言っていた。
「お前には、苦労ばかりかけちまったな・・・」
 店が盛況だった頃には何度も支店を出さないか、もっと大きなところに移転しないかと誘われた
らしい。
 でも、親父は頑として聞かなかった。
 理由は、考えなくてもわかる。
 思い出のせいだ。
 いまここで、あたしらが失敗すれば、それもみんな無意味だったことになっちまう。
 そんなのは嫌だ。
 なんとしても、なんとしても、繁盛させないといけない。
 あと7日。
 たった、それだけ。
 焦りが、燻る煙草のように彼女の胸を灼く。

 その夜、葉野香の眠りは浅く、短いものだった。
 思惟の糸が絡み合い、愚にもつかない発想ばかりが浮かんでは捨てられた。
 暗く閉ざされた部屋に、時計の秒針が進む音。
 壁の時計に、腕時計の音までが。
 残された時間の少なさをいちいち指摘するように。
 明け方近く、ついに両方止めてしまった。


 目覚めた時には、10時をまわっていた。ぼんやりとしたまま、階段を降り洗面所へ向かう。
ひとまず、頭をすっきりさせなくちゃと。すると、背広を着た達也が髪をとかしていた。
「兄貴、なんだよ、その格好」
 鏡越しに目線を向けて、達也が答えた。
「旭川に行ってくる。夕方には戻る、と思うけど」
「何しに」
 櫛を置き、ネクタイの歪みを直す達也。普段結び慣れていない証拠だ。義理事でもないと、まず
こんな姿にはならない。
「旭川に人気の店がある。どんな味なのか試してくる。それから、清美のところに行く」
「入れてくれるのか?」
 もちろん、清美さんの実家の話だ。以前彼女が家を出た時、連れ戻しに行って追い返されている。
「・・・さあな。でも、今日はちゃんと謝るつもりだ。謝って、事情を話して、帰ってきてくれって言うさ。
それで勘弁してくれるかどうかは神様次第ってやつかな」
「真面目に話、してこいよ。いつもの調子じゃ怒らせるだけだからな」
「わかってるよ。俺も、俺なりに考えたんだ。とにかく、一週間しかない。やれることはやるさ」
「・・・・・・・」

 この店を、北海軒を守りたい。それは達也も同じなのだ。
 取り戻すことのできない絆が、ここに残っている。

「じゃ、行ってくっからよ。あと、よろしくな」
 身支度を終えた達也が、革靴を引っ張り出した。
「わかったよ。でも、あたしも午後から出かけるから」
「そうか、わかった」

 そういや、清美さんのところに行くって、ちゃんと連絡入れたのかよ。バカだから、勝手にいるって
決め込んでるんじゃないのか? 先に電話しておいた方が・・・・・
 受話器を取り上げ、短縮ボタンを押す。連続する電子音が終わる前に、受話器を戻した。
 珍しく、本気になってるみたいなんだ。余計なことはしないでおこう。
 そうだ、あたしだってのんびりしていられないや。
 支度しないと。


 鷹条はそれより早く起きていた。
 ゆっくりと紅茶を飲み、すでに陽子伯母さんも出ていったリビングで一人、窓の外を見つめる。
「どうしたらいいか・・・・・」
 もちろん、北海軒のことだ。
 一度人気を落とした観光地が衰退を止めるのは難しい。熱海なんかいい例だ。飲食店だって
同じだろう。
 北海軒に、実力はある。札幌に来る前、ラーメン横町に地元の人は行かないという話を聞いた。
うまくないからだ。メディアで取り上げられると客が増え、混雑し、そのせいで味が落ちたり、工夫を
怠ったりする。北海道に限らず、珍しいことではない。
 けれど北海軒は違う。きちんとラーメンで勝負できるはずだ。これが唯一の強みだろう。なんとか、
それを活かす方法を見つけなくちゃいけない。
 正直に言えば、彼女の言うように新メニューだけでうまくいくとは思えない。突飛な材料を使った
ところで、今より美味しいものができるとは考えにくい。ありふれた材料では意味がないし。
 とにかく今は、この問題を第一に解決したい。
 自分のことは、とりあえず忘れよう。
 彼女のために集中しよう。

 なんとなく、理由もなく思った。
 これがいい形でけりがついたら、自分も新しく始められる。
 もしかしたら。
 それが、甘い考えじゃないように感じた。





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