第3章 木洩れ陽の競演



「本当に大丈夫?やっぱり病院に行った方がいいんじゃないかい」
 横顔を腫れ上がらせて帰ってきた翌朝。陽子伯母さんが心配気に傷を見た。
昨夜から何度も様子をみてくれる。
「もう、たいして痛くないから平気です。骨には異状ないみたいだし」
 気楽に笑ってみせる彼。実際は、まだかなり痛みはある。後を引く恐れはないだろうが。
「そうかい、それならいいけど・・・。ひどくなったら、近くの病院で診てもらいなよ」
 そう言って、伯母さんは出勤して行った。
 いくらか昨晩より腫れは引いたとはいえ、このまま街に出るのはためらいがある。夕方までは
おとなしくしていよう。


 葉野香は制服を着て、午前中から学校へ向かった。
 あまりよく眠れず早く目覚めてしまったが、性格で寝坊が好きじゃないのだ。
勉強するにも、自宅ではいつ寿商会の連中が来るかわかったものではない。朝っぱらから活動
するほど健康的な男どもではないだろうが、また呼び出しの電話がかかってくる可能性はある。
 幸い、図書室が解放されている。資料の必要な英文のレポートを片付けるにはちょうどいい。
正門をくぐると、今年も甲子園に縁のなかった野球部が練習する声がした。早々と学園祭の
準備をしているクラブもある。しかし、葉野香には、何の関わりもない。つかつかと日光を避け、
校舎に入っていった。


 雄吾はテレビのリモコンを取った。
 スイッチを入れた途端、歓声とブラスバンドの演奏が飛び出してきた。
 しばらく茶と緑のコントラストを無表情に眺め、電源を落とした。
 夕方までは長い。
 昨日、帰り際に北海軒の営業時間を確認しておいた。まだまだ時間がある。


 どうもうまくまとまらない。
 葉野香は辞書や参考書を閉じ、気分転換になるかと、早めの昼食を取りに図書室を出た。
校内の自販機でグレープフルーツ・ジュースを買って、人気のない廊下をバスケットを下げて歩く。
 中庭の木陰に腰を下ろし、バスケットを開けて作ってきたサンドイッチを手にした。
「午後からどうしようかな・・・」
 課題に集中できない。自分の頭の出来を過大評価しないが、こんなに進まないとは思わなかっ
た。
 原因は、わかってる。
 いろいろなことが、気にかかっているからだ。
「馬鹿な男ばっかり・・・・・」
 舌の縁に苦みが残っている。それは喉を潤した果汁のせいにきまっている。
 空になったジュースの紙パックを握り潰した。

 結局葉野香は、それから間もなく学校を出た。札幌の街路をぶらついてみるつもりで。
よく足を踏み入れる店をいくつかまわる。須貝ビルはその最後だった。
 最初に行くのは、どうしてか、ためらわれた。

 まさか、昨日の今日でここに来るはずがないだろう。
 そうは思うが、怪我の具合が心配だ。
 様子を見ておきたい。
 それだけだ。

 一回りしたが、姿はない。
 あいつ、もう、ここには来ないかもな。
 そりゃそうだよな。あんな目にあったんだから。 
 それとも、出歩けないぐらいひどくなったのか。
 でも、あたしには、どうしようも、ないよな。

 1時間ほど経って、彼女はゲームセンターの騒音から離れた。明日、もう一度だけ来るつもりで。


 雄吾は洗面台で傷を改めた。ガーゼとテープで大げさにならないように隠す。なるべく状態を
軽く見せておきたいから。恩着せがましく思われたくない。誰かのことを体を張って守ることが、
塵芥ほどの価値しかないことを知っているから。彼女はきっと知らないから。

 雄吾は開店時間から30分ほど過ぎた北海軒の店先に立っていた。時間ぴったりでは迷惑
だろうし、気味悪がられる。どうも、まだお客は入ってないようだ。他に誰かいたほうが入るのに
気が楽だが、昨日の様子では待ったところで大差はなさそうな雰囲気だ。
 引き戸をゆっくりと開けた。
 真っ先に彼女の顔が目に入る。

「いらっしゃい。また、来てくれたんだ」
 滑り出した自分の言葉に戸惑った。昨夜の別れ際に『また、来てくれ』と言ったのは忘れてない。
もしかしたら、と思っていた。でも、今日須貝ビルで見かけなかったことで、もう会う機会が
無くなったような失望感があった。
 そのせいなのか。「来てくれたんだ」なんて、まるでずっと待ってたみたいじゃないか。
「・・・怪我、いいのか」
 できるだけぶっきらぼうに尋ねる。
 それが自然なあたしなんだから。

「だいぶいいよ、傷も塞がってるし。そのうち治るさ」
 覆ってある殴打傷を、ちらりと横目で確かめる葉野香。
 どうやら、怪我は昨日よりひどくはなっていないみたいだ。跡が残らないといいけど。
「ま、座りなよ。食べに来たんだろ」
「おいしいからね。ここ」
 ラーメンが気に入ったと言われるのは、嬉しい。
 死んだ親父の味は、どこの店にも負けないはずだから。
「親父が30年かけて作った北海軒の味だからね。もっとも、兄貴が5年で落としたけど」
「聞こえてるぞ、葉野香」
 達也が割り込んでくる。これだけ客がいなくてすぐそこにいれば、耳に入るのは承知の上だ。
「それでも今はだいぶましになったっていうところだったんだよ。クソ兄貴」
「あーあー、そうかよ。そういう時は先に誉めろよな」
 包丁の音ががらがらの客席に響く。

 あ、そうだ。

「あんた、たかじょうゆうご、っていうんだよね」
「そう、だよ」
 彼は驚いたような反応を見せた。突然だったからか。
「漢字でどう書くの」
 彼はカウンターのペーパーナプキンに書いて、渡した。
「ふうん。ありがと」
「君のも教えてくれないか」
「いいよ。ペン貸しな」
 これがきっかけになり、お互いのことが話題になる。
 店のこと、家族のこと、学校のこと、年齢のこと。
 同い年だった。そうかなと思ってた通り。
 兄貴の奥さんのことまで話題にした。
 雄吾は頷きながら、もっと話してくれというように促していた。

 ふと、葉野香は、おかしな気持ちにとらわれた。
 なんで、あたしこんなに喋っちゃうんだろう。
 店のこととかは今更、隠すこともできないことだけど。
 観光客で、後腐れがないからかな。

 退屈なのか、達也が口を挟んだ。
「おい、お喋りはいいから仕事しろよ」
「客いねえのに、何しろってんだよ」
 確かに少し話に度が過ぎたかも。しかし開店してから、まだ一人も入店がない。珍しくもないが。
「いるだろうが。お前のボーイフレンドが」
 驚いて鷹条を見る。すると、下を向いて笑っている。
「そ、そんなんじゃねえよ、この、クソ兄貴!」

 なんで頬が熱くなるんだよ。
 ボーイフレンドなんてとっくに死語の言葉を使うからだ。
 こいつは、ただの客で。
 客なのに、「客がいない」なんて、
 何をいってんだろ。あたし。
 客なんだよ。

「注文は、どうするんだよ」
「そういえば、頼んでなかったよな。どうするか・・・」
 苦笑いを浮かべ、鷹条が壁のメニューに目をやる。
 その時、扉が乱暴に開けられた。

「相も変わらず、不景気な店だなぁ、ここはよ」
「へっ、これで営業してますってのは、悪い冗談だぜ」
「いい恥っさらしだ、まったくよ」
 鈴本とその子分の、野卑な声が轟く。
 爬虫類が昆虫でも探すような、嘗め回すような目つきで店内を一瞥する鈴本。その視線が鷹条の
ところで止まった。こいつは・・・。
「てめえ、昨日のガキじゃねえか! なにしてやがんだ!」
 若い衆の目が鈴本の顔と、反応せずにそっぽを向いている鷹条の後頭部を行き来する。
「こいつが、兄貴が言ってた奴ですかい?邪魔したっていう」
「そうだ。いいところで会ったぜ。ひとつ世の中の仕組みを叩き込んでやる」
「へっへっへっ。そりゃぁいいや」
 3人がにじり寄る。
 雄吾は動かない。動けないのか。
 葉野香が小声でせかす。焦りが滲む。
「あんた、逃げなよ。早く!」
「・・・無理だろうな。ここで騒ぎは起こしたくないし」
 抑揚のない小声で返事をする雄吾。
「何を、バカ、いいから逃げ・・・」
 鈴本が鷹条の隣に立った。もう話もできない。
「葉野香ぁ。余計なおしゃべりはやめようぜ。この兄ちゃんには、いろいろ用事があるんだよ。
その後で、おめえにもな」
 いきなり鷹条の首根っこを掴み、椅子から引きずり立たせる。
 転がり壁へぶつかる丸椅子。
「おら、何か言ってみな、黙ってちゃわかんねえぜ」
「・・・・・」
 顔を背けたままの鷹条。目を閉じている。
「てめえ、聞いてんのか!!!」

 鈴本の拳が振り上げられた。思わず目を閉じる葉野香。
「鈴本さん」
 強い声に、びくりとしたように鈴本を止めた。
「なんだ、左京」
 葉野香が見ると、兄貴が正面から鈴本に相対していた。
「こいつの不始末は、俺がお詫びします。すいませんでした。でも、今のこいつは客です。何が
あろうとも、客に手を上げさせるわけにはいきません。やめてください」
 しばらくの静寂が流れ、不気味に笑った鈴本が、鷹条を壁に突き飛ばした。頭を打って、ずるずる

滑り落ちる彼。カウンターを回り、葉野香が駆け寄って側に行く。
「ほう、言ってくれるじゃねえか。経営者さんよ。立派だなぁ。
・・・・・誰に向かって口きいてんだ! てめえ!」
 怒号が窓ガラスを震わせる。子分たちですら、気押されたように黙っている。
 だが達也は、視線を逸らさない。
「こんな店、俺たちの出方次第でどうにでもなるんだ! わかってんのか! 左京!」
「それは、わかってます。でも、この客は関係ないでしょう。手を出さないでください」
 正直、葉野香は驚いていた。ここまでしっかりと物を言う兄貴の姿を見たのはだいぶ前のことだ。
親父に弟子入りを頼んだ時以来・・・・・。
 目を血走らせた鈴本が左手を伸ばし、達也の胸ぐらを掴んだ
 その時。
「やめろ!鈴本!」
 鋭い声が戸を開ける音と同時に響いた。





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