第2章 終わりなき虚構



 小樽で過ごした一日も、雄吾にとっては自室で寝ているのと変わりばえしないものだった。
かつて父親を失って、理不尽な悲しみを背負った従兄妹が楽しんでくれたことが唯一の収穫
だろう。

 あれから3日。
 一昨日から彼女も合宿に行っている。
 1人で1日を過ごしているが、こうなると旅行に来て良かったような気分になる。
 東京では、家では家族が、外では知り合いが関わってくる。ここならそういうことはない。書店で
文庫本を買い、あちこちの喫茶店やファミレスでページを繰る。読み終わればそこの店でわざと
置き忘れる。幸い、喫茶店はたくさんある。テレビを置いてない店も、音楽しか流さない店も。


 北海軒に電話のベルが響いた。
 まだ昼過ぎ。出前の注文じゃなさそうだ。
「お〜い、葉野香ぁ。出ろよ。いんだろ」
 二階からするのは達也の寝ぼけた声だ。
 学校の図書館から戻ったばかりの葉野香は、しぶしぶ受話器を握る。親切ごかして騙くら
かそうとしてくる勧誘以外で自分に掛かってくることなどまずないのだ。
「はい、北海軒です」
「葉野香だな」
 酒でざらついた声で、すぐに相手がわかった。鈴本だ。
「・・・金の話なら兄貴にしろよ。いま呼んでくるから」
「お前に話があんだよ」
「あたしにはないね」
「しのごの言ってねえで、黙って来りゃいいんだよ」
 声がでかくなり凄味が入る。だからといって怯むほど彼女も甘くない。
「何の用さ」
「へっ、とにかくウチのシマに藤花ってバーがある。そこへ来い」
 いかがわしい場所のいかがわしい店。魂胆が見え見えだ。
「あたしはこれでも高校生でね。そんなとこには行けないね」
「なんだと、てめえ・・・」
「用があるなら、夕方に須貝ビルに来な。そこでしか会わない」
 言い捨てて罪もない受話器を叩きつけ、
 足を踏み鳴らして階段を登る。
 またも腑抜けた声。
「だれからだ〜」
「知らねえよ、クソ兄貴!」
 扉をぴしゃりと閉じる。
 呼び出されたことを言ったところでどうにもならない。弱みがある以上、無視するとさらに厄介に
なるのは間違いない。それでも須貝ビルという公衆の面前でなら、自分を守ることができるだろう。
 しっかりしなきゃ。


 夕方。彼は再び須貝ビルに入った。
 ここ数日ずっと通っている。
 ただ他人が遊んでいるのを眺め、いくらかをメダルに替え、少しずつ減らしていく。増やすつもり
など最初からない。時々出入口を見やるのは、あの左京葉野香という女の子が姿を見せるのでは
という僅かな可能性を求めているからだ。
 会ったところで、声をかけたりはしないだろう。話すことなど何もないのだ。
 迂闊に顔を合わしたりすれば、また喧嘩になるかもしれない。
 それでも彼女に会えればと思うのは、酔狂なのだろうか。

 彼女がゲームをしていた気配はなかった。またここに来る可能性は極めて低いように思われる。
だが札幌という大都市で、当てもなく街中を歩くのは徒労だろう。時間の許す限り、ここに足を
運ぼう。そう思って今日も来た。
 小銭を取り出そうと財布に手をやった時、ゲームセンターに不似合いな、野太い声が電子音に
混じった。
「左京さん、借りたお金は・・・」
 左京?
「だからって、柄の悪い連中引き連れて・・・」
 彼女だ。
 ヤクザ風の男と話している。どうも普通の会話じゃない。次第に男の態度が苛ついたものに
なっている。
 刺々しい言葉の応酬。
 ついに男が怒鳴りはじめた。
 店員も、男の素性を知ってか、隅の方で隠れるように見ているだけだ。


 ここまで馬鹿な男だとは思わなかった。
 露骨に腐った性根を吐きやがって。
 あたしをどうにかしようなんて、ふざけるのもたいがいにしな。
 もう我慢できるもんか。
 後で、あたしも店もどうなるかわからないけど、張り飛ばしてやる。

「よせよ。彼女、嫌がってるだろ」
 かつて肉体と精神に刻印された忌々しい証明を押し潰し、雄吾は二人に割って入った。
 ひたむきに練習に打ち込むことが許された時代に培われた強い意志力で、「やめておけ」
「また繰り返すのか」という内心の警告を閉じ込めた。

 不意に葉野香の視界を遮った背中。
 麻かなにかの、夏用の長袖のシャツ。
「なんだ、てめえ。関係ない奴はすっこんでろ!」
 ドスの効いた声がするが、突然出てきた男のせいで鈴本の姿は隠れている。
「彼女は僕の知り合いだ。左京葉野香。そうだろ」
 隙を見つけ、葉野香はその場を離れプリクラのカーテンにもぐりこんだ。

 誰だ、あいつ。ヤクザ相手に何考えてるんだ。
 背中しか見てないからわからないが、声からすると知り合いじゃない。大人でも警官でも
なさそうだ。
 物陰から状況を窺う。鈴本はあたしを捜してるようだ。
 男は立ち塞がったままだ。
 バカ、早く逃げろ。そこで相手してたら・・・・・

 怒りで血走った目がこっちに向いた。
 立ち去った彼女を見つけられないようだ。
 そろそろ殴りかかってくるな。
 かわせば、火に油を注ぐだけだ。庇っても倒れるまで何発でも殴るだろう。
 反撃は絶対にしない。してはいけない。
 たとえ相手がヤクザ者でも、二度目は許されないだろう。
 だから黙って殴られることに決めていた。
 運が良ければ、一発で済むかもしれない。

 左から衝撃が来て、視界が照明に当てられたように白く濁った。暗転する時、意識は途切れて
いた。捻れるように床へ崩れ落ちる。

 殴ったあと、さすがに人前だったことに思い至ったのだろう。鈴本はすぐに出ていった。傷害
事件となれば警察は遠慮しない。留置場が寛げる場所でないことは経験済みだ。

 葉野香は倒れたままの男を引きずり、トイレに入った。助けてくれた男にあまりいい対応では
ないが、やたらと重い。床も濡れてないので、いいだろう。
 そっと後頭部を触ってみる。短く整った髪は芝生のような感覚。傷もこぶもない。頭は打って
いないようだ。
腫れはじめた瞼にそっと指を乗せると刺激で意識が戻ったらしく、顔を歪めて声を出した。
「くっ・・・・・ここは・・・あれ・・・」
「大丈夫か?」
 雄吾の頭が整理されてくる。そうだ、殴られたんだ。
 どんどん左目の視野が狭くなるのがわかった。
 血流が脈打つたびに痛みが走る。
「ここ、どこ?」
「ゲーセンのトイレ。安心しな。男女共用だから」
「君、逃げたんじゃなかったの。ここにいたら、また・・・」
 自分のことを心配するのが先だろうに。たいしたお人好しだね。こいつ。
 変な奴だなと思いながらも、呆れる気にはならなかった。
「ゲーセンは、隠れるとこいっぱいあるからね。プリクラに入って様子見てたんだ。もうあいつは
出ていったから、心配ないはずさ」
「あの男は、なんなの」
「ヤクザが看板替えた、寿商会って金貸しさ。うちが借金してねね・・・・・。あんた、高校生だろ」
「ああ」
「助けてくれたのは感謝してる・・・・・
でも、あんまりあたしみたいなのに関わらない方がいいよ」
 視線を逸らし、そう呟くように話す彼女には諦めに似た寂寥感が漂っていた。

 関わらない方がいい。
 前にもどこかで聞いた言葉。
 自分で自分に教えた言葉。
 彼女から聞くことになろうとは。

「立てるかい?」
「大、丈、夫だな。一発もらっただけみたいだし」
 壁に添えた手を頼りに体を起こす。
 いくらかふらつくが、歩けないことはなさそうだ。
 左目しか見えていないせいで傾いてしまう体を彼女が支えてくれた。
「あたしんち、近くだから寄ってきな。怪我そのままじゃひどくなるから」
 確かに痛みは増すばかりだ。このまま戻ったら伯母さんにまた心配をかけてしまう。遠慮
しない方がよさそうだ。

 実際のところ、遠慮したくない気持ちがはっきりとあった。
 ようやく、出会えた。
 一度目に劣らずひどい出会いだったが、この際問題じゃない。
 口元に止めようがなく苦笑が浮かんだ。
 なかなか印象的な巡り合わせだな。


 夕闇に沈みはじめた札幌の街。
 手で左目を隠す彼と眼帯で左目を隠す彼女。
 どこかでなにかが重なる二人だった。


 葉野香は彼の表情の変化に気がついた。
 こんな目にあって何笑ってんだろ。
 まだぼぅっとしてんのかな。おかしな奴。
 あれ、どこかで会ったことがある?
 どこだったか・・・・・
 そういえば、あたしの名前、なんで知ってたんだ。


 北海軒までは歩いてすぐ。幸い鈴本にも出会わなかった。
「その辺に座ってなよ。いま、薬とか持ってくるからさ」
 確か、昔親父が使ってた部屋に救急箱があったな。
 いつものように客は一人もいなかった。
 ヒマそうにつっ立ってる兄貴は別としてだ。
 しかし、「葉野香、なに男連れ込んでんだよ」とは事情も知らずふざけた言いぐさだ。誰の
せいでこんなことになったのか。
 憤然と言い返す。
「怪我してんだからしょうがねえだろ。まったく」
 バカ相手にしてる暇はない。瞼がもう群青色になっている。急いで救急箱を取ってこなくちゃ。


 家はラーメン屋なんだ。でも、えらくさびれてるな。
 借金してるのは商売がうまくいってないせいかな。
 掃除はそこそこ行き届いてるし、古びた感じも老舗っぽくて悪くないような・・・・・
 ・・・・・痛い・・・・・
 あまり今は考えがまとまらないな。
 彼女の兄らしい人物が怪訝そうに顔を見てきた。
「兄ちゃん、どこでそんな怪我したんだ?」
「え、ちょっと・・・」
 話していいものか、言葉に詰まった。

「鈴本に、殴られたんだ」
 葉野香が救急箱を持って階段を降りてきた。
「ほら、ぼーっとしてないで、ビニール袋に氷と水入れてさ、こっちによこしなよ」
「お、おう」
 慌てて達也は冷凍庫のある裏手に回った。
「手、放しなよ。薬塗るからさ」

 かなりの腫れだ。何も言わないけど、きっとものすごく痛いはずだ。皮膚が切れたところから
血も出ている。消毒薬を塗った時は、さすがに顔をしかめた。あとは冷やすぐらいしかない。
「これでいいだろ、よう」
 達也が氷水を持ってきた。
 手ぬぐいで包んで彼の顔にあてがう。
「ありがとう」と彼。
 それはこっちの台詞だ。
「いいから、ちゃんと持ってなよ、それ。あ、そうだ」
 大事なことを忘れてた。
「あんた、名前は?」
「雄吾。鷹条、雄吾」
「あたしは左京葉野香。知ってたっけ」
「前に、あのゲーセンで会ったよね」
 憶えがない・・・が、そう言われてみれば、こないだ文句つけた3人組の1人だったような気が
する。兄貴が心配気にのぞきこむ。
「しかし、なんだって鈴本なんかと関わって・・・」
「今日、電話であたしが呼び出されたんだ。用件は想像つくだろ。だから須貝ビルで会ったんだ」
 悔しげに唇を噛む達也。
「しつこく絡んできやがって、それでこの人、助けてくれたんだ」
「おい、あんまり面倒おこすなよ」
 自分のせいなのはわかっているが、すぐに詫びたりできないのが達也の数多い欠点のひとつ。
反射的なもので悪気はないのだが。
「元はといえば、兄貴が借金したのが悪いんだろ。しかもギャンブルなんかに注ぎ込んで。
あんなの国が認めたぼったくりじゃないか」
「あーあーあー、わかったよ。俺が悪かったよ」

 この兄妹の会話は面白い。不謹慎かもしれないが、愉快な気持ちがこみ上げてくる。失礼に
ならないよう、彼は顔を冷やす袋で口元を隠さなくてはならなかった。

 妹を助けてくれたお礼にと、ラーメンをご馳走になる雄吾。彼女も手伝って丹念に仕上げられた
味噌ラーメンは、なかなかの味だった。お客がこないのは、不景気や料理のせいじゃないとしか
考えられない味。
 だけど、麺をすすりながらも兄と妹の会話に耳を傾けてしまう。

「・・・あー、暇だ。隣の店にも向かいの・・・」
「・・・死んだ演歌歌手とか、麻薬で捕まった・・・」
「・・・親父の代から・・・」
「・・・内装とか変えたら・・・」
「・・・おしゃれなんて言葉が出るとは・・・」
「うるせー。クソ兄貴」

 おかしくてしょうがない。
 深刻な話なのに、どうしてこんなにおかしいんだろう。
 口元が緩み、顔を上げていられない。
 大声で笑い、膝を叩き、腹をかかえたいぐらいだ。
 気絶するほど殴られ、自分の顔は腫れ上がり、借金苦で潰れかけの店にいる。
 降ってわいた不幸のはずだが、長い間感じることのなかった感覚がある。
 これは、なんだろう。

 葉野香は、食べ終わった彼をすすきの駅まで送った。観光客で、この辺りに不案内だろうと
思ったからだ。
「今日は、ありがとな。よかったら、また、店に来なよ」
 ふと、これじゃコイツを待ってるみたいに聞こえると気がついた。
「今度は、金、払ってさ。じゃ」
 あくまで、お客として、来てくれたらいい。そういうことだ。
 頷いて、彼は地下鉄の階段に消えていった。


 その日の夜。
 葉野香は日記をつけながら今日のことを回想した。
 時間を追って、出来事をペンに乗せる。

 鈴本め。思い出しても腹が立つ。

 アイツの名前、漢字でどう書くんだろ。
 聞いておけばよかったかな。

 すすきの駅。
 私、なんで、わざわざあんなこと言ったんだろう。
 駅なんか近いんだから送らなくても平気だよな。
 やっぱり、前に喧嘩した相手に助けられて、負い目を感じてたのかな。
 それは別に、当然のことだよな。助けてくれって頼んだわけじゃないけど、助けられて、
はいさよならってするほど軽薄な人間じゃないつもりだし。

 閉じた日記を鍵付きの引き出しにしまいこみ、部屋の明かりを落とす。
 寝苦しい夜になりそうだった。





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