第1章 原罪という傷跡



 舗装道路の向こうに、陽炎で歪んだ都市の死骸が横たわる。
 干からびた直線道路は悪意によって振り下ろされたナイフの痕のよう。
 たとえどれほど僅かな日々でも、必ず夏はこの街にも姿を見せる。
 いまいましいことに、誰のところにも。
 不必要に重い鞄を下げた彼女は、校舎のベルに背をつつかれながら、休暇の日々を迎えた。
 左京葉野香の夏休みは、またも独りきりで始まる。





 その頃、東京のある私立高校。
 彼は、誰の姿も残っていないグラウンドを見つめていた。
 どこかから響いてくるのは、クラクションと解体工事のノイズ。
 焼け付く陽差しと蝉時雨。
 赤い縫い目が土に汚れた硬球が転がっている。
 遠目にも錆が浮いたサッカーゴール。
 そして灰色にくすんだ自分。
 なにもかも、時に鞭打たれて崩れ落ちてゆくようだ。

 7月最後の日。
 東京の西部に位置する住宅街では、彼が重い鞄に抱えた荷物を詰め込んでいた。
 衣類、洗面道具、文庫本、そしてセピア色の傷跡。
 机の上には一枚のエア・チケット。
 彼は明日、札幌の大地を踏むことになる。

 二人が出会う街、札幌へ。

 今はまだ、影だけをパートナーとして。




 彼に旅を勧めたのは母親だったが、どうやら父の強い意向があったようだ。この一年の間に
起こった出来事にけりをつけることが必要だと思っていたらしい。息子が当たり障りなく、慎重に
日々を送る姿を見ているのにいたたまれなくなったのだ。

 先月のこと。

 彼、鷹条雄吾が学校から戻ると、きちんと整頓してある机の上に見慣れない封筒が置かれて
いた。大手航空会社のロゴマークも鮮やかに。
 予期できない不安と疑念が内臓を締め付ける。既に習い性になってしまった用心深さが指先に
振動を伝えていた。そっと中身を取り出す。
 だがそれは羽田−新千歳間の往復航空券だった。出発日は7月31日。一分ほど考えあぐね、
洗濯物を畳んでいた母に尋ねてみた。
「母さん、これ・・・」ひらひらとチケットを見せる。
「どう、行ってみない?」
 返事は手を休めず顔も上げないないままだ。
「みんなで行くの?」
「違うわよ。あんた一人で」
「・・・・・・」

 無言に込められた消極がわかったのか、心配気に顔をのぞきこまれる。
「行きたくない?」
「そうじゃないけど、なんで突然さぁ」
「父さんが出張で貯めたポイントでもらえたんだよ。マイレージっていうの。でも父さんは仕事が
ほら、休めないし、母さんも父さん置いて行けないだろ。だからさ」
「・・・じゃあ、ポイント使わなくても・・・」
 当然な疑問が浮かぶ。
「いいから、行っておいでよ。陽子伯母さんのとこに泊めてもらえるからさ。あそこなら気楽に
してられるだろ」
 ぼやけた印象が彼の意識に漂った。動きがなく、優しく微笑んでいる肖像。それは記憶では
なく、写真という枠で区切られた記録としての伯母だった。そして隣には小学生にもなって
いなかったはずの従兄妹の姿もあった。
「でも、もう何年も会ってないよ。いきなり行ったら迷惑かけるよ」
「そんなことないよ。響兄さんがああなっても、親戚なんだから。電話したら、ぜひおいでってさ」
 どうやら既に話は進んでいるらしい。
 行かないで済む合理的な理由が、もう底をついてしまった。
「じゃあ、予定がなかったら、行くよ。まだわかんないけど」
 実際のところ予定が入る可能性は、ほとんどない。母もそれがわかっている。ようやく承諾した
息子にほっとしたようだ。
「そうしな。若いうちに旅行するのはいいことだからね。
券が無駄にならなくてよかったよ。ほんと」

 空港へ向かう電車の車内で、雄吾はこのやりとりを思い返していた。
 両親は、なんとか息子に立ち直るきっかけを与えたかったのだろう。日常から離れ、背負い
続けているものを忘れる場所があれば、元に戻れるのではと期待をかけたのだ。見知らぬ
土地なら捨ててしまうことだってできるだろうと。
 それがわからないほど鈍感ではない。

 正直、旅などしたくはない。

 でも、自分のせいでこれ以上両親に心配させたくない。
 北海道から帰って、元気になった振りをすれば安心してくれるだろう。1年前までそうだった
ように、気を使わないでくれるはずだ。そのためなら2週間程度の旅行など何でもない。父にも
母も、ずっと自分のせいで苦しませてしまった。そろそろ息子の罪から釈放されていいはずだ。
囚人は自分だけでたくさんだ。

 だが、もう、もとの自分に戻れはしないのが、わかっている。
 もう二度と。




 新千歳空港には、伯母ではなく従姉妹の春野琴梨が迎えに来てくれた。
「お兄ちゃん」と呼ばれるのが少々照れくさい。
 夕方になって帰ってきた陽子叔母さんも、親切にしてくれる。
 二人は、事情を知っているのだろうか。
 きっと叔母さんは知ってる。琴梨ちゃんは、どうだろう。

 翌日、彼は琴梨の案内で札幌市内を観光した。時計台も旧道庁も関心はない。ただ誘って
くれた彼女に悪いので、話を合わせて笑顔を見せる。あまり沈んだ様子を出していると、東京に
戻った時に快活に振る舞っても、話が伝わって演技であることがわかってしまうかもしれない。
「ねえ、冬にもう一度おいでよ」
 そう持ちかけられて反射的に承諾はしたが、きっと守れない約束になるのだろう。
 やがて誰にでも訪れる新しい季節を、彼だけは傍観者として生きているのだから。
 


 左京葉野香は、英和の辞書を片手に机に向かっていた。周囲からどのように思われようと、
学生としてやるべきことはこれまでもこなしてきた。
 高校に通う。
 彼女にとって、それは当たり前のことではない。
 死んだ父が残した限りあるお金があってのこと。もし退学にでもなったら進学も就職も
ままならないのだ。

 お気楽に女子高生やっていられる、その辺の子らとは違うんだよ。

 気温が上がらない午前中に課題に取り掛かるのが習慣。
 北海道の夏休みは短い。それでも課題はきっちり出る。生まれ持っての性格で、予定を立てて
着実に消化していく彼女にとっては難しいものではないが。
 
 午後からは、どうしよう。
 ここにいても暑いだけだし、どっか行くか。


 
 連れ出されるままに雄吾は琴梨、そして彼女の親友だという川原鮎と須貝ビルなるアミューズ
メント・スポットに入った鷹条雄吾。ゲームセンター、カラオケ。こういったところから離れて随分に
なる。だがこみ上げてくるのは懐かしさではなく、幼稚でいられた頃の愚かさに向かう後悔ばかり。
 無意識のうちに左手は、長袖シャツの薄い生地に覆われた肘をさすっていた。


 葉野香は自分で昼食を作り、済ませると札幌の繁華街を歩いた。
 兄貴はいつまでも寝ていた。いつものように放っておく。
 本屋でさほど興味もない雑誌をめくり、CDショップを覗く。
 やがて須貝ビルに足を運んだ。
 ゲームなどするつもりはない。できれば喫茶店に行きたいところだが、家計と店の売り上げを
思えばそうそう無駄な出費はできない。その点ゲームセンターなら缶コーヒー1本で済む。
エアコンが効いていて、椅子もある。騒がしいのを我慢すればいい。


 琴梨と鮎。二人は普通の女子高生として今を楽しんでいる。眩しいほどの活力が放散され、
前だけを向いて歩ける勇気がある。
 彼女たちと泡沫的な会話を交わしながらも、雄吾は楽しむ振りをする自分を冷たく蔑視していた。
欲しくもないぬいぐるみをUFOキャッチャーで取って、彼女たちにあげたのは嘘をつき続けている
謝罪のつもりだった。

 3人で競争して罰ゲームをすることになったクイズゲームは、もともと得意だった。
しかし、トップになって喜ぶことも最下位になって二人を楽しませることもできないことがわかって
いた。だから2番目になるように、わざと知ってる答も間違えた。

 時期遅れとなって、誰もコインを入れないビデオゲーム。
 そこに座って繰り返される刺激的な画面を無関心に眺めていた葉野香。
 ゲームの効果音よりも大音量で、自分と同じ年頃の少女が甲高い声を張り上げる薄っぺらい
ポップスが店に流れ続ける。
 この手の流行歌が嫌いだった。
 彼女の背後で、似たような笑いさざめく声がする。
 なぜだろう。
 なぜだろう。
 立ち上がり、手の中で弄んでいた空き缶を筐体に向け振り上げた。

 次はカラオケか。
 かつては音楽にも傾倒していただけに、苦痛が伴いそうだった。
 好きな曲ほど、今は歌いたくない。
 湿る吐息を、二人の背中を見ながら飲み込んだ彼。

「うるさいよ、あんたたち!」

 言葉の一閃が、そこにいた全員に突き刺さる。
 誰一人の例外もなく。
 彼女自身にも。

 驚いて振り返った雄吾の視線の先に、左目だけでこちらを見据える少女がいた。
 右目には白い眼帯。
 しかし彼の意識は、左へと吸い寄せられていた。
 猛禽のように烈しく、鋭く、気高い瞳。
 いかに輝いていても、宝石などと比較できない生命の雫。
 僅かの瞬間が走り去る。
 凍てついた彫像のように、彼は彼女の瞳だけを見つめていた。


 ふと神様が指を鳴らしたように、現実に立ち戻る雄吾。
 春野琴梨は脅え、謝っている。
 反撃する川原鮎。
 罪が蟻酸のように肉体を苛む。
 左手の甲には麻酔を受けた時のような濁った痛み。
「ちょっと、君、喧嘩はやめようよ」
 そう口にするのが精一杯だった。張りのない声は、「外野は黙ってな!」の一言でかき消されて
しまう。
 心を裏返すことで閉じこめていた過去が悲鳴をあげる。
 二人を守ってやりたかった。
 しかし脳裏をよぎる映像が彼を痺れさせ、朽ちた樹木ほどにも動くことができなかった。

 あの時もこうなっていればよかったのに。


 なにやってんだろ。あたし。
 こいつらがうるさかったら、あたしが店を出ればいいだけ。
 それぐらいわかってるのに。

 琴梨が彼女を遊びに誘うという常識外の対応で、眼帯の少女は呆れたように離れていった。
川原鮎が言うには、彼女、左京葉野香はこの辺りでは有名な不良らしい。あちこちで問題を
起こし、被害にあった同年代の人たちもいると。
 聞きながら、雄吾は彼女の出ていった自動ドアを見ていた。
 再び開くのを待っているかのように。

 誰もいない小さな公園。
 熱く灼けた感情をもてあます葉野香がいた。
 混在する名前のない想いがあてどなくさ迷い、行き場を失って蠢いている。
 独りきりで。

 夜。
 雄吾はベッドに腰掛け、左手を見つめた。
 引き裂かれた皮膚と希望の跡を。
 カラオケボックスで二人きりになった時に、川原鮎からデートに誘われた。
 自分に関心を持たれて嬉しくないわけではないが、断った。
 この街には、なにも残してはいけないから。
 夕食の時には琴梨ちゃんにも誘われ、こちらは世話になってる以上、断りにくかった。

 明日もまた、あらゆる人を欺かなくてはならない。







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