第4章 アコーディオン・ロード



 まず、友達をつくることからだった。
 みんなを笑わせたりすることは苦手だったが、豊富な知識のお蔭で、話を合わせることはそう難し
くなかった。自主性を重んじる校風だったことで、肩肘を張る必要もなくなっていた。
 読書好きの、当たり前の女子高生に僅かずつ近づいていけた。
 仲の良いクラスメートも出来た。
 ボーイフレンドも。
 彼氏も。
 その反面、対抗意識が乏しくなったせいか、成績は少し下がった。しかし両親は、生き生きと学校
へ向かう今の彼女の方をこそ、安堵の念をもって見つめていたようだ。

 それでも、心の内から冷徹な観察者が去ることはなかった。


 自分を変えたつもり?

 周りの人に嘘をついているだけじゃなくて?

 本当にその人が好きなの?

 いつだってあなたは、独りでいたいんじゃないの?


 笑顔でいる時に、こんな声で表情が凍り付くことが時折ある。誰にでもある二面性だと、苦笑して
振り払うことが、まだできなかった。
 時間がかかる。
 結局、進路についても結論を出せなかった。

 受験が近づいた時、まだ大抵の大学は合格圏内だった。ぜいたくな悩みとも思ったが、やむなく
様々な学部を受験した。カリキュラム上、いくらか成績の良かった理系コースを選択していたが、
英文学や社会学、哲学まで受けた。そして医学部に工学部など。
 するとほとんどに合格。
 医学部を選んだのは、消去法とさえ言えた。

 卒業してから、ありきたりのOLにはなりたくなかった。
 なっても、うまくいきっこない。
 学問の道に興味はあったが、仕事らしい仕事がしたかった。
 大きな組織の中で埋没するのも嫌だった。

 技術を身につけてさえいれば、いざという時に自分でなんとかできるだろう、と思えたのが医学部
だったのだ。
 両親は、素直に喜んだ。国立大だった上、自宅から通える。学費も充分支出できる状況だった。

 かつて日本最初の女医、荻野吟子の話を読んでいた。そのときは辛苦に耐え、道を切り開いて
いった彼女の生涯に感動を覚えはした。パスツールやコッホの功績も読んだ。そんな時は、医学を
志すような気分になった。
 だが、雪山を征服したクライマーや異民族から同胞を守った偉人の伝記を読んだ時と比べて、
何かが違っていたわけではない。ソムリエールの話を読めば、やはり憧れたのだ。

 そんな薫にとって、明確な目標として女医を目指す親友は羨ましく、そして指針になった。


 一昨年、親友の彼女は一足先に、研修医として臨床にタッチすることになった。とはいえ、まだ
新米。具体的な治療行為は先輩医師と看護婦の役目だった。
 そこで事件が起きた。

 大学病院に入院していた患者が、投薬ミスと思われる状況で死亡したのだ。

 病院側が隠蔽を図り、しかも失敗したため問題は更に大きくなり、訴訟、社会問題化する気配を
見せた。
 病院の上層部は関係者から事情を聞き、処分を発表した。

 責任を取らされたのは、親友だった。

 主治医の判断を間違って受け取り、看護婦に不適切な投薬を指示したとされたのだ。

 病院内では、噂はすぐに広まる。実際に誤りを犯したのはカルテに記述ミスをした担当医であり、
看護婦に指示を出したのも彼だった。親友は指導を受けるためそこにいただけに過ぎないのだと。
 だが、担当医は北海道の医学会で隠然たる影響力を持つ人物の息子だった。厚生省から製薬
会社まで一目置く人物によって、この医師は守られたのだろう。それは明白だった。
 親友には、なにもなかった。

 不服を言い立てることもできたが、病院側は医師免許剥奪をちらつかせて妥協を迫ったらしい。
弁護士に相談したが、秘密性の高い病院社会では、結果は期待できなかった。結局、剥奪寸前
まで行ったが、これまでの熱心さとそれまで指導してきた女性教授の支持もあって免れた。

 後ろめたさがあったのだろう。大学は彼女を東京の私立医大へ送った。

 札幌を離れる最後の夜、薫は彼女と二人だけで会っていた。
「私は大丈夫。挫けたりしてないわよ。こんなことは決して繰り返させない。利権や性で差別される
ようなこの社会をきっと変えて見せるから」
 薫は、返事ができなかった。誰かのために流した、初めての涙のせいだった。
「しっかりして。薫が泣いてどうするの。ここで、私の分まで頑張ってほしいんだから」
 嗚咽が止まらないまま、何度も頷いた。
 親友のために何もできなかった彼女にとって、大切な約束となった。


 そして今日。親友は医師会の会合で知り合ったという開業医と結婚式を挙げた。
 新郎は、明治時代から続く医師の家柄だという。
 今後は彼の病院で、小児科を専門にしていくことになると。
 多くの出席者のなかで、札幌から来たのは彼女とあの女性教授だけだった。医学会の関係者が
周囲を占める中、居心地が悪かった。
 幸せを掴んだ彼女は、輝くばかりに微笑んでいた。
 おめでとう。心からそう言った。

 男たちのあからさまな二次会の誘いを、「明日早いから」と断り、ホテルに戻った。そんな気分に
なれなかった。

 彼女が目標を捨てたとは思わない。個人の病院であっても、閉鎖的な医学の世界を変える試みは
続けられる。その経緯から辛い立場にあった彼女を、いつも支えてくれたという彼も、同じ想いなの
かもしれない。
 愛し合い、結婚というひとつの環境を求める気持ちを理解するのは容易だ。

 問題は、薫の方にあった。

 もう何杯目になるだろう。飲み干したタンブラーをカウンターに突き出した。


When you're weary feeling small
When tears are in your eyes.I will dry them all
I'm on your side.Oh.when time get rough
And friend just can't be found
Like a Bridge Over Troubled Water
I will lay me down
Like a Bridge Over Troubled Water
I will lay me down

生きることに疲れ果て
みじめな気持ち
つい涙ぐんでしまう時
その涙を俺が乾かしてやるさ
俺はお前の味方だぜ
どんなに辛い時でも
頼る友が見つからない時でも
荒れた海に架ける橋のように
俺はこの身を横たえよう
荒れた海に架ける橋のように
俺はこの身を横たえよう

When you're down and out
When you're on the street
When evening falls so hard
I will confort you
I'll take your part
Oh.when darkness comes
And pain is all around
Like a Bridge Over Troubled Water
I will lay me down
Like a Bridge Over Troubled Water
I will lay me down

お前が落ちぶれて
街角に立つ時
夕暮れが冷酷に垂れこめる頃
お前を慰めてやろう
暗闇が立ちこめ
苦痛がお前を覆い包む時
俺が身代わりになろう
荒れた海に架ける橋のように
この身を横たえよう
荒れた海に架ける橋のように
この身を横たえよう

Sail on silver girl
Sail on by
Your time has come to shine
All your dreams are on their way
See how they shine
Oh.if you need a friend
I'm sailing right behind
Like a Bridge Over Troubled Water
I will ease your mind
Like a Bridge Over Troubled Water
I will ease your mind

出航するのだ、銀色の乙女よ
帆を上げて海を渡っていこう
今こそ、お前は輝くのさ
お前の夢はすぐそこまできている
ほら、眩しい光で輝いているのが見えるだろう
ひとりで心細いのなら、
俺が後ろからついていってやるさ
荒れた海に架ける橋のように
お前の心を和ませよう
荒れた海に架ける橋のように
お前の心を和ませよう


 先客たちは、静かに聞き入っていた。こちらを見もしない。
 かなりの時間が経っているはずだが、他の客は一人として入っていない。
 感覚が酔いに痺れ、知らぬ間に出入りがあったのだろうか。

 幸せになってね。
 今日二度目の台詞だった。





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